第24章 漢陽平定
武漢自経団は、漢陽、漢口、武昌の3つの地区からなり、それぞれに自経団の支団が組織されている。武漢自経団の責任者たる書記と副書記2名は、原則として支団の責任者である支団書記を兼務している。
主な登場人物
ミヤマ・ヒカリ:本作のメイン・ヒロイン、ネオ・トウキョウでターミナルケアを生き延びた。大陸の武昌に辿り着き、コンピュータ修理の仕事をしつつ、武昌支団の非常勤の幹部を務めている
楊清立:(ヤン・チンリー)ダイチの従伯父、武漢自治組織の元トップ、現在はダイチたちの顧問役
徐冬香:(シュ・ドンシアン)楊清立の妻、武昌支団の幹部の一人で裁判所を統括する
趙秀清:(チャオ・シウチン)武漢書記兼漢陽支団書記
鄭立閣:(チェン・リーグア)漢陽支団の幹部の一人で裁判所を統括する
孫強:(スン・ジアン)武昌支団副書記、ダイチを補佐し、公安系を統括する
梁平戦:(リアン・ピンジャン)漢口支団の幹部の一人で裁判所を統括する
林昆生:(リン・クンション)漢口支団副書記 公安系を統括
ミヤマ・ダイチ:ヒカリの従兄、中国名は楊大地 (ヤン・ダーディ)、武漢副書記兼武昌支団書記
馬興栄:(マー・シンロン)武昌支団幹部の一人
王義衛:(ワン・イーウェイ)武漢副書記兼漢口支団書記
許浩然:(シュ・ハオラン)漢陽支団副書記 民生系を統括
グエン:ベトナム人、中国名は阮華 (ルアン・フア)、武昌支団の幹部の一人でヒカリの上司
謝瑞麗:(シエ・ルイリー)武昌支団幹部の一人
宋睿:(ソン・ルイ)武昌支団幹部の一人
武漢統一司法規則第52条(最高法院の設置および運用)
「武漢最高法院は、3地区のうち2地区の公安局局長より請求があり、3地区の法院院長のうち2名以上が同意することにより設置される。最高法院は3地区の法院院長により構成され、武漢全体に管轄権を有する。最高法院で審理する事件については、各地区の公安局長が、自らの地区以外の地区の者についても訴追する権限を有する。最高法院の判決および決定は3名の法官の2名以上の賛成によりする。ただし銃殺刑、15年を超える禁錮刑、1000万真元を超える罰金刑を判決とするには、法官全員の賛成を必要とする」
顧問の楊清立と法院院長の徐冬香は、漢陽対策の切り札として、久しく使われることのなかったこの条項を使うこととした。
[私が書記を退任する際の最大の悔いは、漢陽書記の趙秀清を解任するどころか、「3地区持ち回り」の慣例で彼が武漢の書記に就任するのすら防げなかったことだ]と楊清立は。低い声で妻の徐冬香に語りかけた。
[「他の支団への介入は行わない」という不文律がずっと貫かれてきましたからね]
[今となっては、そのようなことも言っていられない。少々手荒でも一気に片づけなければ。漢陽の法院を通じての工作も進んでいるかい]
[漢陽の法院院長の鄭立閣が、かねてから公安局の良心的な分子を使って、極秘裏に材料を集めてくれているそうです]と冷静な声で答える徐冬香。
[少なくとも、5年はぶち込めるくらいの材料は必要だからね]
[民政局担当の副書記と、技術局の局長も我々の側についてくれたようです]
ダイチたちが漢口を訪問した14日に、楊清立は漢陽の趙秀清に16日の午後の面談のアポを取った……16日の趙秀清との面談から戻った楊清立は、
[まるで話にならん。まあ予想通りといえばそういうことだが]と、吐き捨てるように言うと、ダイチを初めとするマオ委員会の面々に、面談の内容を話して聞かせた。
先方に着いた楊清立と徐冬香に対して、漢陽の趙秀清は開口一番[ご老体二人が揃いも揃って何のご用事ですかな?]との「ごあいさつ」。マオのことを話すと[いろんな連中が騒いでいるやつ。シェルターに入ってやり過ごせばすむことでは]と答えた。どれだけ深刻な事態かを説明し、ネオ・シャンハイへの避難の計画について切り出すと、[連邦の連中に頭下げろってことですかい?]と応じ、挙句の果てに[ネオ・シャンハイに連れてく連中には、いくら払って貰えるんですかねえ。「命の値段」なら一人1000万塊(元)くらい貰ったっていいところでしょう]と金の亡者ぶりを顕わにした。帰ろうとする二人に、趙秀清は[今度は、手土産の一つくらい持ってきて下さいよ、礼儀でしょ]と雑言を浴びせかけた。
[…というわけで、孫局長の出番だ。よろしく頼む]と趙秀清。
[了解です。漢口の林局長に話をします。最高法院設置の請求書の提出先は徐院長でよろしいですか?]と孫強は尋ねた。
[いえ、今回は最高法院を漢陽に設置するので、漢陽地区法院院長の鄭立閣に提出して下さい。話はしてあります]と徐冬香。
翌17日。8月も後半に入り「夏の最後のひと踏ん張り」だろうか、朝から猛烈に暑く、日差しの下にいると体がとろけて街路の舗装にそのまま貼りついてしまいそうだった。
そんな空気の中、「熱い」1日が始まろうとしていた。
9時少し前、漢陽地区法院のオフィスの一室に漢陽地区法院院長の鄭立閣、漢口地区法院院長の梁平戦、そして武昌地区法院院長の徐冬香が、それぞれに随行の法院書記員とともにスタンバイした。9時ちょうどに武昌公安局局長の孫強と漢口公安局局長の林昆生が入室した。それに続いて立会人として入室したのが、武昌から顧問の楊清立、書記のダイチと監察局局長の馬興栄、漢口から書記の王義衛。
全員の入室と扉が閉じられたことを確認すると、孫強が[武漢統一司法規則第52条の規定に基づき、武漢最高法院の設置を請求します]と述べ、孫強と林昆生がそれぞれ請求書を漢陽地区法院院長の鄭立閣に提出した。鄭立閣は書面を確認し、他2名の法院院長にも一読させると、[武漢最高法院設置の請求が適法になされました。設置の目的は漢陽地区における贈収賄事件および賭博事件に関する訴追および審理、判決、その他関連する決定を行うこと、とされています。私は設置に同意します]と述べた。続いて漢口の梁平戦が[同意します]と述べ、武昌の徐冬香が[同意します]と述べたことを受け、鄭立閣が[武漢統一司法規則第52条の規定に基づき、武漢最高法院が現時点をもって設置されました]と宣言した。
30分ほどのち、法院オフィスを出て支団オフィスに向かう孫強に、楊清立は同行した。漢陽警務隊のうち2名が孫強に従っていた。支団オフィスの重たいドアを警務隊の2名がそれぞれ左右の側について軽々と開ける。オフィスの全員の目が進入者に注がれる。少し遅れて漢口公安局局長の林昆生が、4名の漢陽警務隊員を引き連れて入ってきた。
緊迫感と好奇心に満ちた視線を浴びながら、孫強と楊清立は支団オフィスの奥にある、周囲から壁で区切られた支団書記の部屋へと向かった。扉をノックすると、[誰だ?]と漢陽書記の声が返ってきた。
[武昌公安局局長の孫強です][楊清立だ]
趙秀清がアシスタントに[お通ししろ]と指示する。
アシスタントが扉を開けると、孫強、楊清立、警務隊員2名の順に中に入る。子飼いの警務隊員の顔がそこにあることを見て、趙秀清の顔に衝撃が走った。
[お前たち、いったい何のつもりだ?]
孫強がアシスタントに[部屋から出るように]と命じ、バッグひとつ持って出て行った。
[仰せにしたがって、今日は手土産を用意してきた。しかも二つだ]と楊清立。
[どちらからいきますか]と孫強が聞く。
[まずは身柄の確保だな]
椅子に座ったままの趙秀清の両脇に、2名の屈強そうな警務隊員が彼のほうを向いて立った。事態を飲み込んだ彼は、引き攣った顔で呟く。
[クーデターだな]
[いや、違う]と楊清立。
[武漢統一司法規則第52条の規定に基づき、適法な手続きをもって武漢最高法院が先ほど設置された。いまからその初仕事を執り行う]
つい先ほど武漢最高法院が発布した逮捕状を、孫強が趙秀清に示した。両脇の2名の警務隊員が彼の腕を取り押さえた。
[容疑は収賄と賭博、詐欺だ。あなたには黙秘権がある。あなたのために律師(弁護士)が選任され、3時間以内に面会が可能になる]
趙秀清は2名の警務隊員を代わる代わる睨みつけて言った。
[お前ら、誰のおかげで今日までやってこれたと思ってるんだ。この恩知らずどもが]
[では2つめの手土産にとりかかるとするか]と楊清立。
[へっ、大体察しはついたぜ]と吐き捨てるように趙秀清が言う。
楊清立がもう一つの文書を読み上げる。
[武漢最高法院決定 2289年8月17日第1号 武漢書記兼漢陽書記 趙秀清を本日付けでその職を解くものとする。この決定に不服のあるものは、律師を通じて7日以内に不服申し立てを行う権利を有する]
[不服だと申し立てたら、どうなるんだ]と挑発するように趙秀清。
[3地区の書記が合議で審査し、申し立てに正当性ありと判断した場合、決定の取り消しまたは再検討を最高法院に命じることができる]と楊清立。
[漢陽の書記は…]
[心配ご無用、今日のうちに後任の書記が決まる]
[では、そろそろお連れしますか]と孫強。
[そうだな]と楊清立。
孫強が警務隊員に命令する。[被疑者趙秀清を、警務隊本部の拘置所に連行するように]
[了解しました]とうち1名が返答する。2名の警務隊員に引き上げられるような形で立ち上がった趙秀清は両脇を固められ、なされるがまま書記の部屋から出た。驚嘆の視線が、事前に知らされていたわずかの者を除く支団オフィス全員から投げ掛けられた。その中を黙々と進んでいく元武漢書記。
[丁重に扱うように]と警務隊員に命じる孫強。
[身の回りのものはあとから届けさせる]と趙秀清に声をかける楊清立。
同じ頃、漢口公安局局長の林昆生は、漢陽公安局局長と商務局局長について、書記と同じ手続き、すなわち逮捕状を提示し身柄を確保、解任の告知を行ったうえ拘置所へ連行させた。
3人の元幹部に対する一連の手続きを終えた武昌顧問の楊清立、武昌公安局局長の孫強、漢口公安局局長の林昆生が、3法院院長とダイチら立会人が待つ漢陽法院オフィスに戻ってきたときには、10時半となっていた。事前に知らされていた一人、漢陽副書記兼民政局局局長の許浩然が加わり、漢陽支団の幹部人事についての話し合いがもたれた。まず、メンバーに楊清立が用意した以下のリストが配られた。
書記:解任すみ(逮捕)
副書記兼公安局局長:解任すみ(逮捕)
公安局副局長:解任
公安局警務隊長:解任
副書記兼民政局局長:留任
民政局副局長:留任
財務局局長:解任
商務局局長:解任すみ(逮捕)
技術局局長:留任
監察局局長:解任
[まず、書記は誰が就任するのですか?]と孫強が切り出す。
[私は、孫強、きみ以外に適任はいないと思う]と楊清立。
[えっ? 私ですか?]と驚く孫強。
[私は、楊顧問かと思っていました]
[一刻も早く漢陽の決着をつけるには孫強、きみの実行力が必要なんだ。それから馬興栄、副書記兼公安局局長として、孫強を助けてほしい]
武昌監察局局長の馬興栄は、意外を隠せない顔つきで言った。
[私は、今日は立ち合いだけのつもりでしたが…それは現場に戻れ、ということですか?]50代の馬興栄は武昌の元公安局局長だった。
[楊顧問はどうされるのですか?」とダイチが聞いた。
[私は武昌の顧問のまま、漢陽の顧問も兼ねるつもりでいるが、いいかな?]と一同を見渡して楊清立が言う。
一同異議なし。
[わかりました。引き受けましょう。馬さんもどうか力を貸して下さい]と孫強。
[よし、私も老体に鞭打って引き受けることにしよう]と馬興栄。
こちらも一同異議なし。
漢陽最高幹部の後任が固まり、あとは、公安局の副局長と警務隊長を公安局の「良心的な分子」の中から昇格させること、財務局と商務局の局長は当面書記の孫強が兼務すること、そして監察局局長は、武昌の馬興栄の後任の者が兼務することとされた。
さきに逮捕され解任された、書記と副書記1名の後任人事に必要な決定が、武漢最高法院によってなされ即時に執行された。新書記の孫強、新副書記の馬興栄、それと留任した副書記の許浩然の3名が合議した形式をとって、残りの幹部人事が正式に決定された。また武漢自経団の書記には漢口書記の王義衛が就任し、副書記は引き続きダイチと、新たに漢陽の書記となった孫強が就任することとなった。
一同揃っての昼食後、王義衛と林昆生は漢口へと、楊清立と孫強とダイチは武昌に戻った。
武昌に戻る道すがら、三人は武昌の幹部人事について話し合い、武昌に着くと副書記のカオルを交えて幹部人事を決定した。その後幹部を集め、漢陽の新体制について説明。武昌で空席となるポストの後任について発表した。孫強の後任は、副書記は商務局局長兼技術局局長のグエン、公安局局長は副局長の謝瑞麗が昇格した。30代女性の公安局長が誕生。監察局局長は武昌地区法院副院長の宋睿。
武昌の新体制が固まるのを確認した孫強は、漢陽の監察局も担当することになる宋睿を伴って、漢陽へと取って返した。
遠くに雷鳴が聞こえ、夕立が来た。猛暑もまもなく盛りを過ぎ、夏の空気が徐々に秋の空気に変わっていくのだろうか。
孫強は、陣頭指揮を取り武昌の警務隊員の応援も得て、贈収賄と賭博の捜査を進め、3日後までに悪質と思われる者をさらに5名逮捕し、1週間後には訴追予定者リストを作り上げた。リストに載った人数は逮捕者計8名を含み30人を下らないものになったという。
電光石火のごとく行われた一連のアクションによって、漢陽の「空気」は、季節に先駆けて「がらり」と変わった。




