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「ここもあそこも汚れているじゃない。まったく、もう少しまともにできないのかしら」
公爵夫人が私を頭ごなしになじってくる。
顔は上げない。見てはさらに激高させる。私はじっと怒りが高じて、弾けるのを待つしかない。
忌々し気に隅から隅まで点検し、あるのかないのかわからない汚点をあげつらって、愚弄する言葉は聞き飽きている。次の言葉さえ予想できるほどに。
平民の娘は……、二言目には必ず入る枕詞。
「平民の娘は、ダメね。何もかもすべて。ダメよだめなのよ」
言いたいことが口にできる。そんな自由を、立場を以てしか示せない公爵夫人。
目を開けば、生意気なと叫びちらし、手近な物を投げつけてくる。
目を閉じていても、黙っていないで何とかいいなさいと続く。
なにをしても気に入らない。
喉をからして、息が苦しくなって、気が済んでから。
「行きなさい」
その一言で終わる。
「失礼します」
大きな声では言わない。耳に届いても怒る。言わなくても怒る。
それでも両開きの扉を音もなく締めて、私はやっと解放される。
いい加減、私を呼ばなくてもいいじゃないと言いたいけど、それはそれで彼女にも言い分はあるだろう。私の罪じゃない。そう言いたい。言いたいところだわ。
私はメアリー。名前はあるけど、フルネームは言えない。
公爵家でメイドとして働いているように見せて、実は働いていない。
表向き、私は公爵家の娘でもあるのだ。
メイドと娘。二つの顔を持っていながら、公爵夫人に虐げられる。
そう、私は妾の子だ。しかも、公爵があろうことかメイドに手を出してできた子。
だから、公爵夫人からみたら、継子で。
憎らしいメイドに似た嫌な娘。
虐げずにはいられないけど。
それも児戯。
いつまで付き合えばいいのかしら。
本当はこんな家は出て行きたい。
とぼとぼと廊下を歩く。疲れたと言えない。弱音もはけない。
他の使用人から見たら、平民のくせに出生を偽った娘だもの。どこか距離を置かれている。
それはそうだ。夫人からはメイドのように扱われ、公爵からは娘のように扱えと言われる。
どっちについたらいいかわからないそう思われてもしかたない。
泣きたいときに泣けない。もう嫌だと言いたいけど言えない。
公爵夫人みたいに、当たり散らすようなこともできない。
うつむいて歩いていたら。
「メアリー様」
侍女が一人寄ってきた。
「そろそろお時間です」
つくり笑顔を向ける。
「今日も、儀式は終わったわ。早く準備しないとね」
部屋に戻れば、メイド服はすぐに脱ぐ。
いつもの令嬢用の衣装に着替えれば、家庭教師がやってくる。
その前に鏡の前に座って、ご令嬢に早変わり。
私はいったい何者なのかしら。人間である気もしないわ。
公爵は私を夫人の養女にしたのは、娘がいなかったからだ。
私が産まれた頃に、王太子様がお生まれになった。いずれは妃を選ぶだろう。その時に、娘がいないより、いた方がいい。算段が組まれて、私は産みの母から引きはなされた。
悲しいかな。私を愛してくれる人はこの家にはいないんだ。
足元のすり寄る感触に目をやると、先日拾った猫がいた。まだ生まれたての子猫だった。もうすっかり大きくなった。抱き上げるとあたたかい。
「お前だけだよ。私のことを見てくれるのは」
膝にのせて撫でると気持ちよさそうに鳴いた。
☆
我慢して勉強して、作法を学んで、芸術を身に着ける。
本当は妃なんてなりたくない。
なりたくないんだけど。
少しだけ、がんばっている。
「外へ散歩へ出るわ」
侍女に告げると、平民に見える簡素な服に着替えた。
「行ってらっしゃいませ。夕食の時間まではおかえりください」
元々平民の私に頭を下げるのは気に入らないかもしれないけど、侍女はそれなりに丁寧にあつかってくれる。年配の女性だし、きっと母のことも知っているはず。でも彼女はその辺はちっとも教えてくれない。
公爵夫人の儀式と、公爵の家庭教師。それなりにこなせば、私は少しだけ自由になる。
街へ行って、散策するのが楽しみ。
貴族なら馬車を使うと思うでしょう。私は使わない。
いつでも平民として暮らせるように、歩くことにしている。
街の平民の暮らしになじむ日が待ち遠しい。
「メアリー」
聞きなれた声が名前を呼んだ。
「エド」
振り向けば、金髪碧眼の男の子が立っている。私と同い年。半年ほど前に知り合った。
「今日はどうしたの」
「いつも通りよ」
「お継母さんのことかい」
「そう、仕方ないけど、逃げ出すことも難しい。微妙な折り合いがついてのことだもの。我慢の一つや二つしていないといけないわ」
「その辺は、いつもぼやかすよね。僕は事情が呑み込めないよ」
エドは苦笑する。
「家の恥だもの。
口にしてはいけないわ。
無視しなさいと言われても、無視しないではいられないの。
だって、毎日のことなんだもの」
「それでも、毎日頑張っているって不思議だね」
「そうね。おかしいわ。
おかしいけど、役に立つ気もするのよ。学べるうちに学んでおくわ。
私はきっと近いうちに用済みよ。
始めからなかったことにしてもらうの。
病気で死にましたとか何でもいい。
いない人間にしてもらう」
エドは苦笑する。
「過激だなあ」
「それぐらい思っていないと、耐えられないのよ」
はあ、と私もため息をつく。
「生まれなんてどうしようもないもの」
「そうだね、生まれはどうしようもないよね」
「平民になるのが楽しみだわ」
エドはいつも笑うだけ。
いつも話を聞いてくれる。それだけでありがたい。
はやく平民になりたい。そしたら、きっと、ずっと彼といれるのに。
☆
屋敷に帰ると兄がいた。ぱたりと顔を合わせてしまう。
「外に行っていたのか」
「……はい」
冷ややかな目を向けられて、嫌だなと思う。
「あまり自由にしすぎるな。目立つだけだ」
「すいません」
兄は冷たい。公爵夫人と公爵の長男。優秀らしく、実は王太子の友人として招かれている。
兄は言う。選ばれても選ばれなくても、この家には父が言うほど影響はない。まったく優秀な人は言うことが違うわ。
きっぱりと明言されるから、私も気兼ねなく、嫁ぎたくないと思って、行動できる。
ある意味、私の希望を後押ししてくれている。
関係ない人で、嫌いでも好きでもない人だ。
☆
公爵夫人と公爵の仲は悪い。
そりゃあ、浮気した夫と一緒に食事ができない気持ちもわからないでもない。
いわゆる仮面夫婦だ。
週に何度か、そんな公爵と食事をする。
「家庭教師から優秀だと聞き及んでいるよ」
公爵は私が褒められると喜ぶ。これで一歩一歩、目標に近づいている気になっているのかもしれない。
「教えてくださる先生がお上手なんですわ」
そう返すと、「淑女らしく、殊勝でよろしい」とまた褒める。
後々の生計のために頑張っているなんて、本心は言いませんよ。
「これでも王太子様の目にとめていただけるとは、到底思えません」
表は表、裏は裏。
きっともうすぐ王太子様が婚約者を選ぶ行事が始まります。
それまではこんな毎日が続くのよ。
もう、うんざり。そんな儀式終わって、早く解放されたいわ。
平民になって、地に足つけて、生きていくんだから。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
最終話、8月4日予約投稿済みです。
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