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「こんにちは」

 月曜の昼に夏輝に会って、俺はビーフシチューを掬ったスプーンを取り落としそうになった。夏輝はちょっと笑うと頭を下げて、厨房に帰っていった。コックコートとコック帽が、驚くほどぴんと背筋の伸びた厚みのある体によく似合う。会社のビルのすぐ横にある洋食屋で、夏輝は働いていたのだ。

「まずいのかなって思ってたんですよね」

 と、夏輝は話した。何度目かのセックスのあとで、俺の髪を撫でていた。夏輝は俺の髪を撫でるのが好きだ。やわらかくてさらさら、と言う。夏輝の髪は黒くて硬い。セックスの後も、余韻が香りになって長く残る。

「高そうなスーツ着ていかにも東京のサラリーマンって感じの人で、いつも一人でまずそうな顔して食べてて。俺味付け失敗したのかなって不安で見てたんだけど、何食べてもすごいまずそうなのに、全部綺麗に食べてくれる。どんな人なのかなって思ってたらあの日たまたま見かけたから、追いかけちゃった」

「それでホテルまで行くのか?」

「ラッキーですよね!」

 嬉しそうに話す。理解できない。俺には理解できないのが夏輝だ。でも好ましい。

「それで、ずっと気になってたんだけど、好きな食べ物あります?」

「いや、別に」

 思いつかない。夏輝の店によく行くのも、平均より価格帯がやや上で、空いているからだった。メニューの何を食べても外れがないなと思ってはいるが、俺は飯なんかうまくなくてもかまわない。

「うーん。じゃあ、嫌いなものは?」

「コンビニ弁当」

 言ってから、しまった、と思った。しまった、と思ったことには気付かれないように、表情を硬くした。

「じゃあ、俺が作ったらなんでも食べてくれる?」

 頷いた。約束のかたちを取ったちょっとした好意のやり取りで、守られないと思っていた。だがその翌日には夏輝は俺をシェアハウスに招いた。ちょうど仕事が暇な時期で、断る理由も思いつかなかった。共有なのに、おもちゃみたいに小さなキッチンでナポリタンを作って二人で食べた。今にも壊れそうなテーブル。横では男がカップの焼きそばを食べていた。誰かが肘をつくと、そちらに小さくテーブルが傾く。

「誰?」

 と、顔の造作の大半がひげに埋もれた男が尋ねると、

「俺の彼氏」

 と、夏輝ははにかんだ。俺の彼氏。へー、と男は頷いた。焼きそばのソースとケチャップと若い男たちの匂いが混じる。

「スープとかサラダも作ってあげたかったんですけどここじゃね」

 食べ終えて、狭いシンクで洗い物をする夏輝に、うちのキッチンのことを思い出した。一度も使ったことがない、何もない、ぴかぴかのキッチン。

「うちに来るか?」

 と口を滑らせて、すぐに後悔した。押しつけがましい。だが夏輝は、

「いいんですか?」

 と俺が押される勢いで食いついてきた。その場で俺のスマホで好きに調理器具を買わせて、次の週に俺の部屋に来てもらうことにした。

「これ買っていい?」

 と画面を見せてきたので、値段だけ確認して、

「いいよ」

 と言った。夏輝は微妙な顔をした。

「三万の鍋だよ?」

「買いたきゃ買えよ」

 それが高いのか安いのかさえ俺には判断できない。夏輝はためらったが、結局買った。そのあとは特に質問することなく黙々とカートに商品を突っ込んでいた。

「これ何色がいい?」

 と、最後の最後で一度だけ聞いた。画面にはエプロンをした白人の男が映っていた。黒と紺とベージュのシンプルなエプロン。

「全部」

 俺はスマホを奪うと、三色ともカートに入れた。

 結構な金額になった。夏輝は大丈夫かと何度も聞いた。

「俺、一雪さんが心配だな」

 別れ際に夏輝が言った。心配。年下の、東京に出てきたばかりのセックスをするだけの男が、俺を?

「こっちの台詞だよ」

 そう返すと、夏輝は嬉しそうにした。目尻の皺。俺はその顔と、心配、という言葉を何度も反芻しながら家に帰った。暗い部屋の中心にでかいキッチンがある。俺はそこに目を向けないようにして、部屋にこもって仕事をした。出るのが億劫で、その日は夕食を食べ損ねた。

 次の週、夏輝は部屋にやってきた。キッチンを見て大声を上げ、届いたとんでもない量の荷物を見て笑った。開封して、洗い、ひとつひとつ収納場所を決めていった。俺は何もせずに突っ立っていた。

「え、電子レンジないんですか? ケトルも?」

「ないよ」

 何もないと言えば、何もないのだ。追加でそれも頼んだ。

「あ、カトラリーと食器はあるんですね」

 作り付けの棚を見て夏輝が言った。使っていないが、もらいものの食器やカトラリーを実家から押し付けられるように持ってきてしまいこんだままでいた。もらいものなので高級品ばかりだ。

「好きに使え」

「やったー」

 キッチンを使える状態にして、足りない細々したものや食材を近所のスーパーで買い足して、黒い折り目がまだついたエプロンをして、夕食を作ってくれた。できるまで部屋にいていいですよと言われて、なんだか落ち着かないので部屋で軽く仕事をしてからキッチンに向かった。小さなスプーンでスープの味見をしている夏輝が俺を見て、

「もうできますよ」

 と笑った。メニューはオムライスとサラダとスープだった。

「美味しいですか?」

「うまいよ」

 と言ったが、正直よくわからなかった。店に較べて、全体的に味が少し薄いなと思っていた。具体的に言えば塩分が少ない。今にして思えばあれは家庭用の味なんだろう。だがうまいかと訊かれたら、うんと頷く。うまいとかまずいとか、実は、よくわからないのだ。どんな味がするのか理解はできるが、他人と同じように味わうことができている自信はないし、そもそもまずくても構わない。

 その日はセックスせず、夏輝は泊っていった。朝にはおにぎりと卵焼きと味噌汁の朝飯を作ってくれた。小さな俵型のつやつやの塩にぎり。ベージュのエプロン。

「帰りたくないな」

 と、昼から仕事の夏輝は、エプロンを外しながら言った。

「じゃあもう越してこい」

 自分がどの程度本気だったのかはわからない。だが夏輝は次の週には本当に越してきた。余っていた空っぽの部屋にでかいリュックを放り込んで、そこを夏輝の部屋にした。夏輝はだいたいリビングかキッチンにいるので、結局ほとんど使われていない。寝るときは俺の部屋のセミダブルにやってくる。枕は使わない。寒がりの癖に、寝るときは裸足で、スウェットをすねまでまくり上げて、いつも布団を剥いでしまう。気付けば俺が掛けなおしているが、すぐにまた剥ぐ。

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