26.朝を迎えて 1
僕はみんなの寝静まった部屋へそっと帰った。
子ども部屋に入ると大義の寝息が聞こえた。明かりをつけないままノートパソコンのところまで行き、電源を入れる。起動する時、思ったよりもずっと大きな音が鳴った。でも構うもんかと思った。どうせ大義はそんなことなんかで起きるはずがない。靴からエッジカバーを外し床に置くと、パターンダンスのDVDを手に取った。バッジテストの課題、とりあえずなんとかして覚えよう。今度のバッジテストに、まずは合格してみせよう。
この先の世界に歩みを進めるのに、自信となるようなものがせめて何か欲しい。
画面の前に座り、ステップを口に出してみる。全然覚えられていない。吉田さんに言われたように、体を動かしながらやってみようか。なんだか恥ずかしい気がするけれど、誰かに見られるわけじゃない。それで覚えられるならやってみるべきか。
立ち上がり、ステップに合わせて足踏みをしてみた。一分後。子ども部屋のドアが静かに開いた。母親と目が合う。
寝てたんじゃなかったのかっ。
恥ずかしさと戸惑いで僕は動きを止めた。母はわずかに開けたドアの隙間から、手招きで僕を呼んだ。足踏みする音がアパートに響いてしまったんだろうか。怒られることを覚悟し、ドアに向かおうとすると、なぜかPCも持って来いと合図された。
「こっちで電気つけてやりなさい。目が悪くなっても困るから」
部屋を出るなりそう言われた。そんなことを言うために、わざわざ起きてきたんだろうか?
僕がコタツにPCを置くと、母はエアコンのスイッチを入れた。
「寒くない? コタツもつける?」
寝ている部屋から眩しい所に出てきたせいか、眉間に皺を寄せている。なんとなく怖いんだけど、でも、怒りに来たわけではなさそうだ。
「いや……いらない」
PCには映像が流れ続けていた。僕は母が早く寝室へ引き取ってくれることをそわそわしながら待った。しかし母は立ち去るどころか、
「あ、踊りながらやらなきゃならないとか?」
と楽しそうに聞いてきた。
踊るって言うな!
僕は気恥ずかしさを必死に隠しながら、
「そんなこともないけど……」
と答えた。すると母は
「ないけど、何よ? さっきバタバタやりながら見てたじゃない? それをまだやるのかって聞いてるのよ」
と今度はとても不機嫌に言った。
変なところを見られたのだ。不機嫌になりたいのはこっちの方だ。
「何、怒ってんだよ? 別にやんないでいいよ」
「別にやんないでいいって……あのねえ。やる必要があるんだったらやりなさいよ。どうしてやらないでいいなんて、平気で言うのよ?」
母は、ますます怒り出した。
「恥ずかしいから?」
腹立たしそうに言われる。
いったい何を怒っているんだろうか。
「この数ヶ月のあなたを見ててもね、同じような感じのときが何度もあったんだけど?」
母はそう厳しく言うと僕を座らせ、向かい合うように自分も正座した。
あなたは子どもの頃、あ、今も子どもだけどね――そういって母は昔話を始めた。
「ずっと前よ。保育園の頃。あなたはやれもしないことをやれるって啖呵切ってみたり、人のやったことを見下してみたり。ほんとにひどい負けず嫌いだった」
母が言うには、僕はそんな子どもだったらしい。僕にはまったく覚えがないのだけれど。
「あまりにもそれがひどいもんだから、私たちは親としてあなたに、世の中勝つか負けるかだけじゃないんだってことを、教えなきゃって思ったのよ」
「分かってるよ。勝ち負けよりも、人に尽くすこと、だろ」
なぜそんなことを今さら。
これまでもう十分なくらい言われ続けてきたのに。
この時間のない時にとうんざりする僕に、母が言う。
それなのになんでまた……と思っている僕の前で、母は続けた。
「そうだよ。勝ちたいって思うのは悪いことじゃない。だけど思いやりがなくなるほど勝つことに執着してはだめなのよ。いくら負けたくないと叫んでも、誰かと勝負すれば必ずどちらかが負ける。それは分かってないと。勝った時にすごく偉そうにしたり――それよりも何よりも、負けるのを恐れて、まともな戦い方もそのうちできなくなるのよ……」
それは長年聞いてきて聞き飽きたはずの言葉なのに、どこかが何かおかしかった。
いつもと違う何かが、僕に響いてきた。
「今の僕は、まともな戦い方ができてないと?」
僕はそう尋ねていた。
ずっと両親から投げかけられる言葉が窮屈だった。やりたいことをやるなとずっと押さえつけられているような気がしていた。
でも今、僕は違う感覚を覚えている。
母は戦うなとは言っていない。まともな方法で戦えと言ってるように聞こえる。
これまでずっと言われてきた「一番にならなくてもいいじゃない」「負けてもいいじゃない」という言葉たちは、僕の勝ちたいという気持ちを封印する言葉ではなかったんだろうか?
僕の名前は大義が生まれて以来、ずっと否定されてきたわけじゃなかったんだろうか。
「練習を見られるのが恥ずかしいとか、負けたらどうしようとか、そんな風に思わずに堂々と前を向いたらいいんじゃない? あなたは『制覇』なんだから。勝ちたいという気持ちがあるのなら、それに向かってまっすぐに進みなさいよ。こんなに遅くまで練習してきてもまだ練習したいものがあるんでしょう?」
それが、僕を残して寝室へと消えていった母の残した言葉だった。
ここ数か月、僕は素直に頑張るということができなくなっていた。
頑張るところを見られたくなかったり、頑張りたいという気持ちを知られたくなかったり。どうしてそうなってしまうのか、自分でも分からなくてすごく苦しかった。
いったい、どうしてだったんだろう。
僕は何を恐れていたんだろうか。
一人になった居間で、僕は静かに立ち上がった。画面に映る人影に合わせ、再び体を動かし始める。
一曲終わる度に、再生をもう一度巻き戻す……。
夜が更けていく。外はかなり冷えてきたことだろう。部屋の中には、母の動かしたエアコンが暖かい空気を送ってくれていた。
翌朝。僕はまだ暗い中、自転車でモミの木に向かって飛び出した。
これまでは立て続けに貸し切りに出ようものなら、スケートばかりにのぼせるなと注意をされたところだ。だけど、この日の母はそれを許してくれた。それどころか、僕と話し込んで一時過ぎまで起きていたのに、五時半に起きて朝食まで作ってくれた。
そういうのって余計なお世話という気もしたけれど、だけど僕は嬉しかった。
なぜなら僕は、「別にどーでもいいけどね」と心の中で言いながら、本当はどうでもよくなんてなかったのだから。自分の名前を否定され、自分の中の感情を抑えて過ごす日常に、納得なんてしてはいなかったのだから。
僕は自分の中から湧き出るような感覚に、久しぶりに素直になれた気がした。
前の夜、セッションという短い間にも、何度も訪れた感覚。
色んな人と組んで上手く滑れた時にも、陽向さんのワルツを見た時にも、そして世界ジュニアのトップ選手を見た時にも湧きあがった、体が勝手に何かを追い求めていくような感覚。
そんな大切な感覚を覆い隠すほどに、僕には雑多なものが降り積もっていた。負けることへの恐れだとか、恥ずかしさだとか。
何という名前なのかも分からないような感情だとか。
そんな雑多な思いが全部消えたわけじゃなかった。まだどこか疼くような痛みは残っていた。
でも今はそれよりも、この本能がざわめくような心の奥底からの感覚を、大事にしたいと思った。
遠くの山の端がわずかに白み始めた。夜明けが近づいていた。
ほとんど眠っていないのに、僕は眠気を感じなかった。
十二月の朝は痛いほど寒い。冷たい空気が顔に当たった。僕は目を細めた。風を切って走るのが、心地よかった。
この感じ――何かに似ている。
そうだ。
どうして僕が、中学で部活に入らなかったって。気がついていなかったけれど、そこには理由がなかったわけじゃない。僕は、すでに選んでいたんだ。この爽快感を。
そして手を繋げば、この快感が何倍にも膨らんでいくことを僕は知っている。
それを知っている人が日本にはほとんどいないなんて。
そう思うと、なんだか愉快に思えてきた。
二組しかいない試合だからって、なんだっていうんだ。
陽向さんにふさわしいかどうかなんて、今から悩んでどうするんだ。
ほとんど人の踏み入れていない場所に、僕たちは挑もうとしている。
そんな興奮が、僕の心を激しく揺さぶっていた。




