一日と。
「はーっ……はーっ……けほ、こほっ」
「あ……ぇ……」
左の頬が、じんじんと痛む。
痛むであろう首を抑えつつ苦しげに呼吸をするクリスさんと、それを……見つめるだけの私。
驚愕、恐怖、安堵、安心。
色々な感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、何もできない。
……クリスさんとの間に流れる、嫌な空気も。
作り出したのは、私だった。
「……ふ、ぅ。──マリーさん」
「は、はいっ……」
彼女は険しい顔を崩さずに、無言で私に詰め寄ってくる。
当たり前だ。
私は……彼女の首を絞めたのだ。
理由なんて関係ない。
それだけが、事実だ。
「随分と……舐めた真似をしてくれますね」
「う……」
「あなた、本気で私を殺そうとしたでしょう。言い逃れはさせませんよ」
「ご……ごめ……」
「謝って済むことだとでも?」
「……っ」
彼女はあの時、私の頬を引っ叩いて無理やり引き剥がした。
驚きはしたが、正しい行動だ……正当防衛以外の何物でもない。
……私のせいだ。
どう足掻いても私が悪い。
返す言葉が、見つからない……。
「……傷つきましたよ。すごく」
「……っ! く、クリス……さん……」
「その程度だったんですね。マリーさんにとって、私は……」
「そんな、こと……っ!」
……それは、違う。
違う……違う。違う違う違う違う!
何よりも、他の何よりも大切なのはクリスさんだ!
クリスさんさえいれば、他に何もいらないって……そう、本気で……!
「……私、そんなに安い女ですか。ねえ?」
「そんなわけない……!」
「いいえ、そうでしょう。だって──」
「……っ!」
ぐっと、彼女が顔を近づけてくる。
鼻先が触れそうな、それほどの近距離から……。
「──あなたのために死ぬことすらも、できないと思われているんですよね」
「……は……?」
天井を仰ぐ。
いや、仰がされる?
……クリスさんに、押し倒された。
そう理解した時には既に、私の体の上にクリスさんが……のしかかっていた。
「ねえ、マリーさん。私、本気で、あなたになら命を捧げられますよ」
「な……なにを」
「私の死が、少しでもあなたの利になるのなら。それなら私は、躊躇なくこの命を投げ出しましょう」
「何を……言って……?」
一体何の真似だ。
何の宣言だ、これは?
「……でー、もー、ねぇー」
「むぐっ!?」
押し倒された体勢のまま、無理やり唇を唇で塞がれた。
彼女の匂いが、体温が、あまりに直接伝わってくる。
何もかも、普段の彼女と同じだった……怒って、ない?
いや……怒ってはいるのか?
「ぷはっ……マリー。あなた、泣いたでしょう。私を本気で殺そうとしたくせに、本気で泣いていたでしょう?」
「……そ、それは……」
そうだった……かもしれない。
あの時は、何が何だか分からなくて。
嫌で嫌で仕方がないのに腕が、指が、全く言うことを聞いてくれなくて。
完全に私の意思に反して、彼女を絞め殺そうとするのが……それが嫌で、泣いていた。
と、思う。
「馬鹿馬鹿しい。安く見られては困りますよ、マリー。もし、私を殺すつもりなら──」
「……っ!」
頭を、がっしりと掴まれた。
彼女は固まって動けない私に顔を近づけ、耳元の、息が吹きかかるような距離で……。
「──本気で、殺す覚悟をしなさい」
「は、はい……ひゃぅっ!?」
聴いたことがないくらい低い声で、そう続けて。
流れるように私の耳を食んだ。
……怒っているんだかいないんだか、よく分からない。
けれど、怒らせてしまったんだろう……彼女の言葉を借りるなら、彼女を『安く見ていた』ことに。
「マリー。あなたに首を絞められたこと自体は、何ら怒ってはいませんが……殺されそうになったことだって、全く恨んではいませんが。それがもしも、結果的にあなたを悲しませるのなら、私は全力で抵抗しますから」
「……うん。ありがとう」
抵抗してくれて。
私を……引き戻してくれて。
素直に、そう言える。
「……ふふ。よかった」
「え?」
「マリーまで、おかしくなったんじゃないかって思った。アンさんみたいに……私の手に負えなくなっちゃったんじゃないかって、そんな遠くまで行っちゃったんじゃないかって……不安だったから」
「……そっか。ごめん」
……その見立ては、きっと正しい。
あの時の私は、『私』ではなかったから──『違う私』だったから。
戻ってこられたのは何故だろう。
愛の力? ……いやいや、そんな馬鹿な。
そんなもので覆せるほど、甘いものじゃない。はずだ。
「ところで……ねえ、マリー?」
「なあに? クリス」
「……首を絞められるって、案外気持ちいいんだね」
「は、はは……」
ブラックジョークが過ぎる。
私はそんなに恋人を雑に扱う人間だと思われているのだろうか。
いくらなんでも、もうあんなことはしない…………はず……。
「……今度は私が、やってみる?」
「え、遠慮しとく」
「そう…………」
なぜ本気で残念そうにする!?
マリーのMはドMのMじゃないよ!!?
「……まあ、いいや。それなら他の手段で、私を満足させて」
「ご……ご飯でも奢ればいいのかな……?」
「本気で言ってる?」
「はは……」
……まだ、昼くらいなのだが。
それでも今日は、眠れそうになかった。
***
***
「──と、そういうことがあったんですよ」
「へえ……そ、そっか。まあ、キミたちがそれでいいならいいんだけど……」
真夜中の来訪者に、昼間起きたことのあらましを語る。
正直面倒ではありましたが、私の首元にできた痣がどうしても気になるとのことで。
それを治療してもらう間に、大方話し終えたのですが……。
「……ルーシーさん。はぐらかさないで答えてください」
「んー? まあ、ボクに分かることならいいよ」
「マリーさんの身に起きたこと。あれは、本当にアンさんや他多くの人のそれと同質のものでしょうか……?」
……聞くなら今しかない、そう直感しました。
当のマリーさんは、疲れ果てて眠っています。
というよりついさっき眠りについたばかりで、私も眠ろうとしたところにルーシーさんがやってきたのです。
……あの時、ほんの一瞬でも疑いを持った自分が……嫌だ。
どうもマリーさんは、私の知らないことを知っているような気がしてならなくて……。
「ふむ……難しい質問だね。同質か否かという点だけで見れば、おおよそ同質であると言えるんじゃないかな? どちらも等しく、『別の記憶』の干渉を受けたものだろうから」
「では……他の観点では?」
「……同等のものではない、可能性はある。明言したわけじゃないし、明確ではないけれど」
……誰が、何を明言していないのか。
それは、彼女の眼差しで直感的に分かりました。
……本当に面倒な女ですね……。
「……治療法は?」
「……ない、と答えておくよ。あれだけ危険なものに、全てを賭けるわけにはいかないから」
「そう、ですか……」
マリーさんの抱える苦痛を、ほんの少しでも和らげる方法があるのなら。
そんな一縷の望みを託したつもりだったのですが、現実は厳しいです。
安全が第一だと理解はできても、やはり納得はしがたいですが……。
「けれど……いや、これは仮定だな。簡単なことじゃないし、偶然と呼んだ方が近い……試す価値くらいは、あると思いたいけどね……」
「……なんでもいいです。とにかく」
私の邪魔をする『私』とかいう、ふざけた存在は。
『私』のくせにマリーさんを苦しめる、どうしようもない阿呆は……少しばかり、懲らしめないといけないでしょう。
「ああ。なんにせよ、彼女との決着はつけよう……近いうちにね」
「その通り。……では、そろそろ帰っていただけますか? 吸血鬼のあなたと違って、私たちには睡眠が必要ですので」
既に時刻は夜遅く。
彼女にとっては都合がいいかもしれませんが、私たちにとっては別です。
あとどれだけ、こうしてゆっくりと休めるかだって分からないのですから。
「はは……おっしゃる通り。夜中に押しかけちゃって悪かったね。それじゃあばいばい、クリスちゃん」
「ええ、さようなら。……治療、ありがとうございます」
「ん、どういたしまして」
……決戦の時は、近いのでしょうか。
ルーシーさんが出入りした窓を閉め直しつつ、そんなことを思いました。
「むにゃ……くり、すさ……ん…………」
「……ふふ」
どうあれ、マリーさんは私が守ります。
永遠に……絶対に。
たとえ、どれだけの犠牲を払おうとも。




