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39.支えと負担 1


 流斗の話を聞いてから、僕はひどくくだらないことで悩んでいたんだなという気分になった。


 アメリカでの合宿については、先生がそのうち両親に会って詳しい話をしてくれることになった。だけど、アメリカに行こうが行くまいが、僕のやるべきことは決まっている。言われた練習をやるだけだ。

 そして公立高校には行かなきゃならない。でないとスケートは続けられない。だからアメリカに行くことになったとしても、勉強くらい頑張ってどうにかする。そうしなくちゃならない。そういうことなんだ。

 どこにも悩むことなどなかったのだとわかった。



「制覇君、クラシック好きじゃないって言ってたけど、映画音楽とかミュージカルとかはどうかしら?」

 夏用の練習着に衣替えした陽向さんが、リンクサイドのベンチで僕にたくさんのCDを広げてみせた。きれいに浮き上がった鎖骨が(まぶ)しい。これまでタートルネックだった(えり)ぐりは大きく開いたものに変わり、袖も、腕の見える長さになっていた。

 夏までにはシルバーを取りたいと言っていた陽向さんを随分待たせてしまったけれど、やっとそれに向けての準備が動き出していた。


 シルバーの課題にはこれまでと違いフリーダンスが含まれている。プログラムは曲を選ぶところから自分たちで作っていかなくてはならない。自分たちで、とは言っても僕たちの場合中心になるのは先生と陽向さんであって、スケートの試合というものに詳しくない僕は二人についていくだけだった。


 先生と陽向さんはシンデレラのワルツを選んだ。広いリンクのどの点から滑り出すかも、そこから右に動くか左に動くかどう手をとるかも、先生が僕たちのためだけに考え出してくれた。

 自由なプログラムというのはとても滑りにくいものだった。これまで練習してきたベーシックなプログラムから予想される流れを、度々裏切ってくる。リフトやスピンといったエレメンツも、プログラムの中で速度を落とさず成功させるというのは、単独でやるのに比べて格段に難しかった。


 必死に取り組んでいる僕の横で、きょうちゃん先輩が「シンデレラがついに王子に昇格だ」といって笑った。練習に真剣に打ち込んでいるつもりでも、そう言われると恥ずかしさに負けて、僕は陽向さんの隣に立つ度におどおどするようになってしまった。

 その態度がきょうちゃん先輩の何を刺激してしまったのか、先生が目を離した隙に、彼女は僕に代わって陽向さんの隣に立った。


「王子っていうのはね、こうでなくちゃ」


 そう言ってきょうちゃん先輩は陽向さんに手を伸ばした。その身のこなしと表情の見事さ。そこに陽向さんが優しく応え、手を取った二人はそのまま滑り出すのではないかと思うほどだった。

 もちろん、二人が滑り出すことはなかった。すぐに二人は手を解いて、黄色い笑い声を立てた。


 僕はその時まできょうちゃん先輩のことをあまり上手い人だとは思えずにいたのだけれど、こういう身のこなしを見せつけられると、さすがフィギュアを好きでやっているというだけのことはあると感心せずにはいられなかった。


 そしてバッジテストの日が訪れた。会場はモミの木だった。


 リンクに着くと、吉田さんが緊張ぎみの女の人を励ましながら、曲を聞かせたりダイアグラムを見せたりしていた。第一プレリミナリーと第二プレリミナリーを受験する後輩の相手を頼まれているらしかった。


 二人がそうしている様子を遠くから見ていると、ふと二人は付き合っているのだろうかと思った。そう思ってしまったことに気づいて、慌ててその考えを振り払った。二人がやっていることは練習として普通のことじゃないか。それをそんな風に捉えてどうするんだ。でもそう見えてしまうんだということを実感して、なんだか複雑な気分になった。


 果歩は僕を撮影するためにわざわざ来てくれた。前は全然必要性を感じなかったのに、今回はとてもありがたく思った。初めてのフリーがどんな風に仕上がったのか、自分の目でも確認したかった。

 陽向さんはプレシルバーの時に果歩が僕のことを撮影していたのを知っていたようで、顔を見るとすぐに挨拶をした。

「彼女さんよね?」

 そう尋ねる陽向さんに、僕は慌てて「違います、違います」と言った。


 果歩はダンスのテストが始まるまでの間、一人ぼっちで過ごしていた。僕は陽向さんとイメージトレーニングやアップをしながら、そんな果歩を遠くから眺めていた。


 しばらくすると果歩は理子さんの腕を引いて、僕たちの前に表れた。

「理子先生も一緒に制覇のバッジテスト、見ましょうよ!」

 果歩は一緒にテストを見てくれる相手が見つかったのが嬉しいのか、はしゃいで理子さんの腕に絡みついていた。理子さんは果歩から逃れようとしているように見えたけれど、パワーで押さえ込まれていた。


「あら。お久しぶり。いつもお世話になって」

 理子さんを見つけた姫島先生が挨拶をした。その挨拶に、理子さんはどことなく落ち着かない様子で答えた。

「お……お世話になってます」

「結構繁盛してるらしいじゃない。私たちもここで練習させて欲しかったわ」

 先生はリンクを見渡すとそう言った。

「一般営業でのレッスンはお断りしてますけど、貸し切りならいつでも大歓迎ですので……」

 理子さんはおどおどと答えた。

「それだけでは練習に困るからお願いしてるのよねぇ。そう言えばあなたが作ったサークル。人数多くて邪魔なのよね。私たちをここに入れてくれないのなら、せめてあの子たちをどうにかしてくれればいいのに」

「そんなこと言ってるわりに、うちの部員のこと便利に使っておられますよね……。吉田君とか」

 理子さんは、理子さんとは思えないほど遠慮がちな態度でひっそり反論した。

「使うとか使われるとかではないでしょう? 狭い世界なんだから、お互い協力しないと」

「まあ、それはそうなんですけど。……ところで」


 そこまで言うと理子さんは少しためらっていたが、思い切ったように続けた。

「制覇君をアメリカに行かせようとしてるって聞いたんですけど?」

「そうなの。まだ本決まりじゃないけど」

 誇らしげな声だった。

「それはちょっと性急じゃないですか」

 理子さんは、僕がアメリカに行くことが本当に気に入らないらしい。大人げないけど、理子さんらしくてほほえましく思えた。

「そんなことないわよ。将来のことを考えたら、少しでも早く海外に行った方がいいわ」

「まだ日本でもできることは十分にあるレベルだと思いますけど?」

「あなた現状を知らないからそういうこと言うのよ。海外と日本とじゃ全然違うんだから。特にダンスは。環境も技術もね。この世界じゃ常識よ、常識」

 得意そうに笑顔を見せる先生に理子さんはぴしゃりと言った。

「始めてたった半年で、海外に行かなくては技術が身につかないような競技なんですか? 日本のアイスダンスは?」

「あなたには関係ないことよ」

 先生はそう言って話を切り上げようとした。

 僕も陽向さんも果歩も呆然と二人を眺めた。理子さんが僕のアメリカ行きに反対しているのは、僕がほほえましく思うようなしょうもない理由なんかではないのかもしれなかった。


「先生の仕事は、生徒を教えることなんじゃないんですか? 日本にいてもできることはあるでしょう? 海外の先生を紹介して成績が出せれば、あなたは満足なんですか? もっと日本で生徒を育てていくことをお考えになったらどうなんですか? そんなことで、日本のアイスダンスに未来はあるんですか?」

「アイスダンスの未来? そんなことを考えるのは私の仕事ではないわよ。私の仕事はねえ、この才能を埋もれさせないことよ。そのためには海外でのレッスンが必要なの!」

 先生は陽向さんの肩に手をかけると、ほんの少しの間、彼女をきゅっと抱き寄せた。


「制覇君は、普通にアイスダンスを習いたかっただけなんですよ。なんで始めて半年でこんな大きな負担を強いられなくちゃならないんですか」

「負担って? 何が負担なのかしら? 上達するために練習をする、合宿をする。普通でしょう? 選手としてやっていける子を探してるってことは最初に言ったはずよ?」

「他の競技を考えてみてください。全国でかなり上位にいるような子でも、海外でレッスンなんて話にはそうそうなりませんよ。才能や努力がトップクラスの子だってですよ。ほとんどの子は身近な場所で何年も練習してるんです。いくら選手を目指してるからって、始めて半年で海外レッスンだなんて、おかしいですよ?」

「おかしい? 今のお話を聞いていたら、むしろ恵まれているのではないかとすら思ったのだけれど。あっという間に海外の素晴らしいレッスンを受けることができるだなんて」

「その感覚が狂ってるって言うんです。トップレベルになっても身近な場所で練習できることの方が、よっぽど恵まれてるに決まってるじゃないですか」


 その理子さんの言葉を聞いて、僕はいつの間にかすっかりフュギュアスケートの特殊な感覚に(おか)されていたことに気がついた。最初はあんなにも別世界に思えたというのに、その別世界での当たり前が自分にとって当たり前になっていた。


「制覇君はそんなつもりで始めたわけじゃありません。こんなペースで飛ばしてたら、家族や家計にどんな負担がかかると思ってるんですか?」

 二人のやりとりに、ちらちらと周囲の目が向けられていた。


「(あの……)」

 僕は陽向さんに声をかけた。けれど、陽向さんは僕の声が聞こえないほど二人に見入っていた。

「(果歩!)」

 仕方なく僕は陽向さんに聞こうとしたことを果歩に尋ねた。

「(アメリカまでの交通費ってどのくらいかかるんだ?)」

「(知らない。ン十万くらいじゃない?)」

 果歩は理子さんの方を見つめたままそう答えた。

 何十万。それは幅のある表現だったけれど、その程度すら想像してなかった僕には十分な数字だった。

 いったい僕はアメリカまで、いくらで行けるつもりだったんだろう。

 気がつくと、さっきまで先生の方ばかりを見ていた陽向さんが、僕の方をじっと見ていた。


 先生は、理子さんに言った。

「あのね。余裕のないご家庭は、スケートなんてなさらなければいいのよ」

 僕は複雑な思いで、先生のその言葉をかみしめた。

 余裕のない家庭――

 思い出してみると、遠征費などがとてもかかることは理子さんにも最初に言われていた。そんな僕の横で、理子さんは言った。

「本気で言ってるんですか?」

 声を抑えてはいたけれど、すごい気迫だった。


 そこに北大路さんがかけてきた。

「先輩、ここにいたんですか」

 北大路さんに声をかけられた瞬間、理子さんははっと我に返ったような顔をした。

「きゃっ! 私ったらなんてことを。先生のことは尊敬してます。色々と事情があることはお察ししています。大変失礼いたしました~」

 早口にそう言って北大路さんの腕を引くと、慌ててその場を去っていった。先生は腹立たしそうに、理子さんの後ろ姿を見送った。

 その後、果歩に呼ばれて事情を聞いた吉田さんは、熱心にその場を取りなした。


 吉田さんが言うには、理子さんは夢中になるとつい立場を忘れてずけずけと意見を言ってしまう性分なのだそうだ。それについては本人も気にしていて、先生などが集まる大事な場にはあまり表に出てこないようにしているらしい。

 だからバッジテストの時、いつも陰でこそこそしていたのか。


「別に何を言われようが、何とも思ってないから大丈夫よ。昔から挨拶もろくにできない礼儀知らずな方だということは承知してましたから」

 吉田さんの言葉に、先生はつんとしてそう言うと、指先で額にかかった前髪を払った。


 僕はすっきりしない顔でテストを受けてしまったようで、なんとか合格はできたものの、もっと生き生きした表情で滑るようにとジャッジから注意を受けてしまった。陽向さんはというと、あんな場面を見たわりにいつもと変わりない演技ができていた。先生もあっさりと気分を切り替えていたらしく、「あんなことくらいでいちいち動揺しないの」と言った。もっと深刻なトラブルが試合直前に起こることだってあるのだから、滑り始めたら気持ちは切り替えなさいと(さと)された。

 先生は僕たちと、解散するとまたこの前のジャッジの方へと足を向けた。いつの間にかそこに陽向さんの母親も加わっていた。


 陽向さんは自分の荷物を片付け終えると、帰りがけに「お疲れ様」と声をかけてくれた。

「じゃあまたね」

 と小さく手を振りながら見せてくれたその笑顔は、いつものように柔らかかったけれどどことなく捉えどころのない表情にも見えた。



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