表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

歯抜けの女

作者: ヘルベチカベチベチ

 僕が顔を殴って以来、彼女は歯抜けになってしまった。

 もう三日が経っている。案外、彼女が歯抜けになったことは誰にも気づかれていない。僕も彼女も友人が決して多いわけではないのだが、普通それでも、身近な人の歯が欠けたらすぐに分かりそうなものなのに。コロナの蔓延によるマスク常習化をもってしても説明不足の事態なのだ。

 彼女を殴る以前から、僕はイライラすると彼女に暴言を吐いて当たることがあった。女からすれば、同じ部屋の男が乱暴な言葉で自分に当たるのは怖いはずだろうに、それにも彼女は屈せず、僕の絡まった感情をゆっくり解くように話を聞きだしたり、時には何も言わずただそこに居てくれたりした。

そんな彼女であっても、歯抜けになって以来はめっきり話すことがなくなってしまった。やはり性差のハッキリとした暴力を行使されては、女は男に負けざるを得ないのだろうか。

また心なしか、単純に口数が減っただけでなく、そもそも口が開かないようムッと唇を噛みしめているように見えることもあった。これは僕の思い込みだろうか。いや、もしかしたら歯抜けの顔を僕に見られたくないからなのかも、そういう妄想がふわり浮かぶと、不謹慎とは理解しつつも、少しの喜びや可愛いといった感情を認めずにはいられなくなった。

 彼女は歯抜けになっても社会生活から離れることはなかった。僕が浪人生であるのに対し、彼女は立派に大学生である。授業がある日ならば彼女は講義に出席しなければならず、また彼女自身バカマジメの人であった。殴った翌日、僕が嫌な夢を見て目を覚ました時には、すでに彼女は出かけた後だった。昼の十二時だった。

 その日の夜、彼女の帰りは遅かった。原因が自分にあるのは分かっていたが、分かっていながらも僕は彼女を心配した。心配、ほんとうに彼女に対してなのか、それとも彼女が居なくなってからの自分に対してなのか。僕はそんな自問に即答することができず、自分が嫌になる時間を迎えていた。

 彼女に電話をかけるのはためらってしまう。かけて第一声、何と言えばいいのか、また向こうからなんと言われてしまうのか。そもそも電話に出てもくれないのではないか。僕は彼女と話すのがあまりにも恐ろしくて、考えただけで胃がキリキリと痛むほどだった。

そういう風にずんずん不安に沈んでいくと、どんどん息が苦しくなる一方で、僕は息継ぎとして彼女を憎いと思った。被害者はいつだって加害者が動いてくれるのを待っているだけだ。こっちは胃を痛めてまで悩んでいるというのに、ああ、ズルい。女はズルいよ。

嫌悪不安憎しみクルクル。

しょうもないサイクルにも飽きて疲れた僕は、彼女の友人の一人に電話を掛け、今日の大学での彼女の様子を聞いてみることにした。その友人によると、学校での彼女は至って普通だったそうだ。普通にお喋りをし、普通に講義を受け、普通にご飯を食べていたらしいのだ。

 お礼を終えて電話を切った後、僕は意外な返答に体の力が抜けず、そのままソファにもたれた。

 普通だった?まさか歯が再生するはずがない。彼女の顔を殴った時の痛みが幻だったはずもない。ではなぜ彼女の歯抜けは、今日一日、社会に忍んでいられたのか。僕は、彼女が友人と喋りながらご飯を食べる姿を思い浮かべた。

当然マスクは外される。喋れば笑う。食べるためには口を開く。必ず歯抜けを見られる機会はあるはずだ。しかし想像での彼女は、口が開こうというとき、その都度自分の口を手で覆って隠していた。雑談の中、そろそろ笑う頃だなと分かれば、あらかじめ手で覆ってから笑い、ご飯を口に運ぶときも、手で覆うのに加えて口を最小限にしか開けないよう心掛ける。そうやって、彼女が健気に歯抜けを隠す姿が目に浮かぶのだった。

 玄関からカギを回す音がして、僕は現実に引き戻された。彼女が帰ってきたようだった。僕はその音に心臓の鼓動を早くし、また動こうとしてもソファから背中が離れない金縛りにあった。

 僕は咄嗟に寝たフリを決め込むことにした。心臓の鼓動や自己嫌悪やその他もろもろを内の内に詰めて閉まって、しっかりと、でも不自然に見えない力加減で瞼を閉じて祈った。

 彼女が部屋の扉を開けた音がして、僕の足下が少し寒くなった。部屋に外気が流れて混ざり合い、熱エネルギーが滑り下りて次第に収束をみせるあの感じ。足音は僕のそばまで一度やってくると、そのままクローゼットの方へと行った。衣擦れと時々呼吸音が聞こえて、足音はその場で床から離れたり着地したりしていた。クローゼットが閉まると、また足音は歩きだしてキッチンの方へと遠くなった。

 彼女が離れたらしいのを耳で確認すると、僕はいつの間にか忘れていた呼吸を取り戻した。もしや呼吸のし忘れで彼女に嘘寝を見抜かれたか、僕はそう思ったが、これはすでに心配事と言うよりも、ただそう思っただけに過ぎなかった。なぜならば、実は、僕は寝たフリをしながら、夕飯の時間に彼女と話をつけようと決心していたのだ。キッチンでは野菜を切る包丁がまな板に鳴っていた。

夕食時ならば、どうやっても顔を合わせることになる。つまりはどうしたって話をせずにいられないわけで、僕はすでに話がついた気になっていた。昨日から抱えていた問題が終わるのだと思うと胸のあたりで扇風機が回り出したような気になって、反対にこの寝たフリを続けるのに疲れを覚えてきた僕は、声には出しはしなかったが内心、料理の完成を急かして彼女を待っていた。

しばらくして、彼女が僕を揺すって起こした。僕は最後まで演技をしてやることにし、それらしく唸って体をよじり、瞼の上を擦りながらゆっくりと目を開いた。目の前のちゃぶ台にはいつも通りの夕飯が揃って用意されていた。相変わらず僕の演技は続き、彼女に眠そうな声で「おかえり」と言ってやると、彼女は、うん、とだけ返した。

野菜炒めを噛む音や、みそ汁をすする音だけがしばらく続いた。彼女は決してこちらに目を合わせようとしないし、そして口をなるべく開けないようにして食べていた。このときに僕は初めて、彼女が歯抜けを隠す姿にはずっと果てしない魅惑があるのを知った。

しかし釈然としないのは、相変わらず僕を見ようとしない彼女の目であった。野菜炒めに箸を伸ばす時には必ずそっちに目が向くのに、そこから首を起こすだけで合うはずの僕の目とは絶対に合わせようとはしなかった。その時だった。悪魔が囁くことには、こうすれば彼女と目が合うはずらしいのだった。僕はいつもよりも低めの声で、そして少し声を張って、

「おい。」

 と乱暴に彼女を呼んだ。その効果はテキメンであり、彼女は怯えた目をこちらに向け、持っていたご飯茶碗を手からこぼし、茶碗は床で力尽きたコマのようだった。そして何と言うことか、気に掛ける余裕もなくなったらしく、彼女の口が開いて歯抜けが丸見えになったのだ。上の前歯一本と、下の前歯二本が欠けて、真っ暗な口腔の中赤い舌が顔を出し、白色光を反射していた。

 彼女は噛んでいる途中だった米を喉に詰まらせ、咳き込んだ。僕がそばに寄って背中を擦ってやると、一瞬だけ彼女の体は反応を示すものの、特に僕の手を払うようなことはなかった。

 咳が止まって少し沈黙が続いた。しかしさっきまでと違うのは、僕らの間にちゃぶ台がなくなった分、お互い相手のことを無視できなくなっていた。

彼女は肩を縮こまらせ、左手の甲を右手の平で落ち着きなく撫でていた。そして口は、開いてしまっていたのに気づいたらしく、増して固く結ばれてしまい、唇にしわをつくっていた。

このまま黙ったままなのは互いのためにならないが、やっぱり僕は話すのが嫌だった。だから僕は彼女の口に手をかけた。

なんで急に僕がこんなことをしだしたのか、彼女は分かっていないようで、驚きで喉から少し声が漏れていた。しかしそれだけで、抵抗するようなことは一切なかった。

口を開くと、歯抜けがしっかりと確認できた。彼女は少し恥ずかしそうに目を逸らすが、こういう目逸らしならば僕は歓迎だった。これを見て嬉しくなった僕は、ぽっかりと開いた歯と歯の間に人差し指を置いてみた。すると、本棚を埋めるように丁度よく指が収まって、また思わず、僕の指先が彼女の舌先と触れ合って濡れた。そして僕は調子に乗って、指を歯茎に添わせたまま、彼女の舌をゆっくりと押してみると、彼女も舌で僕の指を押し返した。

次の日、また僕が彼女の歯抜けを触ってやると、彼女は少し嬉しそうにした。

今では、少なくとも僕の前では、彼女は以前の通りに笑うようになったし、話すことにも躊躇しなくなった。何が僕らの問題を解決したのか、僕には全く見当もつかないが、とりあえず、今度の金曜日に歯医者の予約を入れたところだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ