59.ふたりを分かつもの 1
少しずつ季節は移り変わり、六月。練習のメインが、プレゴールドの受験準備から今シーズンの大会の準備へと移り始めた。
「今度のリズムダンスの曲、何にしようか」
今シーズンの課題はロッカーフォックストロットだった。
「僕、最近気になった曲のリスト作ってるんで、聴いてもらえませんか?」
スマホを開いて陽向さんとのぞきこむ。去年は陽向さんと先生にすべてを任せっぱなしだったけれど、最近やっと少しずつ僕も参加できるようになってきた。
「あ、これ好きだな。Close to You。テンポはどうかしら」
「ロッカーフォックストロットのテンポは、一分間あたり104拍ですから……」
吉田さんから預かった日本語のメモ入りのハンドブックを広げる。本当に少しずつ、僕も二人でダンスを作る一員になってきていた。
そこに先生がやってきた。先生の顔には、かつてない深刻さが浮かんでいた。
「え? 来月から練習時間が半分になる――?」
「そう。今月末に閉鎖するリンクがあるのよ。少し離れた所だから影響ないと思っていたんだけど甘かったわ。さっき貸し切りの予約会議があったんだけど、ものすごい希望者。流れてきてるのよ。これは困ったことになったわ」
先生は頭を抱えた。
「ここはあなたたちがリンクの名前を背負って全日本に出るからと、優先的に取らせてくださったのだけれど、それでも今までの半分。他のリンクはたぶんもっと取りにくくなるわ」
これからプログラムを作っていく時期なのに。隣の陽向さんも、言葉を失っている。
「こうなったらやっぱり海外に行くことを考えなくてはならないかしらね。神宮路・蒼井組も少し前から短期ではなく長期でカナダに行っていると聞いているし」
結局、アイスダンスをやるには日本より海外ということなのだろうか。
「あちらはリンク環境がいいから、空いてるリンクで毎日数時間練習できるのよ。指導はもちろん、オフアイスでのトレーニングも充実しているしね」
陽向さんは、不安げな顔でその話を聞いていた。
夜の貸切の前に、僕は陽向さんと二人、すぐ近くのファーストフード店で夕食を取ることにした。作戦会議もしたいからと彼女は言った。
外は低い雨雲が遠くまで広がっていた。蒸し暑くて、息苦しい。僕たちは注文を済ませると二階へ上がり、窓際の席へと座った。
僕はあっという間にアイスティーを飲み干してしまって、そして陽向さんが全く口をつけずに黙っているのに気がついた。そうだ。吞気にお茶なんて飲んでる場合じゃない。いや、でも暑かったし……。
黙りこんでしまった陽向さんを前に、海外に行けるかを尋ねられたら行けますと答えようと僕は考えていた。
陽向さんの心にあるのは、さっき出た海外行きのことだと思うのだ。去年、モミの木で理子さんが僕の海外行きを反対したことがあった。理子さんは僕の家にかかる負担を心配してくれていた。陽向さんは理子さんの先生に対する抗議を黙って聞いていた。あの時は理子さんと先生とのやり合いにびっくりしているのだろうとしか思わなかったけれど……。
「……私ね」
陽向さんはやっと口を開いた。
「昔アイスダンスに転向を決めた時、最初に天馬君に声をかけたの。パートナーになってほしいって」
「そ……そうなんですか」
なぜか、思っていたのとはずいぶん違う話が始まった。
「当然引き受けてもらえるものだと思ってた。オリンピックを目指そうって夢を語れば、誰でも説得できると思ってた。自分がそういう人間だから、誰もがそうだと思ってたの。でも断られて。その時初めて、他の人は他の人なんだっていう当たり前のことに気がついたの。人には人の考え方があるし、その人の都合があるし、人生があるって……」
そしてやっと一口アイスティーを飲んだ。それから窓の外へと目をやった。外は雨が降り始めていた。
「それからなるべく気をつけるようにはしてたの。自分以外の人のことを尊重できるように。でもこの前、制覇君受験があったでしょ。あの時、はっとしたの。わがままを言ってるつもりはなくても、気がつかないうちに相手に大切なものを懸けさせて、自分につき合わせてしまうこと……あるんだなって」
僕は受験のことなんて何とも思っていなかったんだけど、陽向さんはとても思いつめた横顔をしていた。
「あの……僕は受験のことなんて、何とも思ってませんでしたけど」
「でも、危ない橋を渡らせちゃったよね。私は単純だから、勝てばすべてが上手くいくくらいにしか思ってなくて。
ごめんなさい。負けたら制覇君の進路がどうなるかなんて考えてもいなかった」
「あの……僕もあんまり深刻には考えてなかったんで」
本人がそんな調子なのだから陽向さんが責任を感じる必要なんてない。気にしないでほしいのに、彼女は視線を下に落として呟くように言った。
「制覇君は中学生だったもんね。でも本人が自覚してないからこそ、巻き込む方には責任があると思うのよ。今度の件についてはなおさら」
今度の件か。やっぱり陽向さんは、海外行きが僕の家にどれほどの負担になるかを心配してくれているんだろう。
「海外行きのことだったら、僕、大丈夫です。全日本がかかってるんだから。去年もいい勉強になるから行って来いって家族には言われてたんです。だから……」
「でもね、気がついていないかもしれないけど、海外行きはこの一回ではすまないかもしれないのよ。リンク状況が悪化したってことは、このままたびたび海外に行くことになるかもしれないし、場合によっては向こうに滞在するなんてことにも……」
滞在? そんなことまでは考えてなかったな。まあでもそれもありか。
「かっこいいですよね。僕はそれくらい頑張りたいと思ってます」
僕は、できる限りのことをやりたい気分だった。
「ほんとに……?」
そう言った陽向さんが見せたのは僕が予想していたのとは違う表情だった。
「制覇君。これはね、去年海外に行くかどうかといっていたのとは次元の違う話なのよ。あなたは今、アイスダンス中心の生活になってもいいかっていう分かれ目にいるの。それがどういうことか分かる? アイスダンスのためにすべてを投げ出せますかってことよ。
私はアイスダンスにすべてを懸けてもいいと思ってる。十分な練習環境がここにないとなったらどこに行っても構わない。費用をかけても、生活の色んなことを犠牲にしても。でも制覇君はどう? ご両親へは負担をかける。学校だってそう長くは休めないでしょう? 上手く留学なり転校なりができればいいけど、下手をしたらやめるようなことにもなりかねないのよ。そのせいで将来の選択肢に影響だって出るかもしれない。そんなことになってしまっても……制覇君、大丈夫……?」
すべてを懸けるだとか、生活を犠牲にするだとか、そんな大げさな。流斗だって、神宮路さんだって、港さんだって、当たり前のように海外に行っている。僕だって、みんなと同じくらいの気持ちはある。練習場所がここにないというのなら、どこへだって行きたい。
でもそうなったらどのくらいの費用がかかるだろう。
僕たちのゴールは全日本ジュニアじゃない。夢に辿り着くまでには何年かかるか分からない。そのためにはどのくらいの費用がかかるだろう。それに僕は耐えられるだろうか。
学校も確かに、休み続けるというわけにはいかない。
「それに無理して海外まで行ってもね、将来どれほどの役に立つかも分からないのよ。オリンピックに出たって、それで生活していけるってわけじゃないし。そもそもオリンピックに出られるかだって――私はもちろん出るつもりだけど、出られない可能性だってないわけじゃないんだから」
「別に僕は、将来のこととかでやりたいことを選んでるわけじゃないんで……」
僕はそう言いながら、自分がまるで無理に何かをせがんでいるかのような気がしてきて、途中から言葉を続けることができなくなった。僕の前では陽向さんが、グラスを両手で握りしめて考え込んでいた。
しばらくして陽向さんはうつむいたまま首を横に振った。顔を上げると僕を見て言った。
「一度、おうちの方にもリンク状況が変わったことをお伝えして。そしてよく相談して。海外に練習に行くかどうかではなくて、私とアイスダンスを続けていいかどうかについて。私はもちろん制覇君と続けていけるものなら続けていきたい。私が費用を持てばすむことなら、そうさせてもらうわ。でも、これは費用だけのことではないと思うの」
この前まで中学生だった僕と、高校三年生になった陽向さんでは、見えているものが違うのかもしれなかった。
陽向さんはもうすぐ大学生になる。それより少し上の大学二年生の南場さんは、将来スケートで生活していくつもりはないからといって七級を目指すのをやめた。朝から晩までリンクにいる生活から普通の学生に戻り、スケートは趣味として楽しんでいくと言っていた。それが普通の大学生。もうすぐ社会に出て、普通の仕事に就く大学生。
もしも南場さんが今陽向さんと組んでいたらどうなっていただろう。陽向さんは、あの人の人生を狂わせていたかもしれないと思いを巡らせたりしているのだろうか。
「もしも制覇君が、世界を目指すのは負担が大きいというのであれば、私は港さんに連絡しようと思うの」
「港さん……?」
ここでその名前が出てくるなんて。
「港さんね、まだパートナー見つかってないんですって。世界を一緒に目指すには、色んな条件が合わないとならないから、そう簡単には見つからないわよね」
港さんにしろ、陽向さんにしろ、彼らが抱いているほどの大きな夢を追いかけるというのは、思った以上に大変なのかもしれない。気持ちだけではやっていけないのかもしれない。
いくら僕が陽向さんと一緒にやっていきたいと言ったところで、環境がなければどうしようもない。いい環境に移るにも資金がいる。一度海外に行くくらいならかき集めて何とかできるかもしれないけど、尽きればそこで終わり。長くは続かない。あとでそんなことになるくらいなら、今ここで港さんと組み直してもらった方が彼女にとってはありがたいんじゃ……?
「港さんとはオリンピックに出られたとしても、年齢からしてせいぜい一回でしょうけど。そのあとは……そうね、蒼井君を神宮路さんから奪い取ろうかな」
陽向さんは冗談っぽく笑ってみせた。




