恐怖、驚愕
普段通り、されど普段よりもおぼつかない足どりで食堂に入る。
いつにも増して元気なクリスさんは、私の代わりに二人分の食事を取りに行ってくれた……あの人に疲れという概念はないのだろうか。
辞書にないのかもしれない。
「おはようございます、マリーさん! ……だ、大丈夫ですか?」
「ん……おはよ、イリーナちゃん…………」
いつも通り元気なイリーナちゃんの声が、今日ばかりは流石に体に堪える。
徹夜は流石にやりすぎた。
別に後悔はしていないが……しかし、瞼が重い……。
「眠そうですね……その、やっぱり昨日の夜に何か……?」
「いや……ええと、別件だよ。……それよりイリーナちゃん、アンさんは?」
「あ、そうですそうです! 聞いてくださいマリーさん、今朝起きたらアンさんが元に戻っていたんですよ!」
「……へえ」
そのことは知っていた。
今朝早く、ひとり現れたルーシーちゃんが大方の経緯を聴かせてくれたからだ。
前のようにクリスさんを眠らせて……彼女には、聞かれたくないことだと言って。
その話の内容が内容だけに、あまり手放しで喜べないのだが……。
「すっかりいつも通りの様子で……ふふっ、私と同じベッドに入ってたからってすごーく慌てていましたよ。あんなアンさん、初めて見ました!」
「そ、そう……よかったね。それで、そのアンさんはどこに?」
「まだお部屋にいますよ! そのー……顔を真っ赤にして『少し考えさせてください、一人にしてください』と言っていたので……」
「はは……」
気持ちは分かる。
アンさんのあれは、やはり変貌と呼ぶに相応しいものだったらしい。
それを、二人が眠っている間に『元に戻しておいた』そうだ。
そしてそのルーシーちゃん曰く、変貌していた間の記憶はアンさんには残らないとのことで……つまり、彼女の主観では『ある日目覚めたら恋人が隣で寝ていた』ということになるのだ。
記憶もなく、自覚もなく。
……そりゃ一人にもなりたくなるだろう。
「持ってきましたよ、マリーさん。おや? イリーナさんも、おはようございます」
「……ん、ありがと」
「おはようございます、クリスさん!」
そうこう話しているうちに、クリスさんが両手に朝食のプレートを持って戻ってきた。
見るからに重そうだがおくびにも出さない。
箸より重いものを持ったことがなさそうな顔をしているのに意外とマッスル、それが我らがクリスさんなのだ。
「さて、いただきましょうか。……マリーさん、どうかしましたか?」
「え、あ……いや」
つい、クリスさんの顔をじっと見つめてしまう。
あんなことがあった直後だし、別に責められる謂れはないけれど……いささか自己嫌悪に陥った。
今朝、ルーシーちゃんの『忠告』を聞いて以降、どうも考えがまとまらないのだ。
仮に別の世界のものだとしても、恋人を疑いたくはない。
だが、彼女は……。
「ふむ……まあいいです。今は、聞かないでおいてあげますよ」
「……ありがと」
クリスさんは察しがいい。
いつも私の心の機微を察してくれるのは、本当に感謝の一言に尽きる。
「……あー……ごめん、二人とも。ちょっと、外に出てくる……」
「そうですか、気をつけてくださいね」
「分かってる」
食器を置き、席を立つ。
元々大して食欲はなかった。
多少でも食べればマシになるかと思ったが、陰鬱な気分は収まらない。
眠気が強いのもある。
けれどそれ以上に、ルーシーちゃんの言葉が重く胸にのしかかっているのだ。
「……はあ」
食堂を出て、慣れた道を進む。
強いて何をする気も起きないが……ひとまず、いつも通りオリバーに餌をやらなければ。
***
「ワフ……ワンッ!!」
「おはよ、オリバー……元気? 怪我とかしてない?」
「ワウッ!」
いつもと同じ、学園の敷地の片隅にオリバーはいた。
野晒しではない。無駄に豪華な犬小屋の中だ。
学園にいるオリバーを見た教師と生徒の有志が、自分たちで造ったもので……私たちが暮らしている寮の部屋よりもずっと広い。
中には餌や水入れをはじめ、誰かが差し入れたらしきおもちゃなどが点々と転がっている。
動物が駄目な生徒への配慮による住み分け、という建前で学園からも許可と予算が下りたのだとか。
ほぼ学園公認のペットというわけだ……ありがたい話ではあるのだが、狂っている。
なんでこいつ、生徒より待遇がいいんだ?
「にしても……お前、ちょっと太ってないか……?」
「……ワフ」
「こら目を逸らすな」
もう少し長めに散歩に連れ出すべきか。
こいつもいい歳だし、少しでも健康に気を遣ってやらないと……あれ? オリバーって何歳なんだっけ……?
「ワワウ?」
今の私の年齢が、十七。
前世で私が命を落としたのと同じ歳。
オリバーは私が生まれるよりも前からいて……確か、元の世界での大型犬の寿命がせいぜい……十五歳とか……?
「…………ま、いいか」
「ワン」
深いことを考えるのはやめておこう。
きっとこの世界の犬は、元の世界のそれよりもずっと寿命が長いのだ。
そういうことにしておく。
「それじゃオリバー、昼頃にまた来るから」
「ワウッ」
朝の世話を済ませて、小屋を出る。
いつも通りのルーティンをこなして、多少は気分が晴れただろうか……けれど、問題はやっぱり解決してないんだよなあ……。
「──こんにちは、マリーさん」
「っ!? く、クリスさん!?」
……そんなことを考えていた時、背後から声がした。
耳慣れた、されどこの場所で聞くとは思っていなかった声。
直前までは足音もしなかったのに、気づけば真後ろにいた。
まさしく神出鬼没……ルーシーちゃんにも、よく似ている。
「ええ。こちらの私ではありませんが」
「こちらの、ね……」
クリスさん、Bだった。
分かりづらいものの、こう見ると確かに違いは感じられる。
なんとか区別がつくのは幸いと言えるだろう。
恋人が見分けられないようじゃ、クリスさんに顔向けできない……普通は同一人物を見分ける必要なんてないんだけど。
「おや、体調が優れないようですね。大方、こちらの私が無理でもさせましたか?」
「……無理だなんて思ってないよ? 眠気が取れないのはそうだけど……それより、何しにきたの? クリスさん」
……つい先程のルーシーちゃんの言葉が、フラッシュバックのように思い返される。
アンさんの『対処』をした後、クリスさんBはひとまずルーシーちゃんと共に過ごすことになったそうだ。
彼女自身がそれを望んだらしい。
……全部伝聞調なのは、その場にクリスさんBがいなかったからだ。
何でもアンさんを元に戻したのはクリスさんBとのことで、その疲労が祟って起き上がることもできず、既にルーシーちゃんの住処に運んだ後だったのだとか。
こんなところにいるからには、もう起き上がれる状態ということか。
しかし、ルーシーちゃんの姿は見えないが……。
「ええ。ここに来たのは、私ひとりですよ」
「……え?」
……まるで、心の中で抱いた疑問へ答えたかのような言動。
口に出ていただろうか……?
「いえ、マリーさんは何も話していませんよ? ふふ……」
「なっ……!?」
小さな疑念が膨らむ。
小さな……恐怖が、芽生える。
……クリスさんAを眠らせた後、ルーシーちゃんは声を低くして言った……。
「私を信じてはいけない。私は、あなたの知る私とは違うから……でしょう?」
「そ、そんなこと……!」
……駄目だ。考えるな……考えるな!
仮に彼女が私の知らない彼女だとしても、クリスさんはクリスさんなんだ!
あんなことを、誰よりも彼女自身に聞かせるなんて……!
「私に心を許してはいけない。私が嘘をついていないとも限らない。私が吸血鬼であるという時点で怪しいのだから、信用はできない……と」
「やめ……やめて……!」
聞くに堪えない。
そんなことを、クリスさんが言うのが……クリスさんに言わせてしまうのが、嫌で嫌で。
「傷つきますねえ? まあ間違ってはいませんが。ふふ、ふふふふふ……」
「く、クリスさん……!」
「クリスさん、B。でしょう?」
「……っ!」
彼女は、そう言って妖しく笑った。
ルーシーちゃんとそっくりに、私のことなど何もかもお見通しとでも言うかのように。
……その表情は、どこか悲しそうで。
「いいんですよ、マリーさん。全部、ぜぇんぶ分かってますから。ルーシーさんが言ったことも、あなた自身が私を……疑っていることも」
「いや……それは……!」
反発はした。
けれど……腑に落ちてしまう部分があったのも、事実ではあるのだ。
ルーシーちゃんは言った。
確かに彼女は、アンさんを元に戻したが……それは、あまりにも……。
「あまりにも、むごいやり方だった。ええ、事実です。私は、そういうものですよ……?」
「そ、そんなわけ!」
否定、したかった。
仮に別の世界の彼女であっても、彼女が『そう』であることを……認めたくなかった。
それなのに。
「──優しいね、マリーさん。この世界のマリーさん。でも、その気遣いは不要だよ? ……私は吸血鬼。あなたを騙し、傷つけ、都合よく使おうと目論んでいる……化け物だから」
「……っ」
どこかルーシーちゃんに似ている口調で。
彼女よりもずっと残忍に嗤う。
彼女のいた世界で、彼女は……一体……?
「そんなわけない、って言いたい? ざーんねん、私はあなたの知ってる私じゃないんだよ。無理だよ、無駄だよ、無意味だよ。あなたは私に勝てないし、あなたに私は変えられない! あは……あははははははっ!」
「く……いや……!」
身を翻して、逃げようとした。
けれどあっさり回り込まれて、強く腕を掴まれる。
痣ができそうなほど、強く……優しさなんて微塵も感じないほど、手荒く。
金縛りにあったように、全身が動かなくなる……!
「どこ行くのさ。駄目だよ、君は私の道具で武器で……おもちゃだから」
「やだよ……ねえ、クリスさんっ! お願い……冗談でも、そんなこと……!」
「冗談? 何言ってんの?」
「ひ……っ」
声は低く、目が据わっている。
掴まれた腕は振り解けない。
遊びでも、冗談でもない。それが痛いほどよく分かる。
……私の知っているクリスさんじゃ、ない?
「……ねえ、マリーさん」
「ぃ……ゃ、め」
つうっと、指先で首筋を撫でられる。
くすぐったいような、血管が凍りつくような感覚。
声すら、まともに出せない。
恐怖か、他の何かが原因か?
たすけて、だれか。
そんな声も、喉の奥で潰れて消える。
「ふふ、ふふふっ……!」
「う……ゃ…………」
身悶えすら許されない私を、彼女はぎゅっと抱きしめて。
抱き、絞めて。
そして──。
「……一緒に、きて?」
「ぁ」
──意識を、失った。




