静けさと
気がかりなことは少なくない。
私が二週間近くも眠っていた間、大きく変化してしまったことが……少なくとも一つ、私の身近にもあった。
「──よっ、オリバー。元気か?」
「ウゥ……」
ある朝、いつものようにオリバーに声をかける。
だが……。
「おーい、ちょっとくらいこっち見ろよー。……なあ」
「…………」
「オリバー……」
一度鬱陶しそうに唸り声を上げただけで、その後は何の反応もない。
場所は、いつもの犬小屋……ではなく、あの箱庭のような空き地だった。
いつもはうざったいくらいに纏わりついてくるオリバーが、このところまるで構ってくれない。
誰の声にも聞く耳を持たず、一心不乱に……前足で地面を掘り続けているのだ。
何かに取り憑かれたかのように、何かを探しているかのように。
「そんなところ、いくら掘ったって何もないって。どうしちゃったんだよ……」
二日ほど前、ちょうど私が目覚めた朝のことだ。
私の代わりに彼の世話をしてくれていたイリーナちゃんが、真っ先に異変に気づいたらしい。
彼女が彼に餌をやるために、夜の間かけている鍵を外して犬小屋を開けた瞬間……弾丸のように犬小屋を飛び出した。
そして全力でここまで走ってきて、以来、ずっとこうして地面を掘り続けているそうだ。
……まるで、人ならぬ犬が変わったみたいに。
「ウ……グルル……」
「……ご飯と水、ここに置いとくから。聞いてるか? ちゃんと、食べろよ……」
いつもの人懐っこさはどこへやら。
ちょっと邪魔をすれば、それだけで噛みつかれそうなくらいに気が立っている。
……その『変貌』ぶりは、やはり……。
「──おはよう、マリーちゃん。今日は早いね」
「ああ……おはよう、ルーシーちゃん」
空が一瞬翳り、目の前に少女が降り立った。
こんなことも、数度目となると驚きも薄い。
いつものことながら突然現れる彼女……ルーシーちゃんは、オリバーを一瞥して……。
「……はあ。いい加減見慣れたよ、この魂の形もね」
「ってことは……やっぱり?」
「そう、アンちゃんや他多くの人間たちと同じだ。彼もまた、別の時間の影響を受けている……」
別の時間の影響。
この不可解な変貌現象に対して、彼女が出した仮説だ。
ところ変われば、人も変わる。
クリスさんとクリスさんBのように、『別の世界にいた別の自分』がこの世界の人間に対して影響を及ぼす……それが、アンさんやオリバーに起きたことだとしている。
「……他の人たちは?」
「増えてるよ……増え続けてる。本当は今も、もう少し正確な数を把握しようと飛び回っていたところだったんだ。キミたちを見かけて、つい降りちゃったんだけどさ」
その被害は、既に私たちの間だけのものではない。
ルーシーちゃん曰く、世界中で。何百何千、軽微なものまで含めたら何十万……何百万と。
同様の症状……すなわち変貌が、数えきれないくらいに確認されている。
ちょうど私が目覚めた直後くらいから、爆発的に広まったようだ。
ルーシーちゃんとイリーナちゃんがクリスさんに対して『妙な気分』を訴えたのも、恐らくは同様の症状だろう。
私のものは……少々他とは毛色が違うのだが。
「……ねえ、ルーシーちゃん。本当に……どうにかできないの……?」
一日や二日で、答えが変わりはしない。
それが分かっていても、聞かざるを得ない。
症状が同じものである以上、アンさんと同じ方法で『処置』をすることは可能らしい。
しかし彼女曰く、現在それを行えるのは……クリスさんBだけだそうだ。
「悪いけど……できないよ。理論上は可能だし、魔法式の面でも完成度は十分だ……けれど……!」
「…………そう。いや、ごめん」
「謝らないで……ボクが、弱いせいだから」
クリスさんBは、ルーシーちゃんの目の前でアンさんの『処置』をした。
そしてそれを、そのやり方を、彼女は詳しく語りたがらない。
断片的に話してくれるのは、それが……これ以上ないくらいにおぞましい方法である、ということ。
「違うよ。私に強要できることじゃないし。ルーシーちゃんができないなら、しょうがないよ……」
「……ごめん。ごめんね」
オリバーを、少なくとも今は元に戻してやれない……それには少なからず思うところがあるが、それはそれ。
ルーシーちゃんだって、私の友達なのだ。
傷付いてほしくはない。……できれば、誰だってこれ以上傷付いてほしくはないのだけれど。
「もっといい方法が、きっとあるから。誰だって傷つきたくはないし、誰も不幸にはなりたくないんだもん。だから探せば、もっと探せば……きっと……」
言いながら、詭弁を自覚した。
もっと探すも何も、世界は既に異常な方向へと動き出しているのだ。
多くの人間が突然おかしくなる、奇病……世間は今のところ、そう解釈しているらしい。
そしてその『病気』の存在は、少なからず人々の心に影響をもたらしている。
当然と言えば当然だろう。
友人が、知人が、家族が、恋人が、ある日突然自分の知る形から離れてしまう。
そんな世界じゃ、誰だって不安を抱かないはずがない。
小さな疑念はあちこちで芽を出している。
悠長にしていたら、本当に取り返しのつかないことになってしまうかもしれない……だから、こんな態度じゃ甘いんだろう。
ルーシーちゃんだって当然、それは分かっているはずで……。
「……ありがとね、マリーちゃん」
「ルーシーちゃん……」
「心配しなくても、ボクは大丈夫。近いうちに、絶対にどうにかしてみせるから」
だからか彼女はいつものように、へらっと笑ってそう言った。
私の言おうとしたことなど、きっとお見通しなのだろう。
けれど……。
「……ルーシーちゃん。無理しちゃ、駄目だからね」
これだけは、どうしても言っておきたかった。
どれだけ薄く、陳腐な言葉だって構わない。
私だって一緒に背負いたいのだ。
いっぱい考えて、頭が痛くなるくらい考えて……結局私は、無責任になどなれなかったから。
今、こんな状況になってしまっていることに対して。
その原因の一端を担ってしまったことに対して、全く罪悪感を感じないほど、私は……馬鹿にはなれない。
「……はは。キミにも、心配をかけちゃったか……」
「そりゃ……そうでしょ。だって今、私たちが頼れるのはルーシーちゃんだけなんだし……」
魔法だのなんだの、そう言った面の知識を持っているのはルーシーちゃんだけだ。
いかに言葉で飾ろうと、実際に対処せざるを得ないのはルーシーちゃんであって……心配するのは当然だろう。
どうしたって、彼女ひとりに背負わせることになってしまうのだから。
「実はさっき、イリーナちゃんとアンちゃんと……それにクリスちゃんとも、少しだけ話してね。その三人にも、同じようなことを言われたよ……ボクってそんなに、ひとりぼっちで全部抱え込むタイプだと思われてる?」
「んー……」
……どうだろう。
そういう類の危うさは、ルーシーちゃんよりもむしろクリスさんとイリーナちゃんの方があると思うけれど……まあいい。
「むしろボクの方が、キミたちに頼りっきりになると思うよ? 特にマリーちゃん、キミにはね」
「え? 私?」
予想外の飛び火を受けた。
私が一体何の役に……?
「この状況は、どうあれクリスちゃんが……吸血鬼の方のクリスちゃんが、大きく関わっていることは間違いないんだから。彼女、キミに対しては相当に気を遣っているようでもあったし、いずれ話をつけにいくならキミは欠かせない存在だよ。切り札と言ってもいいくらいに」
「そ……そう、かなあ……?」
いまいち実感できないが。
だって私、あの子の相当に雑なやり方で、二週間近く昏睡する羽目になったんだし……。
「……あの子がキミに対してした仕打ちの理由は、キミはもう知っているはずだよ? あの子だからこそ、かな。別の世界であったとしても、彼女は彼女だった……そのおかげで、キミは助かったんだから」
「…………」
……複雑な気分に陥る。
確かに、ルーシーちゃんとこちらのクリスさんの助けもあって、私は自分の身に起きたことをおおよそ理解できた。
だからこそ、わかる。
クリスさんBは、私に危害を加えてはいない。
むしろ……彼女は私を助けようとした。
「ま、整理にはもう少し時間がかかるだろうさ。ボクはその間、新しい対処法の研究にでも励むとするよ……キミたちに心配されないよう、体には十分気をつけて、ね」
「……そう、だね。うん、ぜひそうして」
お互い様だ。
どの道、こんな中途半端で倒れるわけにはいかない。
最後までやり通してやる……そうでなくちゃ、胸を張ってクリスさんの婚約者を名乗れない。
「それじゃ、そろそろ行くよ。クリスちゃんたちにも、またよろしくね」
「分かってる。じゃあね……ルーシーちゃん」
涼しいと言うには少々強すぎるくらいの風を残し、彼女は再び飛び去った。
文字通り、羽を生やして。
清々しく人間らしくない……それでこそ彼女だ。
「……私も、できることから進めないと」
オリバーのことは気がかりだ。
唯一救いなのは、最低限の生命の維持はしてくれていること……餌も水も、きちんと食べた形跡はある。
ならば今は、彼を信じる他ない。
ここに突っ立ったままじゃ、絶対に前に進めない。
「……待ってて、オリバー。絶対に……元に戻してやるからさ」
「…………」
返事はない。
いや、もう一度させてみせる。
「夕方、また来るからな」
帰ろう。
クリスさんともう一度話をして、しっかり互いの意思を確認しなければ──。
──今度こそ、手を取り損ねることがないように。




