残る気持ちは
「はあ、はあ……。ひとまず、ここまで来れば……」
三人でもつれあうように走り、なんとかイリーナちゃんの部屋へと転がり込んだ。
状況は未だにわからない。
けれど、室内特有の薄暗さと静けさが今は心地いい……。
「ふう……。マリー、大丈夫ですか? どこか怪我は?」
「大丈夫だよ。クリスは?」
「私も特に問題ありません。しかし……イリーナさん、ひとつ聞きたいことがあるのですが」
「……はい。なんですか」
聞きたいこと。
謎ならうんざりするほどあるが、一体どれのことだろうか。
……あれ? そういえば……。
「……アンさんは、どちらに? 一緒に暮らしていたのではないのですか?」
「…………」
「イリーナさん……?」
そう、アンさんだ。
部屋には私、クリス、イリーナちゃんの三人しかいない。
自分の部屋に戻った……にしては、イリーナちゃんの様子がおかしい……。
「…………。ごめんなさい。ずっと前から、そうだったんです……知ってたのに、気づいてたのに、言えなかったんです……!」
「え……?」
「アンさんは……さらわれました……!」
「……っ!」
さらわれた?
一体誰に?
いや、そもそもなぜ……!?
「ごめんなさい、マリーさん……ごめんなさい……! わたし、なにも言えなかった……言えるわけ、なかった……!」
「な、ちょ……なんで謝るのさ、イリーナちゃん……」
「そうですよ、イリーナさん。泣かないでください、私たちはあなたの味方ですから……!」
とりあえず追及は後だ。
まずは泣き出してしまったイリーナちゃんを落ち着かせなければ。
……思えば、気づくきっかけはあったのだ。
最近の彼女の様子から、もっと穿ってみるべきだった。
何一つ気づけなかった私にも、責任はある……。
「でも……でも……っ! 何も言えなかったし、なにもできなかったんですっ! ルーシーさんが教えてくれて、マリーさんとクリスさんにも相談するべきだって……でも、わたしは……!」
「そんなの……イリーナちゃんは何も悪くないでしょ! 今からだって、きっと何かできるよ!」
さらわれたという時から、まださほど時間は経っていないはずだ。
手遅れにはなっていない……と思いたい。
「マリーさん……」
「私にできることなら、なんだって協力する! 友達、でしょ?」
イリーナちゃんは、いつも私たちのそばにいてくれた。
以前クリスが殺されかかった時だって、彼女がいなければ……きっと。
そんな友達のためだ、できることならしてあげたい。
まあ、大したことはできないかもしれないけれど……。
「ほんとに……いいんですか……?」
「うん、いいよ」
「アンさんを、たすけたいんです……マリーさん……」
「協力するよ。ね、クリス」
「ええ。私たちにできることなら、なんだって」
……彼女の瞳に、なんらかの色が宿った。
疲労と焦燥、戸惑い…………そして。
「なら……マリーさん。お願いです」
「なに?」
……かつて、彼女ではない者に何度か見た覚えのある感情。
これまでに聞いたことのないくらい低い声で、彼女は言った──。
「──死んでください。マリーさん」
「…………え」
揺れ動いていた黒目が、ぴたりと据わる。
距離は、初めから詰まっていた。
言葉の意味を、彼女の瞳に宿った感情を、理解した時には遅過ぎて。
抵抗する間も無く、そんなことを考えている暇もなく、彼女の両手が……私の首元にかかる──。
「……っ! マリーっ!!」
「ぐ……っ!」
……寸前、弾けるような音が響いた。
クリスの拳が、イリーナちゃんの顔面を捉えた音。
容赦のない打撃が、彼女を紙切れのように吹き飛ばし……彼女はそのまま、どさりと音を立てて床へ崩れ落ちた。
少しの間、嫌な沈黙が部屋を包む。
右の拳を軽くさすって、クリスが口を開いた。
「…………マリー。怪我は」
「あ……な、ないよ。大丈夫」
「そう」
クリスはあくまで平坦な口調のまま、私の首元をちらりと確認した。
そして、壁際でうずくまっているイリーナちゃんをじろりと睨む。
表情はあまり動いていないが、むしろだからこそよく分かる。
めちゃくちゃ怒ってる……!
「い、いた……痛い、ですよ……クリスさん……」
「あ?」
「……っ」
一文字の気迫で黙らせ、歩み寄る。
というか、詰め寄る。
神もかくやといった気迫だ。
「イリーナさん。おふざけのつもりですか」
「…………」
「沈黙は否定? それとも肯定? どちらにせよ、あまり舐めないでいただきたいものですね」
しゃがみ込んで目線を合わせ、淡々と言葉で詰めるクリス。
イリーナちゃんはといえば、俯いたまま一言も発しない。
……冷静に考えてみれば、彼女のやろうとしたことはただの殺人だろう。
あの目、あの声……冗談であったとは思えない。
冗談でも、許されていいことではない。
だけど……。
「わた……しは……」
「あなたは馬鹿です、本当に。愚かにもほどがあります。……こう言えばいいですか、イリーナさん」
「……なにを……?」
クリスの声音が、ふいに穏やかなものになった。
イリーナちゃんの肩をそっと掴み……そして。
「馬鹿。馬鹿な人ですよ、あなたは。そんなに、私とマリーのことが信用できませんか……?」
「う……ぇ……」
ゆっくりと、抱きしめた。
クリスの肩越しに、イリーナちゃんと目が合う。
……表情には、驚愕と疲労だけがある。
「大方、こんなところでしょうか。アンさんがさらわれ、その犯人側からなんらかの手段で脅迫が届いた。曰く、マリーを殺せばアンさんは解放する……とか」
「……っ」
図星。
そう、彼女の顔に書いてあった。
だとすれば……。
「あなたは迷った。迷って迷って時間だけが過ぎた。そうして今日、また何か連絡があったのではないですか……先ほどのあなたとマリーの慌てぶりを見るに、ルーシーさんあたりに何かあったとか?」
「……なるほど。それで」
「一刻の猶予もないと思ったあなたは、とうとうマリーを殺そうとした。……私の目の前でそんなことをすれば、私があなたを止めることなんて自明だというのに」
イリーナちゃんの表情が、クリスの推理が正しいことを裏付ける。
無論、彼女を抱きしめ続けているクリスにはその顔は見えないはずだが……。
「……ごめんなさい……ごめんなさいぃ……! わたし、でも、それでも……アンさんに帰ってきてほしかった……!」
「イリーナさん……」
未だイリーナちゃんを抱きしめているクリスの腕に、ほんの少しだけ力がこもったようにも見えた。
けれどそれも一瞬のことで、また優しく……まるで赤子をあやすかのように、ぽんぽんと背中を叩きながら抱きしめ続けている。
「本気に、なっちゃったんです……! 本気で、アンさんが帰ってくるのなら……マリーさんが死んでもいい、って……」
「……そうですか。私も、本気であなたを殴りましたからおあいこですね」
「選んだんです! マリーさんよりも、アンさんの方が大事だって……! でも、そんなの……!」
「私も選びました。マリーが殺されるより、あなたを殴る方を選びましたよ。あなたより、マリーの方が大事だったので」
的確に嫌な言葉遣いをしている。
というか、わざとそういう言い方を選んでいるんだろう。
誰よりもイリーナちゃんが、それを望んでいると分かっているから。
「クリスさん……もっと、怒ってくださいよ……」
「怒ってますよ? これ以上何をどう怒ればいいか、わからないくらいには怒ってます」
「…………。ひどいですよ。優しすぎて、ひどいです」
……落ち着くまでには、まだ少しかかりそうか。
今、私がすべきことはなんだろう?
イリーナちゃんは……。
「…………」
クリスがそっと目配せしてきた。
こちらは任せろ、そう言っているようだ。
とはいっても、どうしたものか。
まず、まだ状況がほとんどわからない。
あのルーシーちゃんからの通信を聞くに、相当切迫した状況だったと思われるが……打ち切られるように会話が途切れた後、なんの連絡もよこしてこないのが気になる。
一体、あの子に何が……。
『──聞こえる? マリーちゃん』
「……っ!」
その時、少しのノイズと共に、またも脳内で声が響いた。
ルーシーちゃん……ではない。
『私の名前はソフィア。きみのことは、ルーシーから聞いているよ……以前にも、一度顔を見せたかな』
「……ソフィア、さん……」
『早速で悪いけど、きみと少し話がしたい。きみがいるその場所から、外まで出てこられる? 待ってるよ、マリーちゃん』
「あ、ちょ……!」
ノイズが途切れる。
言いたいことだけ言ってさっさと切った、という感じだ。
まあ、この世界の彼女とはほとんど面識がないし、当然と言えば当然かもしれないが……少しもやもやする。
話したいことというのも、内容の予想こそつくが真意は読めない。
私に、何を期待している……?
「……マリー? どうかしましたか?」
「ごめん、クリス。それにイリーナちゃんも。ちょっと野暮用ができた……外、行ってくるね」
「そうですか……くれぐれも、気をつけてくださいね? 私たちも、落ち着いたらすぐに行きますから」
「……うん」
とにかく、まずは行かないと。
今のままじゃ何もできない。
……ほんのちょっぴり浮かんでしまった嫌な気分は、まだ少しだけ置いておこう。




