苦痛
「……ねえ、マリー」
「んー?」
お風呂場で私の髪の毛を洗いながら、クリスは口を開いた。
彼女が後ろに回っているせいで、表情は見えないけれど……声はどこか暗く沈んでいる。
「……顔のこの辺り、少し赤くなってますよね」
「あー……うん」
頬の辺りをぷにっと指し示される。
自分でも触ってみると、確かに少し肌が荒れているようだ。
「首元も、手の甲も。多少なり露出していた部分は全部」
「まあ、そうだね……しょうがないんじゃない? 生きていくには困らないし」
原因は考えるまでもない。
吸血鬼化だ。
よく言われるように日光を浴びると体が焼けるとか、灰になるってことはないけれど……それでも、浴び続けていると肌がどんどん荒れてくる。
苦しかったりするわけではない。
ほんの少しひりひりする程度だ。
けれど、それでも……。
「……複雑な気分ですね。こうでなければならなかった……こうでもしなければ、あなたは命を落としていた」
「……うん」
「でも……。……まだ、たまに思うんです。あの時わたしがもっと完璧にあなたを守れたら、そんな業すら背負わなくて済んだかもしれないのにって」
いくら後悔したって過去は変えられない。
そんな言葉は聞き飽きた。
そうだとしても、恨み節の一つくらい言いたくなってしまうのだろう。
ともすれば死ぬまで付きまとう、頭を悩ませる問題に。
「もっと完璧に、か……でもさ、クリス。後悔がないなんて言わないけれど、私はそれでも満足してるよ? クリスが私と一緒にいてくれる、それだけでも……」
「では、イリーナさんのことはどうでもいいと?」
「……っ。それは」
何が彼女をああまで頑なにさせたのか。
出発の日までにそれを探ることはできそうにもなかった。
学園に戻ってからも、まだしばらく続くのだろうか。
日光のように疎ましく肌がひりつく、あの苦しい関係は。
「……いえ。ごめんなさい、少し嫌な言い方をしてしまいました。でもマリー、わたしは満足できないんです。また……まだ、友達でいたかったのに……」
「…………。そうだね」
髪を洗っていた彼女の手が、そこでぴたりと止まった。
ほんの少しの間を開けて、頭からざあっと水を流しかけられる……冷水というほどでもないが、それでも体中に震えが走る。
この世界、水はそう不足していないので体を洗うには困らないけれど……願わくば、誰かがガス管を隅々まで引いてくれはしないだろうか……。
「ふう……ほら、マリーの番ですよ。ちゃんと綺麗にしてくださいね」
「あ、うん」
「へ、変なところ触ったら駄目なんだからねっ!」
「触らずにどう洗えと?」
それになんだその口調は。
どこで覚えてきたんだ。
「ふふ、冗談ですよ。駄目なんかじゃありません。……ねえ、マリー?」
「んなっ……何?」
さりげない言葉に心を乱されながらも、なんとか平静を保つ。
水分を含んでしっとりとした金髪が、どうしようもなく艶やかに見えた。
「帰ったら、もう一度イリーナさんのところへ行きましょう。今度は少しくらい……何か話してくれるかも」
「……そうだね。そうしよっか」
無論そうするつもりだ。
彼女との関係をこのままにしておくつもりなどない。
……だから……そう、少しだけ。
今だけだから。
「……? マリー、どうかしました?」
「ん? んー……なんでもないよ。クリスは可愛いなって」
「そっ……そうですか? いえ、その通りですが」
「ふふ……」
潤んだ瞳、やや下がった目尻。
時折どこか遠くを見るように切なげになる目。
寂しげなクリスの顔も、もう少しだけ見ておきたかった。
***
***
「──。……? ……〜〜〜っ!!」
いやな、夢を見た。
そう思い、事実汗ばんで飛び起きた。
「はあ、はあ……うっ……く」
せりあがる吐き気を必死に飲み込む。
夢の内容は覚えていない。
ただ、ただ痛くて、冷たくて、苦しかった。それだけ。
「──おはよう。大丈夫、イリーナちゃん?」
「るー……しーさ、けほっ……だいじょ、う……ぶ……」
「はい、お水。……無理しないで。ボクは、いくらでも待てるから」
受け取った水筒に入った液体を、なんとか飲み下す。
痛む頭が鬱陶しい。
何もかも全部、切り捨ててしまいたい。
「ぁ……アンさん、は……」
「まだ講義を受けてるよ。覚えてる? ここ何日かのこと、ある程度把握できてるかな?」
「…………。だいじょうぶ、です」
……そんなつもりはない、だろう。
けれど心の中のなにかが、うじうじぐだぐだとなにかを叫ぶ。
気持ちの悪い自分自身の声が、何もかもを見下したような顔で。
「大丈夫、なんて軽々しく言ってほしくはないだろうけど……ゆっくり休んで、イリーナちゃん。キミはまだ……」
「完治してない、ですか」
「……うん。そう簡単に克服できるものじゃないよ、自分を責めないで。マリーちゃんたちもきっと……」
「あの人たちは関係ない」
「……っ」
つい、言葉に棘が混ざる。
ほんの少し前まではこうじゃなかった。
何もかもが嫌いに思える。
全てが私を悪く言ってる。
きっとこのひとも、誰だって。
「帰ってください、ルーシーさん」
「そういうわけにはいかないよ、アンちゃんに頼まれてるんだ。ボクには、少なくともキミを……」
「アンさんの方が! 私よりずっと苦しいんだって、何度も言ってるでしょう!?」
苛立ちが大きな声として表出する。
嫌で嫌でたまらない。
何と比較しても惨めな自分が、一層嫌いになっていく。
「……イリーナちゃん。キミの苦痛を過小評価するのは、誰であっても許されないよ……キミ自身であってもだ。またそうやって、なんでもないような顔で自分を追い込んじゃいけない」
「うっさい! こっち来ないで、喋りかけないで、どっか行って! 私なんてもう、どうだって……!」
「イリーナちゃんっ!」
「……っ」
彼女の大声に、思わずひるんでしまう。
……けれどそうでなくとも、そう経たないうちに喋れなくなっていただろう。
動悸がひどい。頭が痛い。
体が全部、怠くて痛くてしょうがない。
「少し落ち着いて、イリーナちゃん……深く考えるのはもっと後でもいい。アンちゃんはもちろんボクだって、キミを見放したりしないから」
「…………」
「ゆっくり眠って、イリーナちゃん。ちゃんと待ってるから……キミはひとりぼっちじゃないから。ね?」
「……っ。ごめ、ん、なさ……」
澱のようなものが積もりに積もって、声を出すのも嫌になる。
重くて深い、深すぎる眠りに、またもう一度堕ちていく。
「……ずっと、待ってるよ。キミの友達は、みんな……ね」
***
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