忘却の彼方
溢れた涙を袖で拭う。
なんとかクリスと話をつけられた……そのことに心底安堵する。
完璧じゃなくてもいい。今すぐに分かり合えなくてもいい。
今この時は、そばにいてくれるだけで構わない。
何より、今すべきことは。
「ぁ……ぁぁ」
「クリスさん……」
ルーシーちゃんの知り合いの……ソフィアさん? とやらに連れられて戻ってきた、クリスさんB。
私たちと一緒にあのぼろ家を出た後、何かを感じたように駆け出した時から嫌な予感はしていたが……。
「ぅぁ……ぁ……あ、は……ははは……」
「ねえ、クリスさん……?」
「あは……はは……は、ははは……!」
……笑っている。
気が狂ってしまったかのように。
俯いて地面に座り込んだまま……これ以上なく痛々しく。
「あー……クリス。何があったの?」
「ええと……話すと少々長いのですが──」
──クリスから、起こったことのあらましを聞く。
ああ、いつものクリスだ……なんて場違いなことを思ったが、今はそれは関係ない。
要するに、クリスが何者かに絡まれて……襲われていたのを、クリスさんBが救ってくれた、と。
ただし、かなり過激な方法で。
この場にいた三人とも、妙に顔色が悪いのはそのせいか。
イリーナちゃんとアンさんは、力尽きたように地面に座り込んでしまっている……。
「──それで、どうしてこんなことに?」
「分かりません……ただ」
「ただ?」
「……あの人が……マリーを殺したのか、と。そう、言っていたような」
あの人……ルーシーちゃんが現在進行形で治療をしているあの男の人か。
まだ意識を取り戻していないようだ。
確かに大怪我をしていたようで、クリスさんBがクリスを助けた結果なのだとすれば……いや、待て待て。
「私を……殺した? それってまさか……!」
「……ええ。『私』が言っていたことですし」
……間違いなく、クリスさんBのいた世界でのことだ。
確かに、私の死因は分かっていなかったが……殺されていたのか。
「ひは、は。はは、あは……あはは……」
「ねえ、クリスさん……クリスさん?」
「あは……やった。やったよ、マリーさん……きこえてる……?」
生き返ったクリスさんBは、きっと復讐を望んだのだろう。
しかし何らかの理由で、結局果たせなかったのではないか。
そのまま時を経て、この世界へと渡ってくる方法を見つけ出して。
何の偶然か、そこで私の仇との邂逅を果たした……。
「でも、クリスさん……私は……」
「すき。だいすき。あいしてる、マリーさん……マリーさん…………」
「…………」
まるで寝ぼけているかのように、私の名前を連呼するクリスさんB。
その表情に浮かぶのは、何かを果たした達成感か……それとも虚脱感か……あるいは……?
「……わかってるよ。マリーさん」
「え……?」
「こんなことしても、無駄だって……無意味だって、ちゃんとわかってる。わたしが誰かを殺すのを、マリーさんはよく思わないし、どうせ誰も幸せになれないって……ちゃんと、分かってるから……」
「クリスさん……」
どこか諦めにも似た表情。
無駄で、無意味。
クリスさんB。
彼女は決して、馬鹿じゃない……。
「……わかってる。わかってるよ! マリーさんもわたしが大好きで……だから、不幸にするんだって! ちゃんとわかってるから、ぜんぶ……覚えてるから……!」
「……ごめ」
「謝らないでよ! 悲しそうな顔も、もうしないでよぉっ! もう会えないんだから、永遠に会えないんだから……せめて、しあわせに……終わらせて……」
「あ……っ。わ、わかったよ……!」
幸せに。
せめて、笑顔で。
永遠の生き別れへの手向けに、私ができることは……それだけだ。
「──ふう。そっちも、話はついたのかな……?」
「……ルーシーちゃん。そっちも、ってことは……」
「うん、ボクの方も治療は終わったよ。手間が増えるし、意識は取り戻させていないけどね……」
「そう……」
あの人もなんとか助かったのか…………うん? 手間が増える?
また話がややこしくなるとか、そういう意味だろうか……。
「それで、クリスちゃん。……本当に、いいの?」
「……いい。初めから、決めてたことだから」
「そっか……」
……?
本当に何の話だ?
何か……まるで、何かを隠しているみたいな……。
「……何か不満でも? いくらルーシーさんでも、私の邪魔をするなら……!」
「いや……そうじゃないよ。ボクは、構わない……それで、キミが……後悔しないなら、ね──」
そう、言って。
……ルーシーちゃんは、その場にぱたりと倒れ込んだ。
「っ!? る、ルーシーちゃんっ!」
「ルーシーさん!?」
き、気絶……?
だとしてもなぜこんな急に?
……いや、彼女だけじゃない……!
「く、クリス! イリーナちゃんとアンさんは……!?」
「……っ!」
力尽きたように、地面に座り込んでいた二人。
今も、それは変わらない……でも……!
「これは……っ!」
「イリーナさん! アンさんっ!? 起きて、起きてください……!」
眠っている、ようにも見える。
しかし違う。
意識がないのは同じでも、性質がまるで違う。
二人とも、息をしていない……!
「ど、どういうこと……!? ルーシーちゃん、イリーナちゃん、アンさん……クリス……! ……クリス? ……ちょっと、クリス……っ!」
……クリス。
クリスは。
「…………」
「な……え……! ねえクリス、クリス、クリス……! ……起きてよ、ねえ……っ!」
……クリス、まで?
背筋が凍る。
目の前で起きている光景が、夢か何かみたいに信じられなくなる。
イリーナちゃんとアンさんに覆い被さったまま、そのまま……起きない……!
「──マリーさん」
「……っ! クリス……さん……!?」
誰も起きない。
誰も動かない。
いつものみんなも、ソフィアさんが連れてきた女の人二人も、大怪我をしていた男の人も。
例外は、私と……クリスさんBだけだった。
「安心して。息をしてなくても、今は大丈夫だよ。それに……そんなに長くはかからないし」
「な……っ!?」
……どういう意味だ。
まさか、彼女が……!
「この世界の人には、みんな眠ってもらう。それで……わたしが、ちゃんと全部元通りにするから」
「元通り、って……?」
間違いない、クリスさんBの仕業だ。
……くそ、なんだか頭が重い。
意識が、視界が、もうろうとしてくる。
思考が、少しずつおもくなっていく。
だめだ……まだ駄目だ、起きろ……!
「……ルーシーさんに聞いたでしょ? 私が、変貌したあの子……アンを、元に戻したって。同じことを、全部の人にするだけだから」
「同じ……こと? それは……ええと……」
人々の、変貌。
そうだ、確かに、彼女はそれを治せるんだっけか。
……それなら、合理的……なのか?
全ての人を眠らせて、その間にことを済ませるというのは。
余計な混乱も起きないし……。
「そうだよ。ちゃんとみんな、元に戻してあげなくちゃ」
「……っ? で、でも……!」
……いや。待て。
どこか引っかかる。
それは……どんな方法なんだ?
「……もう。素直に寝てくれればいいのに」
「だめ……だよっ! クリスさん、なにをするつもり!? そんなの……すぐに、できるわけないじゃんか……!」
「……っ。ま、マリーさんにはわからないでしょ……?」
ルーシーちゃんは、以前こう言っていた。
クリスさんBはその『処置』をした後……消耗がひどく、起き上がることもできなくなっていた、と。
それが本当なら。
あの言葉が、嘘でないのなら……!
「それなら……できるわけないっ! 魔法だとかなんだとか、そんなこと私にはわかんないけど……世界中の人を眠らせて、普通に治療するなんて、できないんでしょ……!?」
論理的に考えて、そうなるはずだ。
たった一人治しただけで体力の限界が近づくならば、それを世界中なんて。
そんなこと、無理に決まってる!
「…………。知られたく、なかったけどな。でもまあ……同じことか……」
「え……!?」
「いいよ。教えてあげる。……なんでか知らないけど、今のやり方じゃマリーさんは眠ってくれないみたいだし」
「あ……た、確かに……?」
……確かに、さっきよりは目が冴えている。
さっきまでのふわふわとした感覚は、いつのまにか薄れていた。
なぜだ。
克服でもしたか。
そんな病気みたいな仕組みなのか……?
「マリーさんの言う通り。アンと同じやり方じゃ、全部の人を治すのは無理だよ。ルーシーさんなら、もしかしたらできるのかもしれないけど……私にはできない。正攻法じゃ、ね」
「じゃあ……どうするの?」
正攻法では無理……嫌な予感しかしない。
けれど、聞かなくちゃ。
彼女の全てを私も背負うって、そう誓ったんだから。
「……あの変貌はね、私がこの世界に来た……副作用みたいなものなの。世界と世界の間に無理やり穴を開けたせいで、ちょっとずつ溶け合って変わりあってる……塩水と砂糖水を混ぜ合うみたいに、互いが互いに引っ張られてる」
「へ……へえ……?」
……急に難しい話だ。
というか、スケールが大き過ぎて実感が湧かない。
要するに……二つの世界の差が、なくなりかけてるってことなのかな……?
それなら、向こうでの記憶を持っているってのもなんとなく納得がいくような……。
「一番いい対処法は、溶け合ったそれを叩き出すこと。記憶を、魂を、無理やり体からかき出すの。……ちょっと疲れるし、時間もかかるし、何より見た目が……すごいけど」
「体からかき出す……それは……うん」
……言い方からして、物理的になのだろうか。
だとしたらそれは……ああ、いや、やめとこう。
想像したくない。
「だから、次善策をとるの。分かってくれるでしょ? 変貌しちゃった全部の人に、一人ずつそれをするなんて無理だから」
「そ……それは分かったよ。それで、その次善策ってのは具体的に……?」
最善策をとるほどの時間も手間もかけられない。
だから、次善策。そこまではわかった。
……問題は、そんな都合のいい策が本当にあるのかってことだ。
「あるよ。問題なのは、記憶だから。そうすれば……他の余計なことも、全部まとめてなくせるし……」
「なくす…………っ!? も、もしかして……いや……!」
……嫌な予感が、かすめた。
勘違いであってほしかった。
……結果的には、その想像で合っていたみたいだけど。
「……他に手はないよ。だから、いいでしょ?」
「い、いいわけないでしょ!?」
クリスさんBは、苦り切ったような顔をしている。
無論、そんな手段はとりたくないんだろう……けれど、止まるつもりもないようだ。
でも……!
「他に手段はないの! こうでもしないと、全部を元に戻すなんて私にはできないから! だから、マリーさん……!」
「いやだよ! そんなのだめっ! だって……それじゃあ……!」
……ついさっき、もしもあのまま、私が眠りに落ちていたら?
クリスさんが、私の抗議をまるで聞いてくれなかったら?
……それで、永遠に終わりだった。
あまりにも一方的な終わり。
はじめから、何もなかったことになっていた……!
「問題なのは記憶なの! だから……全部消せばいい! 私がこの世界に来てからの、全ての人の記憶を……全部の記憶を、残さず消し飛ばす……!」
「やっぱり……でも、そんなの……!」
……問題は。変貌自体は、解決するのかもしれない。
あれは、別の記憶の影響を受けた結果だというから。
でも……!
「みんなが全部忘れれば! この数週間を、みんなみんな忘れてしまえばっ! それなら、初めから何もなかったのと一緒でしょ……!?」
……そんなやり方は、到底肯定できない。
できるわけが、ない。




