ほんの少しだけ、昔々の
「お連れしました、奥様」
「ありがとう、アル。下がっていいわよ」
「失礼します」
ボクの問いかけの後、アルくんはほんの僅かだけ苦しそうに目を閉じた。
しかしそれも一瞬のことで……ご案内します、との一言だけを告げられ、今に至る。
連れてこられたのは、気品漂うという言葉がぴったり似合う部屋だった。
置いてある椅子にクリスちゃんとよく似た女性が腰掛けている。
アンちゃんとオリバーくんは、それぞれ別の場所に連れて行かれたようだ。
やや心配だが致し方ない。
「はじめまして。ルーシーさん、でいいのよね」
「うん。……ええと、キミは」
「クレアよ。クリスの母親……もっとも、今のあの子はそれを認めたがらないだろうけど」
「そ、そんなことは……」
ない、と言いかけて口をつぐむ。
彼女ら母娘に何らかの諍いがあったらしいのは事実だった。
語ってこそくれなかったけれど、おおよその推測はできる。
おそらく、彼女はマリーちゃんを……。
「こんな格好でごめんなさいね。少し腰を痛めたもので。それに……あなたの家を荒らしたことも、申し訳なく思っているわ」
「……別にいいけどさ。盗んだもの、ちゃんと返してくれる? あれ、ボクのものじゃないんだ」
追求するまでもなくあっさりと認めた。
椅子に座ったまま近くの引き出しを漁り……一冊の冊子と、小さな小瓶を取り出す。
間違いない。
ソフィアの手記と、ある毒のサンプルだった。
「これで全部ね。ごめんなさい、もう少し近くまで来てくれるかしら」
「ああ……うん」
十分に警戒しながら、一歩ずつ彼女に歩み寄る。
決して油断はできない相手だった。
とはいえ、攻撃的な行動は何もなく……これまたあっさり、二つのものを手渡される。
「はい、どうぞ。実際にやったのはアルだけど、指示を出したのは私。それに……クリスのお友達を攫ったのはケミコにお願いしたわ。彼らを責めないであげてくれる?」
「責めるようなことじゃないけど……」
「本当に?」
「…………。何が言いたいの」
値踏みするようにこちらをじっと見てくる。
……こういう人間は苦手だ。
「マリーちゃんに毒を盛って苦しませたのは私。それに……呪いというのかしら、どこか遠くに向かってその日記に書いてあることを実行したのも私よ。紛れもない蛮行、見ず知らずの人間すら手にかけようとした外道ではなくて?」
「…………」
「全て私が独断で行ったことよ。人を弄ぶのが大好きなの」
……あの毒は、時に人を死に追いやるようなものだった。
それと全く同じ発想で作られた呪いも然り。
作り方から実行方法まで、全てソフィアが手記に記していた。
保存のために残しておいたサンプルも。
それらを奪った彼女であれば、確かにそれをやるのは可能だろう……だけど。
「……理由は、そんなことじゃないでしょ」
「……何のことかしら」
「とぼけないで。キミが国に……王に対して直接申し入れをしているのは知ってるよ。今ボクに言ったことをそのまま明かして」
ボクがそれを知ったのは、つい先日のことだった。
けれど仮にもっと先に知っていたとしても……あるいはボクはそれを見逃したかもしれない。
「不思議なことを言うわね。そんなことをして、一体どんな……」
「キミは罪を被ろうとした。自分の娘が悪に仕立て上げられているのを、横から全部掻っ攫おうとしたんでしょ。こんな趣味の悪い毒まで使ってさ」
「…………」
かつてとある悪意を持った人間が作った、ただそれだけの毒と呪い。
極めて趣味の悪いそれは、当時も世界を揺るがした……苦しみ悶えいずれ死にゆく、そんな理不尽を人は恐れた。
そう、あの時は……。
「原因不明。意味不明。そんな大昔の歴史の遺物だ。確かにぴったりかもね……あの子たちが着せられた濡れ衣も、ちょうどそんな領域にある」
「……私は」
「ついでに言うなら、この日記を読んだキミは知ってたはずだ。この毒と呪いには既に対処法がある……当時の記録はほとんど全て消えてしまったけれど、ボクはまだそれを覚えてる。今更こんなものを使ったところで、そう多く殺せやしないよ」
「…………」
マリーちゃん、それに以前の巨人族の村。
間に合わなかった子もいたけれど、被害は小さく済んだ。
……未だに完治させることはできていないのが、心残りではあるけれど。
「そこまで分かっていたんでしょ。ボクらをどこで知ったのかは知らないけど、手の施しようがあることを。その上でこの方法を選んだ……結果的に大した意味がなかったとしても、ボクはそれを否定はしない」
呪いの方は大して拡散しなかったし、毒に関しては使った時期が遅すぎた。
それでも……彼女にとっての勝算はあっただろう。
知り得た超常を見せつけ、注目と罪を奪い取ろうとした。
ここまでの動乱は全て彼女が引き起こしたこと、クリスちゃんとマリーちゃんは濡れ衣を着せられた被害者……そんな筋書きだろうか。
「……意味なんて……なかったわ。ほんの少しだけ時間は稼げたけれど、もう限界。今日にでもあの子たちは殺されてしまう」
「……そうかもね」
「吸血鬼さんは薄情なのね。そんな反応、私にはできないわ」
棘で刺すような言葉だった。
その程度、甘んじて受け入れよう。
「まだ、終わってはいないから。それに、キミの行いを判じるのはボクであるべきじゃない」
「…………」
「これ、返してくれてありがとう。それとイリーナちゃんも連れて行くから。きっとあの子の力も必要になる」
踵を返し、部屋を出ようとする。
もうここに用はない。……そのはずだった。
「……あなたはむしろ、私を断じるべきじゃないかしら」
「……? 何のこと?」
弱々しい、けれど確かに芯の通った声が背後から聞こえる。
あまり時間はない、そう分かっていても立ち止まらざるを得なかった。
……なぜだろうか。
「古い、古い本にね……ある御伽話があったのを思い出したわ。生き残った誰かが書き残した、かつて滅んだ国の……それを滅ぼした女の子のお話」
「な……」
ぞわり、と。
背筋を撫ぜるような寒気が走った。
「──昔々、ある研究者がいた。もはや知るものもいなくなった彼は、ある毒を作り……才能のあったとある少女は、それが何かも知らぬまま、毒を元にして呪いを創った」
それは、紛れもなく過去の話だった。
確かに存在した過去の。
「作ったそれを無造作にばらまこうとした彼の試みは、すんでのところで阻まれた。……けれど一度作り方の知れたそれは、ゆっくりと、確実に、その国を蝕んでいった」
この上なくおぞましい悪意。
あるものは悪意の存在を許さず認めず、邪魔に思った誰かによって殺された。
あるものは治療の才があったが、自身を蝕んだそれをついに排除はできなかった。
あるものは自死のため、あるものは愛のため、あるものは誰かのため、またあるものは神とやらのため、毒と呪いでその身を焦がした。
力のあるものは殺し殺され、ないものもまた手を伸ばす機会を図り。
方法さえ知っていれば簡単に作れてしまったそれは、たった一人の悪意でありながら……いつしか、国を巻き込む巨悪と化した。
「誰かが言った。誰がこんなものを、と。また誰かが言った。こんなものを作った人間が悪い、と。既に死んでいた研究者に代わり、呪いを作ったある少女がいつの間にか標的に変わった」
……利用されていた少女がいた。
誰とも知らず何とも知らず、それが悪ならば何が善だろう。
ボクには、未だに分からない。
「少女は自らの身を守るため、呪いを使った。それが引き金となり、誰かが少女にまた毒を盛った……もはや誰であろうとも、人一人殺すことに躊躇などなかった」
いっそ、それが御伽話であったのなら。
作り話でしかなかったのならば。
それなら、不幸になった人などどこにもいなかった。
その方がずっと良かったのかも知れない。
──でもボクは、きっとそんな過去は認めないけれど。
「死に瀕した少女は、誰もいないはずの森で……ひとりの、天使のような悪魔に出会った」
ずっと昔から、そこにいた。
苦しみ抜きながらも迫害され、国を飛び出し彷徨っていた彼女がそこに辿り着いたのは……偶然だったのだろうか。
「少女は天使を求めた。悪魔は愛を求めていた。悪魔は少女に命を分け与え、生き永らえた少女と共に悪に堕ちた国を滅ぼしましたとさ。めでたし、めでたし」
悪魔。
上手い例えだ、そう思った。
当時の全てを悪と断じ、何もかもを切り捨てたそれは、たしかに悪魔のような所業だろう。
……でも。
「──めでたい話じゃ、ないでしょ」
「あら、そうかしら」
「…………」
当時、悪と断じたそれを。
それが放った言葉を……今でも思い出すから。
「愛する誰かのために、ほんのわずかな犠牲を選んだ。その生き方を断じられるのは、同じ境遇にいたものだけよ。……それで、あなたはどう思っているの?」
彼女が長々とそんな話をした理由を、朧げながらも掴んだ気がした。
彼女は重ね、そして後悔もまたしているのだろう。
あるいは自らの娘と、その婚約者の選ぶ道を、どう判じていいのか悩んでいる。
「……さてね。判じられるものでも、まして判じるものでもないよ。……でも……」
「でも?」
もしもあの時に戻れるとしたら。
何かを後悔する者は、往々にしてそんな考えに行き着く。
ボクだって何度も考えたそれは……やっぱりいつでも、全く同じ思考で終わる。
「……悪だってね、構わないんだ。犠牲を払って、それに罪悪感を感じて、あるいはそれを後悔しても……一緒にいられるのならそれでいい。そう思えるひとと出会えたことを、後悔していないから」
他人がそれをどう感じるかはわからない。
けれどボクは、ボク自身の行いをそう判じよう。
あれは、紛れもなく悪だった。
国を滅ぼしたその行動は、誰の目から見ても外道そのものだ。
「──そう。なら、私の娘たちは大丈夫ね」
「……なんでそう思うの?」
一応聞いた。
どう返されるかなんて、大体わかっていたけれど。
「あの子たちは、どんな手段を使ってでも生き残るでしょう。何かを犠牲に払って、悪に堕ちて、それを後悔したとしても……愛するものを失うよりはよほどいいって、ちゃんと分かっているでしょうから」
「……そうかもね」
愛のため、悪を容認する。
その善悪は……まあ、これもボクが判じることじゃない。
同じ穴の狢。
あえて言うならそういうことだ。
「引き留めてごめんなさいね、ルーシーさん。……そういえば、一つ聞きたいことがあるのだけれど」
「ん? なに?」
ほんの少し元気を取り戻した様子で、彼女は言った。
……というか、これ以上なく底意地の悪い笑みだった。
「マリーちゃんから、あなたと同じ……いえ、似ているけどちょっと違う匂いがしたわね。まるで……そう、家族のような」
「……? ……なっ!?」
「ふふ、まあなんでもいいわ。でもいつか紹介してちょうだい? まさしく血縁者、ですからね」
ボクと同じ、ちょっと違う匂い。
その意味を数秒遅れて察し、改めて自覚する。
ボク、この人間苦手だ……。
「わ……わかった、考えとくよ。それじゃ」
「ええ、さようなら」
そんなことを嗅ぎ分ける嗅覚。
……あっちの方がよほど人間離れしている気がしなくもない。
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