36.パートナーの資格 2
次の練習の日、電車を降りると上本が駆け寄ってきた。
「ったく、お前携帯ぐらい持てよ!」
「わっ」
僕は突然腕を掴まれ、リンクまで走らされた。リンクの入り口では練習着のまま外に出てきたきょうちゃん先輩が、激しく手招きして僕を呼んでいる。「連れてきましたよ」と息をつく上本と交代して今度はきょうちゃん先輩が僕をリンクの中へと急かす。
「早く早く!」
「一体どうしたんですか?」
リンクに駆け込みながら尋ねる。
「来ちゃったのよ! 港さん!」
一般営業のリンクでは、たくさんのスケーターが反時計回りに回っていた。その流れの間を一組のカップルが、右に横切り左に横切り、大きく蛇行しながら進んでいく。
僕は二人に吸い寄せられるようにリンクサイドへと近づいた。
それは単にすごいスピードで滑っているという印象とはまた違っていた。近寄っては離れていくその迫力に僕は圧倒された。
きょうちゃん先輩がリンクサイドにいた平野に尋ねた。
「どうなってるの?」
「先生は自分が呼んだんじゃないって言ってました。連盟の人から連絡があったらしくて」
「ちゃんと相手がいるってこと伝えなかったんじゃないの? あの先生、ひなに狂ってるから」
きょうちゃん先輩は非難するように言った。
「ここで気に入られればパートナーに抜擢されるんじゃないかって先生が」
平野は報告を続けた。
「それでひなは?」
「『受けて立つ!』みたいな。で、こういうことに」
「あらま。ひなってばプライド高いとこあるからねぇ」
きょうちゃん先輩は腕組みをしてリンクを少し眺めたあと
「どうするの?」
と僕に聞いた。
「どうって……」
「いつもみたいに馬鹿なこと言って、ひなを取り返してきたら?」
「馬鹿って……?」
「身の程知らずなこと。今まで色々言ってたような」
にっこり笑ってそう言う。
「あれは……」
陽向さんのレベルも目指しているものも知らずに、軽々しいことを口走ってきたことは思い出したくない。
「ほんとにバカでした」
「反省しないでよ。褒めてるんだけど?」
そうは言われても。
「あの人の方がいいと陽向さんが思うんだったら、僕は……」
目の前を二人が風を切って通り過ぎていく。ステップを構成しているカーブの一つ一つが大きくて深い。
いつも僕とは余裕で滑っている陽向さんが、額に汗を滲ませていた。
アイスダンスが上手く成立するかどうかは男性にかかっていると言われている。圧倒的に上手いこの港さんと組む方が、大きな舞台への近道なのは確実だ。
「陽向さんはこの前、お前の方がいいって言ったんじゃねーの? あんまりあの人のことを気に入ってるようには聞こえなかったけど?」
だけど抜擢されたいと思ったから、今一緒に滑ってるんじゃ……?
「いやー、すごい上手だね。基本を大事に練習してきたことがよく分かるよ」
二人は滑るのをやめ、フェンスへと近寄り先生と一緒に話し始めた。僕たち外野は少し離れたところから、その様子を見ていた。
港さんという人は二十八才というだけあってちょっとおじさんっぽかったけど、小学校の時人気のあった若い先生を思い出すような人だった。
先生は陽向さんが褒められたことですごく機嫌がよさそうだ。
「練習拠点は今どちらなの?」
「フランスですね」
「ああ、フランスね。最近よく評判を聞くわ」
「ねえ、フランスってどういうこと?」
きょうちゃん先輩が僕に詰め寄る。
「どういうことって?」
そんなこと僕に聞かれても。
代わりに上本が答えた。
「シングルと同じでアイスダンスも、トップは海外で練習してる選手が多いってことですかね。組んだらフランスに行くんじゃないですか?」
「ええー? 先生ってば、ひなのこと手放せるのかしら? それともついていく気?」
僕たちは緊張しながら先生たちの会話に聞き耳をたてた。
「フランスはどんな感じなのかしら?」
「そうですね。指導内容ももちろんいいんですけど、練習環境が全然違いますね。でも新しいパートナーとどこでやっていくかは、またその相手と一緒に考えていこうかなとは思っています」
そう言った港さんの視線が陽向さんに向いた瞬間、きょうちゃん先輩が僕をせっついた。
「ちょっと、シンデレラ! そろそろカボチャの馬車に乗って、王子様を迎えに行って!」
「なんですか、それは?」
「いいから!」
僕はきょうちゃん先輩に引っ張られて、先生たちの所へと連れて行かれた。
「先生。全日本クラスの方が来ているのに、ひなにしか勉強の機会を与えないというのは不公平だと思います。ここにもアイスダンスをしている子がいるんですから、この子のことも見てもらってはどうでしょう?」
きょうちゃん先輩はそう言うと僕を先生の前に突き出した。
「おー! 男子いたんだ! 男子! 嬉しいねえ! 日頃は一緒に練習してるの?」
港さんはものすごいテンションで僕に握手すると、「はい、じゃあ組んで組んで。何か滑って見せて!」と陽向さんと組ませようと、僕たちの背中に手をかけた。
先生は焦って、「港さんは教えに来てくださったんじゃないのよ」ときょうちゃん先輩を制止したが、もう流れは変えられなかった。
港さんはリンクの長い辺の真ん中で、フェンスに背中をもたれさせ見物する姿勢をとった。
「タンゴを滑ってもいいですか?」
ここ何日か一人で練習してきた中で、一番進歩を感じているパターンダンスを指定した。
きょうちゃん先輩は陽向さんを取り返してきてと簡単に言うけれど、そう単純にいくんだろうか。
僕が陽向さんのパートナーであり続けるためには、僕も同じ夢を真剣に目指すのだと宣言しなくてはならない。だけど、陽向さんの夢と僕の夢では、夢へのリアリティがまったく違っていた。
とはいえこうなった以上、やれるだけのことをやるしかない。
シンデレラに助け舟を出すなんて先輩はまるで魔法使いの……と言いかけた上本が、きょうちゃん先輩に殴られていた。その横をすり抜け、僕たちはスタート位置につく。
先生が音楽プレーヤーを持ってそばに立った。
隣に立つ陽向さんの表情は気迫に満ちていて、いつもよりずっとタンゴらしい。
背筋を伸ばして気合を入れて手を差し出す。
雑踏の中、タンゴ独特のリズムが聞こえ始める。
その音楽に耳を澄ませる。
これまで考えてきたこと、これまで見てきた映像を思い浮かべる。一音一音ごとの断片的な動きではなく、曲の流れを通しての動きを想像する。今の僕が理解している最高に「質の高い滑り」をここに出し尽くそう。
膝を深く曲げながらぐっと踏み込み、大きく流れる。そこからすっと立ち上がり足を体に引き寄せ、体の真下で力強く足を踏みかえる。タンゴの独特の強弱だ。
二人の移動する速度、上下するタイミング、今までで最もそろっている。
僕にとってその一曲は、それまで滑ってきた中で一番といえる一曲になった。
「よーし。よくやった、よくやった!」
滑り終わると港さんは僕たちに向かって大きな拍手をくれた。陽向さんは勝ち誇った顔で彼を見た。いつもならみんなが目を向けるのはそんな陽向さんなのに、先生とクラブの仲間たちの注目を集めていたのは僕だった。特に先生は何かが納得いかないといった顔をしていた。僕が先生の前でタンゴを滑ったのは久しぶりだった。
「知らない所にこんなに滑れるカップルがいたんだなあ」
港さんはそんな誉め言葉と共に、笑顔で僕たちへと寄ってきた。
しかしだからといって僕たちが完璧だったはずもなく、港さんはリンクのあちこちを指さしながら僕たちのホールドに手を入れアドバイスを始めた。
「そこのコーナーの女の子が振り返るところね、脇の所でこうしっかり支えてあげると相手もエッジを保ちやすくなると思うよ」
そのまま僕たちは一般営業が終わるまで、港さんのアドバイスを聞きながら練習を続けた。
一般営業が終わりリンクを上がると、待ち構えていた先生が港さんに声をかけた。
「ごめんなさいね。変なことに付き合わせてしまって」
「いえいえ、これは上手くなると思いますよ。楽しみですね」
「それで、どうでしたかしら? 港さん」
先生は不安と楽しみが一緒になったような顔で港さんを見た。
そうだ。港さんは僕を教えるためではなく、陽向さんの実力を見るためにここに来たんだ。新しいパートナーを求めて。
「そうですね。音川さんはとても将来性があると思います。丁寧できれいに滑るし、今日間近で見させてもらって、とても若くて力のある滑り方をする子だなと感じました。ただそれで思ったのは、彼女が円熟した滑りをするようになった頃には僕はもう三十を余裕で過ぎてる、ということでして……」
そう言って港さんは先生に頭を下げた。無意識のうちに強く握りしめていた拳から力が抜けた。
陽向さんも言っていたけれど、やっぱり陽向さんと港さんじゃ年齢が釣り合わないんだ。
よかった……。
でも、陽向さんの年齢なんて、ここに来る前に分かってたんじゃないんだろうか。
ふと見上げると、港さんと目が合った。彼はにこやかに僕に言った。
「僕はね、本当に後輩には育って欲しいと思っててね。ほら、アイスダンスする男って貴重だからなあ。僕はもうかなり上になってきちゃってるしね」
港さんが、胸に国旗のついたウィンドブレーカーを羽織った。それまで彼のことを気にしていなかった他のクラブの生徒たちが、遠巻きにそわそわし始めた。
「数年後には全日本で会えるかな?」
帰り際、港さんはそう言って僕に、右手を差し出した。




