交渉、終了?
「ごめんよクリスちゃん、ボクの手落ちだ……正直想定外だった……」
「…………」
『その一報』を聞いた時の気分は……はっきり言って、最悪でした。
今でもその感覚は、なんら変わってはいませんが……。
「……少なくとも、新しい血の匂いはしていない。だから現時点で、マリーちゃんは傷ついてはいないと思う……おそらく、擦り傷ひとつしていないよ。むしろそのせいで、いまいち場所が特定できないんだけれど」
「いえ……それだけわかれば充分です」
──私のマリーが、もうひとりの『私』に攫われた。
ルーシーさんからそう聞いた時は、冷や水を全身に浴びせられたかのような……その一方で、どこか腑に落ちたような……そんな気持ちになりました。
彼女に、もとい別の私に、別の世界で何があったのかは見当もつきません。
向こうの私は吸血鬼になっているなど、悪い冗談かとも思いましたが……事実ならば、つまり『向こうのマリー』には確実に何かがあったということ。
こちらの世界に来るだけの確固たる理由が、向こうの私にはあったのでしょう、
そうでなければ、私がマリーを置いて別の世界に来るなどありえませんしね。
「その……クリスちゃん?」
「……なんですか、ルーシーさん」
「……お、怒ってる?」
「いえ、全く」
この感情は、怒りではない。
マリーがとられたことに不快感こそあるものの、怒りはほとんど湧きません。
自分でも不思議なのですが……しかし、まあ……。
「……マリーさんにとって、悪いようにはならないでしょう。私のことですし」
「そう……?」
「少なくとも私は、マリーさんに傷をつけるくらいなら首を捻じ切って死にます」
「い、潔いね……そうならないことを祈ってるよ」
ひとまず心配するべきは、『私』にマリーさんをこちらに帰す意思があるのかどうかでしょう。
あるのならばそれでよし。目的はどうあれ、マリーさんが帰ってきてさえくれるのなら私は他になにも望みません。
ただしもしも、ないと言うのならば…………。
「……たとえ私であっても、容赦はしませんが」
どんな手段を使ってでも取り戻す。
基本方針はそれで充分でしょう。
どの道、マリーさんを取り戻す以外に私の生きる道はないのですから……。
「ま、なんにせよ取り戻すのが急務だね。しかし……いいの?」
「何がです?」
「他の子たちだよ。無論、戦力にはならないだろうけれど……イリーナちゃんとアンちゃんには、少しくらい話してあげてもいいんじゃない? 彼女たちだって巻き込まれてるんだしさ」
「……先程も言ったでしょう。それは、後でいいです」
今、無用な心配をかける必要はないでしょう。
話すにしても、マリーさんを取り戻してからでも遅くはありません。
「そっか。いや、キミがそれでいいならいいんだよ。……さて」
そう言ってルーシーさんは席を立ち、部屋の窓をがらりと開ける。
吸血鬼を自称している割に、日光をたっぷり浴びて伸びをして……そして、へらっと笑ってこちらに向き直った。
「まずは近い心当たりから探してみようか。クリスちゃん、キミがマリーちゃんを連れて訪れそうな場所といえば……どこだい?」
***
まさかこんなに早く見つけられるとは。
私が目的地を定めてルーシーさんが空を飛び、それに乗せてもらったとはいえ……まさかの一箇所目で、あっさりと見つけることができた。
ものすごく不思議、というほどのことでもない。
彼女もまた私であり、つまりは大元の思考回路は同じはず。
ならば、同じ場所に辿り着くのはむしろ自然……理屈で言えばそうなのだけれど。
「っち、早すぎる……私め、余計なことを」
「それが私に対して言うことですか、私」
「うるさいっ! ……ああもう、忌々しい……別の場所にすればよかった……」
向こうの『私』は、なんというか荒れている。
被っていた猫をかなぐりすてて荒々しく喋る姿が、自分と同じ人物であるとはにわかに信じ難い。
こうも違って見える私たちが、そろって同じ場所を思い浮かべたとは……。
「ふうん、なるほどなるほど。キミたちにとっては思い出の場所、かあ……まあ、綺麗なところだよね」
「ええ、その通り。少し前、マリーさんに連れてきてもらったのですよ」
周りを住宅に囲まれた、ひとつの箱庭のような場所。
背の低い草むらが広がり、中央に一本の巨木が生えたその光景は、まるで童話の中のようで…………。
「しかし……クリスちゃん、そのこと覚えてるの?」
「えっ? 忘れるわけがないじゃないですか。マリーさんとの大切な思い出ですよ?」
以前ここに来た時は、私たち二人の他にイリーナさんとオリバーくんと……それと、鶏のようななにかもいた気がします。
実のところ、妙に朧げな記憶ではあるのですが……まあ、こうして現実に存在する場所である以上、夢だったということはないのでしょう。
「ふうん……そう。あの状態でも、記憶自体は引き継ぐんだね……」
「あの状態?」
「こっちの話だよ」
……よくわかりませんが、まあいいでしょう。
今はそれより……!
「とにかく。マリーさんを返しなさい、私。その人は、この世界のマリーさんで……この世界の私の、婚約者ですから」
「ちっ……ああ、もう。確かにあの時間は過ぎてるけど……でも……」
「何を言っているんです? 早くしてください!」
「……っ。分かったよ……何が起きても知らないから」
私のくせに、妙な捨て台詞を。
ともあれ、お姫様抱っこで返されたその少女は……紛れもなく、マリーさんだった。
私の愛しい愛しい彼女。
何事もなかったかのように、私の腕の中ですやすやと寝息を上げている……。
「うぅ……ん……くりす、しゃん……」
……襲いたい。
「──それで? キミは、これからどうするのかな?」
「ああ?」
私がマリーさんを見つめている横で、ルーシーさんと『私』も何やら話を始めた。
今となっては大した興味はありませんが……一応聞き耳を立てておきましょうか。
「同じ吸血鬼として、一応助言しておくけどね。キミ、もしも元の世界に帰ろうとしてるんだったら、その状態じゃあ無理だと思うよ?」
「……何を知って……」
「別に知らないけど、分かるよ。キミはもうほとんど力を使い果たしている。世界を渡ってきて、ついさっきアンちゃんに『処理』をして……その後私の家をこっそり抜け出して、マリーちゃんを攫って。元々大して持っていなかった力が、一連の流れでほとんどパー」
……よくわからない話ですね。
要するに体力の限界ということでしょうか……少し違う気もします。
正直別の世界の私が別の世界でどうなろうと構いはしませんが、万が一にもこの世界で野垂れ死なれたりすると……少々迷惑な。
「で……だったら何?」
「いや? まあ、別の世界のことは知らないけどね。それでも随分と荒んだ生活をしていたようだし、吸血鬼化しているということはそちらの世界のボクとも関わりはあっただろうし……そのまま見捨てるのは忍びない、というだけの話だよ」
「…………いらない。そんな気遣い」
「そうかい、そりゃお大事に」
……ふうん。
やはりマリーさん絡みで何かがあった世界の私、ということなのでしょうか。
まあ、私には関係ありませんが……。
「……ねえ、私」
「はい? 何か用ですか?」
「…………まだ、終わってないから」
「……? 要領を得ませんね。もっとはっきり言ってください」
何らかの忠告のつもりでしょうか。
しかし、擦れていますね……こんな面倒な人間にはなりたくないものです。
「ルーシーさんに届いた脅迫。警告。……どっちも、私は何も知らない。無関係」
「……つまり?」
……ぞわり、と。
嫌な感覚が、背筋を撫でたような。
「あなたたちは何も気付いてない。そう、言いたかっただけ」
「それは……あ、ちょっと!」
やはり迂遠な言葉遣い。
その真意を問いただそうとした時……既に、そこに『私』はいませんでした。
霧か霞か何かのように。
跡形もなく、消えていた。
「何も気づいていない、ねえ……?」
「…………。帰りましょう、ルーシーさん」
「はーい、分かったよ」
考えるのは、ひとまず帰ってからでもいいでしょう。
両腕にマリーさんを抱えたまま熟考するなど、非効率的にも程がありますから。




