唯一無二のふたり
アンさんの変貌に関して、私たちの間で真っ先に嫌疑がかかったのはルーシーちゃんであった。
当たり前である。
前科があるなんてレベルじゃない。
だが……。
「うーん……ごめんね、ボクにもなんとも。元の彼女と会ったこともないし、判断のつけようがないよ。一つ言えるとしたら、彼女の精神そのものに何らかの干渉があった痕跡はなさそうだってことくらいだけど」
「そう……なんかごめん、疑っちゃって」
「いやいや、当然の思考だよ。もしまた何か手に負えないことがあったら、遠慮なく呼んで」
「……うん、ありがと」
そんなこんなで、進展はなかった。
今回は本当に何も心当たりがないらしい、分からないのがひどく申し訳なさそうだ……疑ったのはこちらなので、彼女は何も悪くないのだが。
しかし、アンさんへの干渉の痕跡はない、か。
ということは、外的な何かの影響──催眠術とか、そういった類のもの──はなかった、ということなのだろう。
馬鹿馬鹿しい話ではあるけど、結構本気でそういう可能性を考えていた……。
「振り出し、ですか」
「そんなもんじゃないよ、クリスさん。それ以下だ」
困ったことになった。
そうなると、手がかりはないも同然だ。
手当たり次第に調査するしかない……一気に肩の荷が重くなったような感じがする。
ルーシーちゃんにも調査を手伝ってもらおうかとも思ったが、彼女にも彼女の生活がある。
それに、元からアンさんはああだったという可能性もまだ残されてはいるのだ。
そんなあてのない調査に、彼女まで巻き込みたくはない。
「──ねえ、マリーさん」
「どうしたの、クリスさん」
そんなことを考えていた時、クリスさんが改まった様子で話しかけてきた。
ほんの短い回想から、再び引き戻される。
私たちはアンさんの知人に聞き込みをするべく、学園内のある廊下を歩いていた。
学園自体は、今日は休養日だ。
静謐さが漂うそこは、ごく稀に人が歩いてくるくらいでほとんど人目はない。
「私、さっきはがんばりましたよ?」
「……? そ、そうだね?」
確かに頑張っていた。
あの状態のアンさんとさらに会話をし、宥め、当初の浮気疑惑を解いてみせたのだ。
今はアンさんも落ち着いた状態でイリーナちゃんと一緒にいる……おかげで、私たち二人は自由な行動ができるようになった。
だからイリーナちゃんがアンさんを抑えている間に、私たちが何かを掴む。
漠然とした作戦だが、他に手段はないだろう。
「いっぱい、いっぱい頑張りました。……少しは、ご褒美をくれてもいいんじゃないですか?」
「ご、ご褒美って言われてもな……」
大して所持金があるわけじゃない。
それに今は昼過ぎの微妙な時間だ、何か食べるにしても……。
「はあ……鈍感ですね。ほら」
「ほらって……」
そう言って彼女は少しだけ頭を下げ、こちらに突き出してくる。
まるで頭突きをするような姿勢だ。
「撫でなさい。いえ、愛でなさい。あなたの可愛い婚約者は、それを所望しています」
「それを自分で言うか」
……まあ、可愛すぎる婚約者の頼みならば断るまい。
突き出された頭に手を添え、撫でる……ふわふわの髪が絡まって、いい匂いが広がって。
……ご褒美。
果たしてどちらに対してだろうか。
「えへへ……」
「……もう。クリスさんったら」
しばしその感触を堪能する。
いっそ、永遠に触っていたい……が、今はそうもいくまい。
「……はふう」
「満足した? それなら……」
「いえ、全く」
「えっ……」
当然のようにそう言い放たれた。
はにかんだ目は笑っていない。
まるで、獲物を見るかのような……今まさに獲物を襲わんとする肉食獣のような目だ。
これ見よがしに舌なめずりまでしちゃって。
「ふふ、ふふふ……」
「え? あ、ちょっ、クリスさん? そのあの、今は……イリーナちゃんが待ってるし……」
廊下の壁に追い詰められ、体の左右に腕が突き出される。
とん、と軽い音……だが紛れもない、壁ドンだ。
迂闊に動いたらすぐにでも襲われそうな。
「…………」
「…………っ」
沈黙。
膠着。
睨み合い。
このまま抱きついてくるか、絡みついてくるか。いつものクリスさんのパターンだ。
衝動と理性が、頭の中でもつれあう。
人目が少ないとはいえ、ないわけじゃない。こんなところで襲われるわけにはいかない。
だが、彼女は相変わらずいい香りがする……このまま何も考えず彼女を抱きしめてしまいたい、いっそ食べてしまいたい……。
……やがて、彼女が口を開く。
「……ふむ。まあ、今は勘弁してあげましょう」
「えっ? あっ、へ、うん?」
「どうしたんですかマリーさん、マリーさんが『今は』ダメだと言ったんですよ」
「あ、そう……いや、そうだけどさ……」
……本当に襲わないつもりなのか。
別にがっかりはしない、決してがっかりはしていないが……なんというか、驚いた。
いつもなら彼女は、そんなことで遠慮しないのだが。
「……ふふふふっ」
「ま、まあいいや。ともかく行こう、クリスさん」
「ええ、行きましょうか。……ふふっ」
……なんだろう。
危機は去ったはずなのに、なぜだか胸騒ぎがおさまらない。
嵐の前の静けさ、そんな言葉がふとよぎった。
……今は考えるのをやめておこう。
***
そのまま日が暮れるまで歩き回ったものの、大した戦果はなかった。
ひとまず以前からアンさんを知っていたという人たちに、手当たり次第に話を聞いたのだが……『ある日を境に変わったような気がする』、などと曖昧でなんとも言えない返答ばかり。
ある日とはいつか。
明確には分からない。
変わったとはどんなふうにか。
うまく言語化はできない。
そんな答えじゃ、何も分かってはこない。
やはり彼女は変わっている、そんな確信を得たくらいか。
大きな進展とは言えないだろう。
失意のまま寮の部屋に戻ろうとしたところで、クリスさんが不意に口を開いた。
「──マリーさん。私は少し野暮用があるので、先に戻っていてくれませんか?」
「野暮用? クリスさんが?」
珍しいな。
普段はそんなこと滅多に言わないのに。
「ええ。大したことではないのですが……先に、部屋に戻っていてください」
「うん……? 大したことじゃないなら、私も一緒に……」
「戻っていて、ください。いいですか」
「え……? あ、うん、分かった……」
これも珍しく、強く念を押すような口調。
まるで遠ざけるような……いや、本当に遠ざけられたのか?
珍しい、なんてレベルじゃないな。
クリスさんの方からそんなことを言い出すなんて、今までにないことだが……。
……まあ、何かあるんだろう。
親しき仲にも礼儀あり、である。
愛する人に来るなと言われてついて行くわけにもいかない。
「心配しなくても、すぐに戻りますよ。では」
「あ、うん……もう夜だし、気をつけてね」
そうしてクリスさんと離れ、歩きなれた廊下を一人歩く。
なんのことはない、歩きなれた道だ。
それに私ももう大人だし、ひとりぼっちが寂しいとかそんな感情は湧かないし全然いやもう全く寂しくなんてないですし…………。
「……うぅ」
……落ち着かない。
すごく気になって仕方がない。
割り切ろうにも、どうにも心がざわつく……何か危険なことに巻き込まれてはいないだろうか。
そうでなくとも、あのクリスさんがわざわざ私に隠し事をするなんて、らしくもない……。
「……っと。もう着いたか」
思案していると、自分の部屋を通り過ぎるところだった。
落ち着け、私。クリスさんを信じなくてどうする。
他ならぬ彼女が、来るなと言ったのだ。きっと何か理由はある。
「はあ……ただいまー」
「あ、マリーさん! おかえりなさい!」
部屋のドアを開けると、イリーナちゃんが飛び出してきた。
まるで新妻みたいだな、なんてどうでもいい感想を抱く。
彼女がもし誰かと結婚するのならそれは一体誰なのだろう、と私は常々思っていたのだが……その枠はアンさんになるのだろうか。
だとしたら、なんというか……こう、すごい家庭だな……。
「……あれ? イリーナちゃん、アンさんは?」
「ああ、アンさんならついさっきご自分の部屋に戻っていかれましたよ! 私も来るようにって言われたので、もう少ししたら向こうに行こうかと!」
「そ、そっか……」
それでいいのか。いや、いいんだろうけど。
彼女の浮気疑惑は晴れたので、彼女たちの仲は険悪というわけではない。むしろ仲睦まじいカップルといったところだ。
それに、アンさんも別に悪い人ってわけじゃないのだ。ほんの少し、ほーんの少しだけ愛が重いだけで。
つまるところ、イリーナちゃんがいいならそれでいい。
口を出すべきことじゃない。……多分。
「それにしても遅かったですね、マリーさん。一人で何してたんですか?」
「うん? いや、聞き込みをさ……別に一人ってわけじゃないよ、ついさっきまでクリスさんもいたし」
「……え?」
「え?」
うん?
何かおかしいことを言っただろうか?
「ついさっきまで、って……クリスさんなら、だいぶ前からここにいますよ?」
「は?」
だいぶ前?
いや、そんなわけが。
「だって……ほ、ほら、入ってくださいよ。というか、マリーさんの部屋なんですし……」
「あ、うん……そうだね。いや待ってよイリーナちゃん、だってクリスさんは……」
「私がどうかしましたか?」
「く、クリスさんっ!?」
ようやく玄関から部屋に入った私に、部屋の中から声がかけられた。
聞き覚えのある声、愛しいその声。
顔を上げると、確かにそこにクリスさんはいる。
声も顔もなにもかも、紛れもなく彼女だ。
だが。
「おかえりなさい、マリーさん。こんな遅くまで、どこに行っていたんですか?」
怪訝そうな顔。
まるで覚えていないような……本当に、そんなことはなかったかのような。
「え……ええ? いや、だってさっきまで……一緒にいた、でしょ……?」
「え? いえ、私は随分前に一人でここに帰ってきましたが……」
「……っ」
……わけが分からなくなってきた。
確かにさっきまで、クリスさんと一緒に歩いていた。それははっきり覚えている。
だが目の前のクリスさんは、そんなことは知らないとばかりに……!
「──戻りました。おや? イリーナさんもまだいらっしゃったのですね。ただいま、です」
「っ!? な……ぁ……っ!?」
「え? ……ええっ!?」
驚愕。
いや、それを通り越した恐怖。
目の前に、クリスさんはいるのに……後ろから、クリスさんの声がした。
「うん? どうしたんですかマリーさん、まるでお化けでも見たような……顔を、して…………」
「な……え? わ、わた……私……?」
クリスさんも、困惑している。
クリスさんたちも、困惑している。
ゲームだったら、よくある……バグだ。
増殖バグ。
登場人物や物が増えたり、二重になったり……そんなありふれたバグ。
でも……これは現実、だよな?
「なぜ……ま、マリーさん! これは……!?」
「どういうことなんです、マリーさん!? なぜ私が……私が……!?」
なぜと言われても、分からない。
目の前で起きた超常現象に、私は解をつけられない。
できるのはただ、見たままの疑問を投げかけることだけだ。
「なんで……クリスさんが、二人いるの……!?」
部屋の中で、私を出迎えた彼女。
今しがた、私にやや遅れて帰ってきた──彼女。
私の、一番大切な人は。
なぜか、二人になっていた。




