安らぎと。
空気が凍りつく。
なんとも気まずい、息苦しいように静かな時間。
私を殺す。
私が殺される。
まあ事情が事情なので、実のところ、そんな脅迫自体にさほど驚きはしていないのだが……。
「…………っ」
「く、クリスさん……その……」
クリスさんAと私が勝手に呼んでいる方……つまるところこの世界のクリスさんには、到底受け入れがたい事実らしい。
私の腕をしっかり掴み、目を瞬いて、唇をわなわなと震わせて。
見ていられないが……今の私には、頭をそっと撫でるくらいしかしてやれない。
「……ふむ。ごめんね、ボクがちょっと恐怖を煽りすぎた。心配しなくとも、なんとかする見立てはあるよ……クリスちゃん、キミのおかげでね」
「え? で、ですが……」
あえて空気を軽くするかのようにへらっと笑いつつ、ルーシーちゃんはクリスさんに話を振った。
口頭で区別をしていないので分かりづらいが、クリスさんBのほうである。
「キミはこの世界とは違う世界、違う時間の世界から来た。それに関しては、おおよそ間違いがないと思う。……ただねえ、それってやっぱり難しすぎることなんだよね」
「難しすぎる……?」
「世界の移動。並大抵の手段じゃ実現できようもないし、予期せぬ事故が起こる可能性だってある。例えばそう……本来巻き込むべきでない人を巻き込んでしまったり、さ」
「巻き込む、べきでない……あっ!?」
電撃のように、思い当たる節があった。
移動。事故。
違う世界の……違う、人。
「そう。アンちゃんだ」
アンさん。
クリスさんの友人で、イリーナちゃんの恋人。
ある日突然、『人が変わったように』なったという……アンさんが。
それが間違いでなく、本当に『人が』変わっていたとしたら……!
「……! なら、早く……!」
「まあ待ちなよ、マリーちゃん」
「い、いやいや! だってルーシーちゃん、それが本当なら一刻も早く確かめないと!」
ルーシーちゃんのやけにのんびりとした口調。
だが、絶対にのんびりしている場合ではない。
だってもし、あのアンさんが別の世界のアンさんだったとしたら……この世界の彼女はどこにいる!?
クリスさんBが記憶を失っている以上、彼女だって同じ可能性はあるし……!
「こんな夜中に大勢で行くことじゃないよ。心配しなくても、彼女の診断ならボクと……こっちのクリスちゃんだけで充分だ」
「えっ? わ、私ですか……?」
「ボクは『そっち』の世界のことを知らないし、元々の彼女も知らないんだよ。彼女の精神に特に問題がないことは一回確認したけれど、彼女がもし別世界から来たのなら話は変わる。キミの力が必要だ」
「……分かりました。そういうことなら」
そうして、ルーシーちゃんとクリスさんBは部屋を出て行こうとしてしまう。
彼女の言い分にも一理あるが……でも……!
「──マリーちゃん。周りを見なよ」
「へ? 周り……?」
「今のキミは目先の問題に囚われて、より大事なものが見えていない。キミが一番知るべきは、キミの隣にいる人だよ」
「隣……」
私の隣。
横にはずっと、クリスさんが……私の愛するクリスさんがいる。
……不安そうな目で。
こちらを、見ていた。
「他を蔑ろにしろ、とまでは言わない。でも、キミが一番大切にすべきはキミを一番大切に思ってくれる人じゃないかな? ……誰よりもキミを心配しているのは、誰?」
「う……」
忘れていた。
わけではないが、見落としていた。
当たり前だ。
クリスさんは……ルーシーちゃんから『脅迫』の内容を聞かされていたにも関わらず、私にそれを隠そうとしたのだから。
彼女なりに私を心配してくれて。
私を、不安にさせないために……。
「キミにだって、今の状況に関してやりたいことは山ほどあると思うよ。できることだってある。でも、だから、今はゆっくり休みなよ。ボクに任せて、さ」
「…………」
冷静になってみれば、確かに今、アンさんに関して私にできることはなかった。
むしろだからこそ、何かをしたいと思ったのだけれど……そのせいで一番やるべきことを、私にしかできないことを忘れるとは。
……馬鹿だな、私は……。
「それじゃ、ばいばい。また明日」
「……うん。また、明日ね」
ルーシーちゃんとクリスさんB、ふたりの姿がドアの外に消える。
部屋には私と、クリスさんA……クリスさんだけが残された。
「……休みましょうか。マリーさん」
「そうだね、クリスさん……」
一日歩き回った疲れは、当然残っている。
その後のてんやわんやもあって、相当疲れていたのを自覚した……今にも倒れそうなくらいだ。
考えなくちゃいけないこと、やるべきこと、確認するべきこと……それらはうんざりするほどあるけれど、今ばかりは、二人きりでぐっすり眠るのも悪くない…………。
「──なーんて。言うとでも思いましたか、マリーさんっ!」
「えっ……な、えっ!? わわっ!?」
クリスさんを誘ってベッドに入ろうとしたその時、強く背中を突かれた。
抵抗する術もなく、顔からベッドにつんのめる。
一瞬、というかかなり長い間、衝撃で息が止まった。
なんだ、一体なんだ!?
「ぬっふふ……ふたり……二人きり。えへ、ルーシーさんのことは正直苦手なのですが……今回ばかりは感謝してあげましょう……!」
「ちょま、えっちょ、クリス? クリスサン?」
なんとか、本当に何とか振り返る。
仰向けの姿勢になった私の腹に、容赦なくクリスさんが座ってきた……あふっ、と変な息が漏れた。
これ以上なく上機嫌で。
かつてないほどハイテンション。
聞いたこともない笑い方をするクリスさんの目は……昼間見た、猛獣の眼……!
「──苦労、しましたよ」
「はい?」
「マリーさん……ずっと……ずっと思っていたのですが。面倒なことが重なって、どうにもならないことが重なって……いまいち踏ん切れずにいたのですが! マリーさん! マリーっ!!」
「は、はいっ!? ……ぁ……?」
勢いよく抱きつかれる。
そんな彼女の腕が、ほんの少しだけ震えているのを感じて…………馬鹿な私は、ようやく彼女の行動を理解した。
……異様なハイテンションは、強い不安の裏返しか。
心細くて、寂しくて、心配で。
そんな彼女の心境を察せなかったことに、後悔と愛しさが募る。
本当はずっと、不安だったのだろう。
友人の豹変も、何もできない自分も、追い打ちで私と……わけのわからない別世界の自分のことまで。
「……今夜は、寝かせませんから」
「……分かったよ、クリス」
それを思えばなんてことはない。
一晩眠らないくらいなら、まるで平気だ。




