後日、午後。
「ただいま、クリス」
「…………」
「……? クリス?」
「…………」
オリバーを小屋で休ませて、クリスが待っている部屋へと帰ってきた。
帰ってきた、のだが……。
「あ、あれ……クリス? どうかした?」
「…………」
「クリス……」
ぷいっと顔を背けて、一切口を聞いてくれない。
回り込んでも目が合わない。
表情も、やや長くなってきた金髪に隠れてよく見えないが……なんだろう、むくれている?
しまった、もしかして何か気に障ることをしただろうか。
でも特にそんな覚えはないのだけれど。
あるいは女の子の日? ……だとしたら、わざわざ尋ねるのもな……。
「…………マリーから。私のマリーから、別の女と男の匂いがします」
「……へ?」
「むー……」
……あー、うん、違った。
嫉妬だこれ。
ええと、女はルーシーちゃんのことだろうけど、男……?
……まさかとは思うが、オリバーのこと……?
「も、もう……クリスったら。そんな浮気みたいな言い方しないでよ……」
「いいえ、していません。嫉妬もしていません、機嫌を悪くもしていません」
「……いや、でも」
「していませんったらしていませんっ!!」
……ああ、もう。
かわいいなあ。
「……そんなに嫌ならさ、クリスも一緒に来てくれればいいじゃんか。オリバーの散歩」
「いいえ」
「やっぱり、まだ犬は怖い?」
「……いいえ」
「じゃあ、朝一緒に……」
「いいえ」
「…………私のこと、好き?」
「はいっ!!!」
うーん、今日一番の元気。
まあ、もうそういうことでいいか……。
「ふふ……」
「あ……いえ。いいえ、かもしれません」
「…………えっ…………」
…………?
「好きじゃないです。大好きですよ、マリー」
「………………なんだ。危うく自殺するところだったよ」
「えへへ、ごめんなさい」
……危ない危ない。
努めて表情を動かさなかったおかげか、冗談だと受け取ってくれたようだ。
はにかんで笑う彼女も、愛らしい。
永遠にそのままでいてほしい。
「……そうだ、クリス。今日から授業も再開するんだよね?」
「ええ、そのようですよ。なんだか随分と久しぶりな気もしますね……マリー、あなたは何に出席しますか?」
「ん? クリスの行くところ、かな」
「……ふふ、了解しました」
日常が、あるべき姿を取り戻しつつある。
そのことに、感動にも似た喜びを覚えた。
……もっとも、日常などなくたって構わないけれど。
ただ、クリスが私の隣と前にいてくれるなら……。
「ねえ、クリス。今日は何を着ていけばいいと思う?」
「……え? 今も着ているのでは…………ああ、なるほど。……これはいかがです?」
「ん、ありがと」
自分以外の匂いとやらを気にする彼女のことだ、着替えておいて悪いことはないだろう。
汗も結構かいてしまったし。
それに、彼女のセンスに外れはない。
早朝私が眠い目を擦って適当に見繕ったものより、よほど信頼がおける。
「着替えたら行きましょう、マリー。朝食はまだですよね?」
「うん。クリスと一緒に食べたいから」
「ふふ……そうですね」
彼女が嫌だと言わない限り、いつでもそばにいたい。
あの日々を経験したせいか、あの思いを体感したせいか、そんな気持ちが日に日に強まっている。
彼女の全てを受け入れたい。
彼女の選ぶ全てを。
全てを、彼女に委ねたい……。
「……ふふ、ふ」
幸せだ。そう言える。
彼女の願う全てを叶えてあげたい。
それがきっと一番の贖罪で、何よりの愛の証明になるから。
私は、切り捨てた。
クリスさんBを、あの男を、クリスとの生活を守るために見放した。
それをどこか悪いとは思っても、否定はできない。
何より大切なのはクリスだから、後悔はあっても不満はない。
背負い続ける覚悟くらいは、とっくの昔に決めている。
「……マリー……?」
「なんでもないよ、クリス。行こう」
「……は、はい。ええ、行きましょうか……」
彼女の手をしっかりと握る。
もう二度と、彼女の手からこぼれ落ちないように。
きっと守って、守られるように。
永遠に、彼女を不幸にしないために……。
「…………あは」
──もう、不幸にしちゃいけないんだ。
だって、そう約束したから。
置いていかないよ。離れないよ。
でも、あなたがそれを望むなら、私はそれを受け入れる。
あなたが望む全てを、あなたが幸せになるための全てを、背負い続けると誓おう。
「……?」
「ふふ……あは、はは。ははは……」
それがあなたの婚約者で、あなたの友人で、あなたの恋人で…………あなたのペットの、役目だから。
***
***
「──ねえ」
「来たか。よく来たな。茶でも出すか? いや、血の方がいいか?」
「……っ」
いつも通り、どこかふざけた態度だ。
一体どこまで本気なんだか、皆目見当もつかない……気持ち悪い。
「そうカリカリするな。否定的なモノローグは、不死の生物には似合わない……もっと穏やかに生きるといい」
「黙って。あの子に何を吹き込んだの? ……というか、何をさせたの?」
「はて。愛するもののために、果たすべきことをさせたまでだが」
……果たすべきこと?
愛するもののため……?
「ふ……ふざけないで! 根本的なところは何も解決していないでしょう!? 何もかも後回しにして、都合のいい言葉で固めただけ!」
「それはお前も、人間もよくやることじゃないか。なあ? 吸血鬼、ルーシーさん」
「……っ!」
……やり切れない。
本当に……腹が立つ。
「落ち着けと、そう言っているだろう。あの人間の命の危機は去った。ついでに世界の方の異変もある程度はな。それはひとえに、あの人間の覚悟によるものだ……やすやすと否定するものじゃない」
「そんなの……結果論にすらなってないっ! 変貌はまだ残ってる、危機の芽も消えてない、何も落ち着ける状況じゃないっ!」
「…………」
どこか冷めた目が、こちらを見つめている。
激昂するなど、我ながららしくもない。
相手が話し合いに応じている以上、もっと冷静になるべきだ……理性では確かにわかっている。
でも、だけど……!
「今のあの子は危険だよ! 元からその気はあったけど、今はその比じゃない! 本気で……クリスちゃんのためなら、どんなことでもしかねない……!」
「お前だってそうじゃないか。まさか自分のことは棚に上げるのか? それとも全く自覚がないのか?」
「……そういう話をしたいんじゃ、ないっ! もっと、ちゃんとこっちを見てよ……お父さんっ!」
……ああ、くそ。だめだ、だめだ、駄目だ。
息が上がる。動悸が早まる。頭が熱い。
なんとかしなきゃ、そればっかり先行してまともに考えがまとまらない。
ボクは、ボクには、何が……。
「……あのなあ。いい加減、私のことも分かっているだろう? 想像くらいできるはずだ……なぜ、私があのことに限って直接手を出したのか」
「……っ」
「理由は一つ。私の自己満足のため。私は、人が足掻くのが……もがくのが……苦しむのが……あるいは幸せになるのが、その過程がたまらなく好きなんだ。快楽すら感じる。高尚なことをほざくくせに、地べたを這いずり回ってありもしない『解』を探す、そんな愚かさが何よりも好きだ……!」
「…………おぞましい」
それしか……言葉が出ない。
「危険。危険か! それこそ面白いっ! 袋小路じゃつまらない、単なる絶望に価値はない、未来があるからこそより命は暗くなるんだよ! ……だから、今の状況はむしろ歓迎している」
「…………」
「案外、お前の危惧していることなど一つも起こらないかもしれないぞ? あのまま死ぬまで幸せに、永遠に変わらず過ごすかもしれない。それはそれで、一興だ」
「…………」
趣味。おもちゃ。ゲーム。遊び。
……もう、それをどうにかする気すら起きなくなってしまった。
目先のことの方が大事だから、そう自分に言い訳してみる。
こんなふざけた神一柱、相手するだけ時間の無駄だ。
吸血鬼といえど一つの命、目先の問題に食らいついた方がよっぽどいい…………そんな言い訳。
言い訳抜きでも、それしかできない。
マリーちゃんたちのため、ボクができることなどほとんどない……。
「さて、これ以上ここにいるのは時間の無駄だろう。とっとと、元の世界へ帰るんだ」
「…………」
「あえて言おう。お前も同類だ、とな」
「……っ!」
……もういい。聞きたくもない。
やっぱり時間の無駄だった。
彼女たちの、純粋な幸せ。
ありもしない天へそれを願う方が、よっぽど有用だ……!
「じゃあな。我が愛娘よ」
「黙って! 二度とそんなこと言わないで、おぞましいっ!」
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