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30.現実 1


「天宮制覇さん。もう一度パートナーと一緒にリンクに入ってください」

 分厚いコートを着たジャッジが三人ほど、クリップボードを手にこちらを見つめている。その内の一人の手に握られたボールペンが、すっとリンクの中心線を指し示した。

「先ほど滑ってもらったアメリカンワルツ、パターンが歪んでいました。ロングアクシスに対して左右がしっかり対称になるように気をつけてもう一度滑ってみてください」


 アイスダンスに出会ってから半年。

 僕はこの日、全日本ジュニアへの出場資格となるプレシルバー級の取得へと挑戦していた。

 しかし課題を滑り終えた僕にジャッジから伝えられたのは、合格の言葉ではなくやり直しの指示だった。バッジテストは少しの失敗であれば、やり直しのチャンスをもらえることがある。僕と陽向さんは羽織っていたウィンドブレーカーを先生へ預けると、氷へと向かった。たった二人で乗るにはずいぶん広い氷だった。


 先生は僕の背中に手をかけて言った。

「大丈夫よ。膝をやわらかく。どのあたりで回りたいのか、少し先の目標を正しく意識して進むのよ。いってらっしゃい」

 冷たく感覚の鈍くなっていた足をその場で曲げ伸ばしすると、僕はスタート位置へと移動した。


 プレシルバーの課題の一つであるアメリカンワルツ。

 このダンスは、一種類のターンだけで構成されるとてもシンプルなものだ。しかしシンプルだからといって簡単なわけではない。シンプルだからこそ、パターンの歪みを誤魔化すこともできない。

 僕は深く息を吸うと、自分の描くべき軌跡を見定めた。


 ここでプレシルバーに落ちたとしても、僕の場合パートナーである陽向さんがすでにこの級を持っているので、彼女と組んでいる限り試合に出るのには困らない。だけど僕だって、自分の力で出場できるだけの資格を取りたかった。


 リンクサイドに用意されたCDプレーヤーから、三拍子の音楽が聞こえてきた。緊張している僕の手に、温かい手が重なった。僕はリズムを体で取ると、スタートの合図を彼女に送った。僕たちは滑り出し、向かい合ってワルツホールドを組んだ。


 顔を上げて、自分がリンクのどこにいるかを確認しながらターンを繰り返す。右に回り、相手が回るのを待って今度は左回り。二人でくるくると回りながら、リンクを周回していく。


 定められたパターンを氷の上に描いていく。今度こそちゃんと認められるような完成度でやらなくては。


 音楽に合わせて決められたことを決められた通りにこなさなくてはクリアできない。この時の僕には、アイスダンスがそんなテクニックを競うゲームのように見えていた。


「プレシルバーはジュニアに出れてしまう級でしょ。このまま出られては困るのよね」

 リンクから上がると、ジャッジの中で中心と思われる女性が、僕と先生の顔を見比べながらそう言った。先生は苦い顔をしながら神妙にうなずいた。僕のやり直しはアメリカンワルツだけでなくほとんどの課題に及び、指摘された箇所は十ヶ所を超えていた。

 途中で何度も落ちるんじゃないかと思ったけど、やっぱり無理だったか。


「試合に出たり次のシルバーを取る時までには、さっきの注意点をしっかり直しておいてくださいね」

 その言葉でバッジテストは終わった。

 それがあまりにあっけなかったので、僕は事態をよく呑み込めなかった。

 隣から「おめでとう」という声が聞こえた。僕は隣にいる陽向さんの顔を見た。


 陽向さんはにっこり

「次はいよいよシルバーよ。よろしくね」

と笑った。僕は自分が合格できたことを理解した。

「今日はありがとうございました!」

 僕は陽向さんに頭を下げた。


 これまでは一緒に練習していても、決して「一緒」に練習していたわけではなかった。今日のテストも受けたのは僕一人。陽向さんには僕のテストの相手をしてもらうためにわざわざ来てもらっただけ。だけど明日からはシルバー、そして試合という同じ目標に向かって、本当の意味で一緒に練習をしていくことになる。

 僕はやっとスタート地点に立ったのだ。

 あいつとの勝負も、やっと始まる。


 片づけが始まると、先生がさっきのジャッジを呼び止めしゃべりかけた。

「ごめんなさいね、岡崎さん。なんだか無理なお願いをしてしまったようで」

「そんなことないわよ。全日本目指すんでしょ? 近畿からも選手が出せるだなんて素晴らしいわ。期待してるわよ、がんばって」

 少し前の様子からは予想もできないような言葉が飛び出た。

 期待している――。

 それは僕たちに向けられた言葉なんだろうか。岡崎さんと呼ばれるジャッジが先生に向かって(ほが)らかにほほ笑んでいるのを、僕は信じられない思いで見た。

 しかし先生はその言葉に表情を(ゆる)めることもなく、深刻な声で話を続けた。

「関東のカップルがシルバーを取ったって聞いたんですけれども」

 !?

「ああ、私もね、そのテスト見に行っていたのよ」

 岡崎さんはバッジテストの記録ノートにサインをすると、それを先生に手渡した。

「どうでした?」

 探るように聞く先生に、岡崎さんは顔をほころばせた。

「あれは本物ね~」


 本物……。

 そんな言葉が出るなんて思わなかった。

 前に見た、あいつの全日本ジュニアの映像。そんなにいい演技だとは思えなかった。

 でも、あいつが上手いことも知っている。初めてこのリンクで出会った時のことを思うと、(いま)だになんとも言えない焦りが胸を突き上げてくる。

 そのくらいあいつは上手い。上手いことは上手いんだけど。


 世界にはもっとすごいアイスダンスはある。陽向さんが見せてくれた、世界ジュニアの優勝カップルの演技を思い出す。

 僕はあそこを目指すんだ。陽向さんと。

 もやもやした思いをどこかへ追いやると、僕は心の中でそう念じるようにつぶやいた。岡崎さんの話に真剣に耳を傾けている先生の様子も、陽向さんの様子も、僕には見えなくなっていた。


 中学三年への進級を控えた暖かい春の夜だった。

 その暖かさの中には、まだ厳しい冷たさが残っていた。



 次の日。僕は果歩に呼び出されてモミの木を訪れた。リンクサイドを歩いていると、果歩はすぐに僕を見つけて氷から上がってきた。

「昨日はお疲れさま。待ってたよ~ん」

 果歩は機嫌よくそう言うと、リンクサイドのフードコートに僕を座らせた。

「なんだよ、こんなところに座らせて」

 果歩はテーブルにタブレットを置くと、椅子を寄せ僕のすぐ隣に座った。

「ほらほら、昨日撮った動画だよ。ここで一緒に見よ」


 果歩は昨日のバッジテストに来て、僕がテストを受けている様子を録画していたのだ。

 僕が撮って欲しいと頼んだわけではなかった。僕は自分の滑る姿に興味なんてなかった。だから何度も断ったのだけれど、果歩は笑顔で遠慮しないでと繰り返した。だから好きにさせたのだった。


 画面に、手を繋いで隣り合う僕と陽向さんが映し出された。これを果歩に見られていたのかと思うと、複雑な気分がした。果歩は涼しい顔で画面をタップした。曲が鳴り始めて数秒後、そこに映った僕が滑り出した。

 その瞬間――。

 一瞬で血の気が引いた。


「見るな! こんなもん見るな!」

 僕は慌てて自分の姿の映る画面を両手で(おお)った。

「え? 何を今さら? 私、本番見てるのに?」

 果歩はきょとんとして言った。

 画面を覆った指の隙間から見えるのは、受け入れがたい自分の姿だった。

「僕はこんなものをさらして生きていたのか! 死にたい! 今すぐ死にたい!」


 もっと上手く滑れているものとばかり思っていた。頭の中ではもっといい滑りをイメージしてやっていた。それがこんなにも(ひど)い滑りだったなんて。恥ずかしい。恥ずかしすぎて、生きているのも辛い。


「そこまで言わなくても。私なんか意外と上手だなって、びっくりして見てたんだから」

「お前はアイスダンスのこと、なんにもわかってないだろ! 大体なんでこんなもの撮ったんだよ、頼んでもないのに!」

「ええっ? 制覇って、馬鹿なの? ほら、ちゃんと見てごらんよー」

 果歩は僕の頭を抱えて、無理やり画面の方に向けさせた。

「何のために撮ってあげたか、理由、分かるでしょ?」

 そこには相変わらず目を(そむ)けたくなる自分の姿があった。

「分かりたくないよ! お前は鬼か!」

 僕は果歩の手を振り払い、立ち上がった。

「なんでこんなもの見せられなくちゃならないんだよ!」

「あっ! ちょっとこら! せいは~!!」

 後ろからそう叫ぶ果歩の声が聞こえる中、僕は一目散にその場から逃げ出した。


 最悪だ。最悪だ。

 自分の姿を見るのが、こんなにも()(がた)いことだったなんて。

 ほんの少しだけ目にしてしまった映像を思い出すだけで、僕は自分の頭をどこかに打ちつけたいような衝動に駆られた。

 別に陽向さんと同じレベルで滑れるようになっているなんて思ってたわけじゃない。そこまで図々しいことを考えていたわけじゃない。でも彼女の隣に立ってプレシルバーまで受けて、全日本ジュニアに一緒に挑戦できる資格も取れて、ジャッジの人にも期待していると言ってもらえて、僕はいつの間にか自分のことをとんでもなく勘違いしてしまっていた。


 あの程度の滑りしかできていなかったのに――。


 これまで平気で恥をさらしていた自分が嫌になって、生きる勇気も失いそうだった。


 一刻も早く忘れよう。多分それが一番いい。今の自分の姿には目をつぶっていよう。がんばっていればいつか実力もついてくる。

 無意識のうちにそう思った。そうしなければ、自分の存在すら危うくなりそうだった。


 僕の中学二年は、そんな気分でいる間に終わった。




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