第22章 ヒカリ、コンタクトをとる
武漢自経団は、漢陽、漢口、武昌の3つの地区からなり、それぞれに自経団の支団が組織されている。武漢自経団の責任者たる書記と副書記2名は、原則として支団の責任者である支団書記を兼務している。
主な登場人物
ミヤマ・ヒカリ:本作のメイン・ヒロイン、ネオ・トウキョウでターミナルケアを生き延びた。大陸の武昌に辿り着き、コンピュータ修理の仕事をしつつ、武昌支団の非常勤の幹部を務めている
アルバート・アーネスト・アーウィン:国際連邦統治委員会情報通信局情報支援部長、ヒカリの連邦職員時代の上司
マモル(オガワ・マモル):ヒカリの一人息子、選抜されて火星へ行った
張子涵:(チャン・ズーハン)本作のサブ・ヒロインの一人、武漢で物流業者を営むとともに武昌支団の非常勤の幹部などを務めている
高儷:(ガオ・リー)本作のサブ・ヒロインの一人、ネオ・シャンハイのターミナルケア生き残り、今は武昌支団に勤務する
ミヤマ・ダイチ:ヒカリの従兄、中国名は楊大地 (ヤン・ダーディ)、武漢副書記兼武昌支団書記
ヤマモト・カオル:中国名は李薫 (リー・シュン)武昌支団副書記、ダイチを補佐し、民生系を統括する
郭偉:(グオ・ウェイ)武昌支団の区の責任者の一人
その日20時を過ぎた頃、ヒカリはPITで連邦での元上司にあたり、月の連邦本部に勤めるアーウィン部長にビデオ電話をかけた。呼び出し音が3回鳴ったあと、電話の向こうに白髪混じりの髪、彫りの深い顔が映り、同時に大きな声が響いた。
【ヒカリ君!】
【アーウィン部長】
【やっと連絡をくれたんだね。ずっと待っていたんだよ】
満面の笑みのアーウィン。喜びに溢れた声。
【元気そうだね】
【おかげさまで元気でやっています。そちらはお昼時ですか?】
【カフェテリアに行こうとしていたところだ】
【この前はお電話にも出ず、MATESにも返信しなくて申し訳ありませんでした】とすまなそうにヒカリが言う。
【気にしないでくれ。いろいろとあったのだろうと思っていたよ。こちらの記録ではトウキョウ籍のマリンビークルが、ネオ・シャンハイと大陸の間を2回往復したことになっている。ということは、きみは今、ネオ・シャンハイにいるということかね?】
【いえ。わたしはいま、武漢という都市の武昌という街にいます】
【ほう、それはどこにあるのかね】と興味深げにアーウィン。
【長江という大河があって、ネオ・シャンハイはその河口に浮かぶ島の上にあります。わたしがいる武漢は、ネオ・シャンハイから長江を1200kmほど遡ったところにあります】
【かなり大陸の奥まで行ったんだね。寂しくしてないかね?】
【いい人たちに巡り会って楽しくやっています。こちらに来て初めてその存在を知ったのですが、武漢の自治組織の幹部に、わたしのいとこにあたる人がいるんです。その人の指示もあって、今日お電話をかけることにしたのです】
【なるほど。きみがどうやって武漢まで辿り着いてその人たちに会ったか興味はあるが、それはおいおい聞かせてもらうとして、まずは今日連絡をくれた理由を聞くこととしよう】
一呼吸置いて再び話し出すヒカリ。
【ネオ・シャンハイの対岸にある上海と、わたしが今いる武漢とあと2つの街に、わたしたちが「AOR」と呼ぶ人々の居住区があります】
声のトーンを落として続けるヒカリ。
【これらの人たちを、マオのインパクトまでにネオ・シャンハイに避難させたいのです】
同じく声のトーンを落としたアーウィン。
【なるほど。少しでも生き延びる可能性のあるところへ、だね。何人くらいいるのかね?】
【ざっと…46万人くらいいます】
【46万!】驚いたアーウィンの声のトーンがあがる。再びトーンを落として続ける。
【一定数いるという話は聞いていたが、そこまでいるとは】
【上海に約40万人、残り3ヶ所に合わせて6万人ほどいます】とヒカリ。
【それだけの人を、どうやってネオ・シャンハイに運ぶんだね】
【できる限りこちらにある船などで運ぶこととしますが、どうしても必要な部分は、連邦にお願いできないかなと考えています】
一瞬間をおいて、アーウィンが言う。
【ところで、今話しているのは正式の申入れかね?】
【いえ、こちらも方針が固まっているのは、武漢のわたしが所属する武昌地区の自治組織のみです。これから武漢、上海やその他の都市の自治組織に働きかけて意思統一を図ろうとしています。正式の申入れは、全体の意思統一できた段階で行うことになります】
【現段階ではあくまで非公式の打診を受けた、ということとしておこう。とはいえ信頼の置けるキーパーソンには、内々に話をもちかけてみようと思うが、構わないかね】
ヒカリの声のトーンがさらに落ちる。
【一番気になるのが、マザーAIです。AIに覚られないような形でお願いします】
【たしかにその通りだ。了解した】
【あと、シャンハイの危険度がどの程度か知りたいので、現時点での、なるべく正確なインパクト地点の予測の情報が手に入れば助かります】
【わかった。入手できるかどうか、試してみるよ】
【あ、もうこんな時間。お昼の時間がなくなってしまいましたね。申し訳ありません】
【ヒカリ君と話ができたことが最高のご馳走だよ】とアーウィンが快活に応える。
【あと、お願いです。ネオ・トウキョウに、お世話になった方が一人で潜伏しています】
【きみの他にも、生き残りがいたのだね】
【いま、地下第6層のマリンビークル基地のあたりにいます。その方の生命維持に支障がないように、ご配慮いただきたいのです】
【わかった。任せておきなさい】
【最後に、火星のマモルのことでお願いがあります。手短かで結構ですので、わたしが生きていることを、彼に伝えていただけませんでしょうか。いきなり直接コンタクトとると、彼も面食らうと思いますので】
【OK。マモルくんに話をしたら、きみに伝えるようにする】
【よろしくお願いします】
【じゃあ、今日はこのくらいで】とアーウィン。
【はい、それでは】とヒカリ。
[では、2289年8月第1回目の武昌第296班定例会を開会します]
武昌第296班の区長助理である張子涵は、翌8月13日の18時を少し回ったころ、2週間に1回開かれる班定例会の開会を宣した。
[ま、ふだん通り、ざっくばらんに進めましょう]
今日も張子涵は「ふだん通り」化粧っ気のない顔にボーイッシュな出で立ち。
前から3列目の通路側に並んで腰かけた高儷とヒカリが、小声で言葉を交わす。
【彼女、ちょっとお化粧しておしゃれしたら、素敵なレディになるのにね】
【顔立ちもくっきりしてるし、スタイルもきっと抜群ですよ。ウエストの細さといったら】
第296班は武漢自経団武昌支団第15区の管轄で、ヒカリと高儷を加えて総員44名。班員にはダイチ、カオルが含まれる。ちなみに陳春鈴は、お隣の第295班に所属している。
班の定例会には、すべての班員に参加する権利がある。表決権を持つのは満15歳以上の班員。ただし班員のうち支団副局長クラス以上の幹部と区長・副区長の職にあるものは、オブザーバーとして会議の前半にのみ参加し、原則として決議には加わらない。
会議の議事は非公開とされている。ビデオに収録されるが、閲覧できるのは原則として欠席した班員のみで、特別な場合にのみ、監察局と法院(裁判所)のメンバーに閲覧が許される。決議事項など必要な内容は、区長助理から区長に報告される。法令に抵触する恐れがある場合、特定の班員の権利が不当に侵害される恐れがある場合など、特段の事情が認められない限り、区長は班が決議した事項に介入しないこととなっている。
張子涵は、前任の区長助理が高齢を理由に退任した際、全員一致で後任の区長助理に選ばれ、2年の任期切れを前に前回の定例会で再選された。若いが大きなビジネスを切り盛りしている手腕が買われてのことであろう。
本日の会議は第15区事務所に3つある会議室のひとつで開催されている。参加者はオブザーバーのダイチ、カオルを含めて36名。
[本題に入る前に、一つ決を採らねばなりません。郭偉区長が冒頭にオブザーバー参加したいとのことです]と張子涵。
班の定例会に班員以外の者が立ち会うには、参加班員の過半数の同意が必要になる。区長といえども例外ではない。
[異議のある人いますか?]
[異議なし][異議ありません、班長][異議なし]…
参加者が口々に言う。ちなみに班担当の区長助理は、班員からは「班長」と呼ばれている。
[じゃあ、みんな同意ということで]と確認し、張子涵は自分のPITに向かって言った。
[郭区長、OKです]
第15区区長の郭偉が扉を開けて入ってきた。
[それではまず最初に、第15区に転入してきて、わが第296班のメンバーとなった二人の女性を紹介します]
張子涵が言うと、ヒカリと高儷が席を立ち前に進み出て、班員たちのほうに向いた。
「二人とも上海から来ました。こちらが高儷。彼女はいま、支団民政局の仕事をしています]
[ニン・ハオ。よろしくお願いします]と一歩前に出た高儷が挨拶する。
[彼女は、上海の周光立の紹介でこちらにやってきました]
言われた名前を聞いて会場がざわざわする。
[周光立、というとひょっとして周光来の孫の?]と年配の女性が尋ねる。
[そう。上海副総書記の周光立です]と張子涵。
[そのような方が、どうしてわざわざ上海から武昌に来ようと思ったのですか?」
[そうですね…都会の喧騒からしばらく離れたいと思った、というところでしょうか]と、どうにか無難に答えた。
次に張子涵はヒカリのほうに向いた。
[そしてこちらが、みんなから「シカリ」と呼ばれているニッポン人。最初第6区に転入しましたが、こちらに移ってきました]
高儷と同様、一歩前に出て挨拶するヒカリ。
「ニン・ハオ。どうぞよろしくお願いします」
[彼女は、本名は「美山光」といいます。いろいろ事情があって彼女は中国語が喋れません。ニッポン語と英語だけですのでよろしく]
会場の皆がイヤホンを通訳モードにして装着する。
[第6区にいたというと、あなた、ジョン・スミスのところで働いているエンジニアかい?]
「はい、そうです。よくご存じですね」
[「上海からきた中国語の喋れない、とびきり腕の立つ女性エンジニア」といえば、武漢のコンピュータ業界で知らないものはいないよ]
[彼女は、支団技術局で非常勤の局長助理も務めています。それから…]
一呼吸おいて張子涵は続ける。
[そこにいる楊大地のいとこです]
[楊書記のいとこ、ということは、つまり楊守の?]
[そう、孫にあたります]
またも会場がざわつく。
[楊守の孫が楊大地の他に、しかも上海にいたとは…]と先ほどの年配の女性。
[あたしも彼女のことを知ったのは、先月のことです。二人ともいろいろ事情はありますけれど、今日のところはこれくらいにしときましょう]と張子涵。
[楊守といい、周光来といい、超VIPの関係者が班のメンバーに加わったのだね]と年老いた男性がしみじみと言う。
[ま、固いこと言わずに、みんな気軽に付き合ってやって下さい。あたしなんか、シカリとは完全にタメ口ですから…では歓迎の拍手ということで]
張子涵が言うと、会場から大きな拍手が起こった。拍手が鳴りやむと張子涵が続ける。
[そうそう、二人とも住まいは楊大地のところです]
[ほほう、楊書記のところとは、ますますVIPだね]と微笑みながらさきほどの男性。
ふたりの紹介が終わったのを見届けた区長の郭偉は、
[わたしはこれで]と言いながら、扉を開けて会場から出て行った。