第19章 またひとり残されしもの
武漢自経団は、漢陽、漢口、武昌の3つの地区からなり、それぞれに自経団の支団が組織されている。武漢自経団の責任者たる書記と副書記2名は、原則として支団の責任者である支団書記を兼務している。
主な登場人物
ミヤマ・ヒカリ:本作のメイン・ヒロイン、ネオ・トウキョウでターミナルケアを生き延びた。大陸の武昌に辿り着き、コンピューター修理の仕事をしつつ、武昌支団の非常勤の幹部を務めている
高儷:(ガオ・リー)本作のサブ・ヒロインの一人、ネオ・シャンハイのターミナルケア生き残り
ミヤマ・ダイチ:ヒカリの従兄、中国名は楊大地 (ヤン・ダーディ)、武漢副書記兼武昌支団書記
ヤマモト・カオル:中国名は李薫 (リー・シュン)武昌支団副書記、ダイチを補佐する
陳春鈴:(チェン・チュンリン)本作のサブ・ヒロインの一人、武昌支団幹部の一人、ダイチ、カオル、張子涵とは幼馴染
ジョン・スミス:ドイツ人、武漢の電気電子修理工房の店主、ヒカリの雇い主にして武昌支団の非常勤の幹部を務めている
周光立:(チョウ・グゥアンリー)ダイチの同級生で盟友、上海自経総団の副総書記の一人
アルト:トウキョウ籍のマリンビークル「TYOMV0003」、ネオ・トウキョウからヒカリを上海に運び、今はネオ。シャンハイの基地に停泊している
「はい、ヒカリです」
ヒカリは、聞き覚えのない中国人の女性からの電話に応答した。
[私は高儷といいます。ネオ・シャンハイの住民です。アルトの横にいます]
「アルト?…ということは、マリンビークル基地ですね」
[そうです。アルトがあなたの連絡先を教えてくれたので電話しました]
「わかりました。少しだけお時間下さい。必ずすぐに連絡します」と言って、ヒカリはいったん電話を切った。会議室のドアのところで振り向きながら、委員会メンバーに対して言う。
「ネオ・シャンハイに、わたしのような生き残りが一人いるようです。ダイチ、どうすればいいかしら」
「わかった。必要な手配をしよう。いまどこにいて、名前は何という?」とダイチ。
「ネオ・シャンハイのマリンビークルの基地で、わたしが乗ってきた船の横にいます。名前はガオ・リー、と言ったわ。女性の声でした」
「了解」というダイチの声を確認すると、委員長である楊清立が閉会を宣する。ダイチも含めて委員たちが部屋を出た中で、カオルと秘書メンバーが残った。
[シカリ姉さん、女の人だったの?]と陳春鈴。
「落ち着いた声の女性だったわ、リンリン」
[なんでお前さんに連絡してきたんだ?]とジョン。
「ネオ・トウキョウから乗ってきた船と、わたしのPITが連携していて、船のボイスインターフェースが、わたしのPITの番号を教えたんだと思います」
ほどなくしてダイチが戻ってきた。
[上海副総書記の周光立に連絡して、極秘でアレンジしてくれるよう頼んだ]
しばらくして、ダイチのPITに着信音が鳴る。周光立からだ。
[もしもし…ああ…マリンビークルに乗って…わかった。第18支団の女性警務隊員が2名だな…合言葉?…「マオ・ズオードン」…了解。先方にそう伝える。迅速に手配してくれてありがとう…連絡待っている]
電話を切ると、ダイチはヒカリに向かって「高儷さんに電話をして欲しい。手配がついたと言ってくれれば、あとの段取りについては私が直接話をする」と言う。
ヒカリはPITで着信履歴を呼び出し、高儷の番号に発信した。
「高儷さんですか? ヒカリです。段取りができました。これから手配した人に代わりますが、その前にアルトと話をさせて下さい」
[わかりました。どうぞ]
「アルト…ヒカリです。聞こえますか?」
「はい。お久し振りです、ヒカリさん」
「横にいる高儷さんが行き先を指示したら、その通りに行ってくれるかな」
「了解です。お届けしたら、またネオ・シャンハイの基地に戻って待機しますね」
「お願いしますよ。じゃあ、電話を代わって。高儷さん…聞こえますか?」
[はい。聞こえます]
「手配をしてくれた、楊大地に代わります」
ダイチは電話を代わると、自分が懇意にしている周光立という上海の自治組織の幹部が、匿ってくれることになったと告げ、手順を説明した。周光立が配下の第18支団公安局の女性警務隊員を2名、待ち合わせ場所に派遣したこと。待ち合わせ場所は黄浦江に支流が合流し、左へ大きく曲がる地点にある埠頭であること。ヒカリがネオ・トウキョウから乗ってきた船で、待ち合わせ場所に向かうこと。待ち合わせ場所に着いたらすぐには船を下りずに、待っている警務隊員が合言葉「マオ・ズオードン」と言い身分を告げるので、それを確認したら名前を告げること。以上の確認ができたら船から下り、あとは彼女らに従って周光立のもとへと連れて行ってもらうこと。説明を終わると[お気をつけて]と言って電話を切った。
「わたしが上陸したところと同じ場所だわ」とヒカリ。
[ずいぶんと慎重にやるんだな]とジョン。
[上海はいろんな動きがあって、慎重に事を運ばなければならないのだそうです]とダイチ。
顛末はあとでダイチからMATESすることとし、秘書處のメンバーも解散、となった。
2日後の8月7日、ダイチは急遽、上海へと向かった。
「2日ほど借ります」とジョンに断って、ヒカリも同行させた。エアカーで朝8時に武昌を出て、途中無線通信の無人中継局でトイレ休憩した以外は、一度も止まらなかった。
上海の周光立の自宅には、16時前に着いた。
陳春鈴のたっての希望で、「マオ委員会秘書處」のMATESグループを昨日作った。カオルも特別メンバーとして登録。「上海到着」とのメッセージを書き込むと、さっそく「リンリン」から「お疲れ様!」のスタンプ。
上海も蒸し暑い。晴れているが、ムッとする湿気を含んだ空気が街を覆っている。
上海は2つの街区からなる。
一つめは、元の黄浦区のあったエリアから西わずかに南よりに傾いて伸びる、長方形の街区で、南北幅は約4km、東西長さは約8km。「黄浦街区」と呼ばれ、8つの自経団の管轄区域に分かれる。
二つ目は黄浦の北東側から北北東方向に広がる、元の虹口区と楊浦区に跨る黄浦江沿いの長方形の街区で南北幅は約2km 東西長さは約4km。「虹口街区」と呼ばれ、2つの自経団の管轄区域に分かれる。
黄浦の北西端が第1地区、その南が第2地区、その右斜め上が第3地区…というふうに第8地区までで黄浦街区を形作り、第7地区の北東側、虹口街区に手前側から第9地区、第10地区となっている。自経団の数字は管轄する地区の数字と一致している。
周光立の自宅は第4区、黄浦街区の中央南端に近く、東西の三つのメインストリートのうちいちばん南、大戦前の旧中山南一路・南二路のラインにほぼ沿って走る「東西三路」に面したところにあった。
二つの街区合わせて約40k㎡のエリアに、40万人ほどが住んでいる上海。その10ある自経団を束ねる自経総団の責任者は「総書記」と呼ばれ、周光立はそれを補佐する「副総書記」の一人で、第4自経団の書記を兼ねている。
周光立の自宅の内部は、武昌のダイチの自宅の内部とほぼ同じ造りだ。
ヒカリは周光立と高儷に、ダイチは高儷に初対面の挨拶をする。
周光立と高儷が並び、ダイチが周光立と、ヒカリが高儷と向かい合わせになってテーブルについた。高儷は鼻筋の通った理知的な顔立ちをしている。背はヒカリと同じくらいだろうか。小顔な分、スタイルがよく見える。
ビールで乾杯(今日は泊まりなのでダイチも思う存分飲める)し、周光立が用意してくれた料理に箸をつける。
ビールと食事を進めながら、四人がそれぞれ自己紹介をする。
最初に自己紹介したのは高儷。32歳で、シャンハイ・レフュージ統治府民生第1支部第2セクションリーダーを務めていたという。夫と男女二人の子どもがいたが、3人ともカテゴリAとしてケアされたとのことだった。
「わたしは息子が火星で生きています…なんか申し訳ないです…」とヒカリ。
[いえ、そんなこと…あなたもいろいろとつらい思いをされたのでしょうから]と、理知的な顔立ちと裏腹に、やさしく包み込むような中音域の声の高儷。
それから高儷は、自分がここに辿り着くまでの経緯を話した。
カテゴリBの自分が再び目覚めたのは、死体運搬トラックの荷台の上で、発車する直前に体が半ば反射的に動いて飛び下りた。部屋に戻って、少し残っていたフルーツと非常食と水を、一日分の半量ずつ摂取してじっとしていたら、二週間した頃ロボットが巡回してきた。
「ひょっとして捜索にきたのですか?」と尋ねるヒカリ。
[そう思ってトイレに隠れて息を潜めていたら、ついにトイレのドアを開けたのです]
「絶体絶命?」
[…と私も思ったわ。でもロボットは、私を眺めたうえで何もしないで立ち去りました]
「いったい何のロボットだったんでしょう」
[手にゴミ袋を持っていて、私が齧ったリンゴの滓やらを入れて持っていったから、たぶん「腐敗のおそれのあるもの」を回収するよう命じられたのでしょう。だから、生きている人間は「腐敗のおそれなし」ということで見逃してくれたんだと思います]
非常食と水も底をついていて、部屋にいてはまずくなった高儷は、身の回りのものをバッグにつめて外に出ようとした。すると生体認証がクリアされていて、部屋のドアが開かない。
「どうやって切り抜けられたのですか?」
[そのとき思い出したの。ちょうど「最終日」は、私が当番幹部で、シャンハイ・レフュージのイマージェンシー・キーを持たされていたんです]
「なんてラッキーな!」
イマージェンシー・キーを使って次々と関門をクリアした高儷は、食料と水を求めて地下第5層に行き、トイレがありシャワーを浴びられるところを探して、第6層のマリンビークルの基地前のホールに辿り着いた。さらに3週間ほどそこに潜んだ後、ふと扉の向こうのマリンビークル基地が気になって、イマージェンシー・キーを使って開けてみた。
[「SHA」で始まる登録番号の船の中に、一つだけ「TYO」で始まる番号の船があったので、あれ、と思って見ていると、声が聞こえたの。「ヒカリさんのお友達ですか?」って]
「アルトね」
[そう。それで「ヒカリさんにぜひ会いたい」と言ったら…]
「アルトがわたしのPITの番号を教えてくれた。というわけですね」
[あとは、みなさんご存知の通りです]