無情な終わりと
クリスはきっと、近づいてくる追手の気配を感じ取っていたのだろう。
そして、抵抗を諦めた。
逃げられないことを悟った。
より正確に言うならば……彼女は、きっと惜しんだのだ。
あのまま身を削る逃走に転じ、疲弊の果てに捕まるよりも。
ほんのわずかな時間でもゆっくりと腰を据え、最期の言葉を交わすことを選んだ。
足掻くよりも向き合うことを。
残酷な時間の始まりを、表面上だけでも受け入れた別れを以て迎えることを選んだ。
……そこまでを理解するのに、十分すぎるくらいの暇はあった。
「大罪人……か」
薄暗く埃っぽい牢に、いっそ不釣り合いなくらい重い手枷。
声を上げても返る言葉は一つもない、ただひとりぼっちの空間。
ほとんど弁護の余地もなく、死刑を告げられた。
捕えられてから一度たりとも知り合いの顔を見てはいない。
内密に、確実に命を奪う算段なのだろう。
死人に口無しだ。
どんなに無茶な濡れ衣であっても、物言わぬ死者のことなどいくらでもでっち上げられる。
刑は複数回に分けて行われるようだ。
いくつかの段階を経て徹底的に。
もしも一回首を落とされるくらいであれば、なんとかぎりぎり命を保てるかもしれない……そう淡い期待をしていた時期もあった。
事実一度はそれでも命を繋いでいる。
けれどまあ……今度は無理だろう。
私にはとても耐えられない。
言うなれば死と生のチキンレース。
死んで、生き返って、また殺される。
それに耐えてまだ命を繋げるほど、私の力も精神も強くない。
「……残機制。そんなことも言ってたっけ……」
ふと、いつかルーシーちゃんが言っていたことを思い出す。
あの時あの子は笑っていたけれど……実際それってどうなんだろう。
死の連続。
苦痛の連続。
それは、まさしく生き地獄ではあるまいか。
無間地獄そのものだ。
私にも死の記憶はある……ひどく痛くて冷たいあれは、叶うことなら二度と味わいたくない。
もっとも、その願いは叶わなさそうだが。
「ま、私なんかにはお似合いかもね」
ここ数日何度も考えたことだ。
そして、いつも同じ結論に至る。……クリスを吸血鬼なんかにしなくてよかった、って。
死ぬのは怖い。すごく怖い。
痛いのは嫌。苦しいのも嫌。
あの子には、そんな苦痛を味わってほしくはないから。
「……クリスは……どうなったのかな……?」
外の情報なんてひとつも入ってはこない。
クリスはまだ生きているのか、それとも……既に。
それすら分かりはしない。
分からなくてよかったのかも分からない。
……もう、考える時間もなさそうだけど。
「──死刑囚、マリー。迎えの時間だ」
「…………」
「立て」
妙に重い体の感覚から、朝であることがわかる。
近づいてきていた足音は、冷酷な死神の足音だった。
確かに知覚していた音より、無為な思考に没頭していた……往生際悪く、その事実を脳から締め出そうとしていたのだろう。
今日だった。
今日、私は死ぬ。
外された枷の重みが、久しぶりに感じた偽物の解放感が、淡々とそれを自覚させる。
「……嫌だと言ったら?」
「殴り殺してでも連れていく。貴様如きには似合いの末路だろうが」
一応聞いてみた。
無論、見逃してくれるような甘さなどない。
ひたすら冷酷に、ゴミを見るような目で見られていた。
私がやったこと……あるいはやったと思われていることからすれば当然かもしれない。
動機も正義もありはしない、己の快楽のみのために混乱を引き起こした邪悪。
世界を恐怖のどん底に陥れた張本人。
そんなところだろうか。
クリスにも同じような目が向けられていると思うと、たまらなく嫌な気分になるけれど……。
「……いた、痛い。自分で歩くって」
「…………」
なんとなく立ち上がれずに座ったままでいると、無言で脇腹を蹴り込まれた。
尊厳も何もあったものではない。
苦笑する気力も湧かなかった。
***
目隠しをされた上で、布の袋のようなものを頭に被せられた。
そういえばどこかで聞いたような気がする。
死刑を執行するにあたって不安を和らげたり、体液の飛散を防いだりするためにこうすることがあると。
本当かどうかは分からない。
けれど事実だ。
最後に見えたのは、ただただ無味乾燥としたどこかの部屋だった。
「言い残すことは?」
「…………」
「ふん……。まあいい、ここに立て」
あるわけがない。
こんなところでわざわざ遺す言葉など持ち合わせてはいなかった。
……けれど。
「──まだ」
気づけば、声が漏れていた。
きっと誰にも聞こえないだろう、小さな小さな声が。
何の意味もなさない言葉を、それでも言わずにはいられなかった。
「……もう、いちどだけ……」
背中を押され、何も見えないまま進む。
ざらざらしたものが、巻き付けられるように首にかけられて──。
「……ぁ」
──何かが、折れた。
そんな音がした。
***
***
「……………………」
……マリーの気配。
ずっと遠くに感じていたそれが、どこかへ動き、そして……捉えられなくなった。
それは。
その、意味するところは。
「……っ! この……こんなもの……!」
頭が、痛いくらいに熱くなる。
手に嵌められた枷を何度も、何度も何度も何度も何度も壁に叩きつけた。
指が擦れ、血が溢れようとも構いはしない。
もう何一つ失うものなんてない。
「う……ひぐっ。マリー……マリー……!」
少しならきっと、あのひとは生きていてくれる。
今すぐにここを抜け出せればきっと。
まだ間に合う、まだきっと、まだ、まだ、まだ、まだ、まだ。
「……っ……あああぁぁあああぁああああああぁああああっ!!」
痛みが。
無意識の抵抗が。
どうしようもない生理的なそれが、この期に及んで邪魔をする。
枷は割れない。腕も千切れない。
もうどうなったって構わないのに。
こんな体がどうなろうと、マリーがいないなら関係ない。
なのに、どうして。
「やだ……やだあああああああっ! かえして、ここから出して、わたし……わたしは……!」
いくら叫んでも、誰もいなかった。
ほとんど誰ひとりここを訪れてはいない。
このままわたしはここで朽ち果てるのか。
何もできず、誰にも会えず。
……それならば、いっそ。
「……こんな……こんなの、どうなったって構わない」
全部壊してやる。
予想される反動は、消耗は……もうどうだっていい。
何より純粋な破壊を、死を、絶望を。
どう紡いだって言い表せないこの感情を……全部、ぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶぶつけてやる。
元よりわたしたちは罪人だった。
どう思われたって構いはしない。
「なにもかも……なにもかも! 全部、めちゃくちゃにしてやる……!」
熱い。
痛い。
眩しい。
それに、うるさい。
やけになって使う魔法は、これまでのどれよりも痛々しくて。
わたしの体ごと、まとめて焼き切ってくれるような──。
「消えて……なくなれ……」
視界が真っ赤に染まる。
血を吐きそうな感覚が。
どうやったって制御できない……そんな力に、押しつぶされる。
「……マリー……」
あの人の顔を、声を。
何もかも、思い返すような暇もなく。
全ては、無に帰した。




