蛍
階下から鉄風鈴の音が聞こえる。
俺はベットの上に横たわったまま放り出されていたスマートフォンを手に取った。
「起きたか」
気配を感じた友人の一也が独り言のように言った。部屋の静寂がかき混ぜられて弱まる。派手なゲームアプリ画面がら目を離さないまま「まだその本読んでるのか」といかにも気だるげに聞いてみる。
「うん、そうだよ」
「電気も点けないまま読んだら目悪くなるぞ」
「お前もな」伸びをするような唸り声が背後から聞こえた。「この家、涼しくていいよな。風が通る」
たまたま今日が窓を開ければ暑さを凌げる日だったからではないか、と思った。見える空は薄曇りだ。再びスマートフォンを放り出すと俺は身を起こす。
床に胡坐をかいている一也が手にしているのは数年前に流行っていたシリーズ物の小説だった。黄昏の光の加減か、少しページの端が黄ばんでいるように見える。今、記憶の中であらすじを拾い直してみるとかなり絵空事のようなファンタジー小説だと気付けるけれど、クラスメイトに勧められて読んだ当時はそれなりにはまっていたんだよな。
「懐かしさにでも浸ってんのか」
一也はそれには答えず、腕時計を見て「あ、もうこんな時間だ」というとあっさり本を閉じて立ち上がった。
「そろそろ出かける支度しないとな。そういえばお前、夜遅く空港に出発して向こうに帰るんだろ。準備できてんの」
「大したもの持ってきてないよ。着替えるから先に行ってて」
「大変だな」一也はひらひらと手を振って階段を下りて行った。「お邪魔しましたー」
ピンクのサンダルを引っかけて家にやって来た従姉妹の蛍に良く通る声で「昂大君いるー?」と呼び出され、そのまま近所のスーパーへの買い出しに駆り出されたのはそれから数分後の事だった。
「今日は何作ってくれるんだろう」
俺はずしんと両腕にかかるスーパーの袋の中を覗く。豚肉に夏野菜、魚の切り身、そしてアルコールの缶数本。
「なんだろうね。私も分からないけれど。ゴーヤーチャンプルーかな」蛍の方は2Lペットボトルを前で抱えていた。
「でもゴーヤ買ってないよ」
「そうだね」
「なんでもいいけど早く食いてえな……」
蛍の父、つまり俺の叔父さんが作ってくれる料理は美味い。思い浮かべただけで涎が出る。趣味の延長ではあるが家で小さなレストランを開いていて、こうして俺たちが昔の仲間で同窓会を開くときなんかは店を貸し切りにして料理を作ってくれる。しかも長身でダンディ。男としては羨ましい限りだけれど、叔父さんの奥さんは随分前から見かけなくなってしまった。いわゆる蒸発というものだろう。蛍はそれほど背が高い訳では無いけれど細身で顔の鼻筋が通っていて、父親の血を確かに継いでいるように思う。でも色素の明るい茶色の瞳は似ていないから、そこは母親似だろうか。
緩い坂を上る。額に滲む汗が拭えず、目に入ってきて鬱陶しい。いつもより暑くないとはいえなんだか蒸し暑くて嫌な気候だった。ふと前を見ると、蛍の細いポニーテールの下の白い首筋にも汗が浮いているのが見えた。襞の多い青いワンピースから出る、まだ日焼けしていない細い腕や足や首が、暗いような明るいようなはっきりしない曇り空の黄昏のなかで輝いてみえた。
蛍。
蛍なんて実際に見たことは無い。
俺が今住んでいる場所でもこの町でも、見られることはないだろう。
「会うの、久しぶりだね」
「そうなのか? 近所だからよく会ってるのかと思ってたけど」
「一也君達のことじゃないよ」ポニーテールが揺れる。「昂大君のことだよ」
お互い顔の見えない位置にいるためか、その言葉は俺の口を閉ざしてしまった。蛍の方もそれきり黙って踵の低いサンダルをアスファルトに擦らせながら俯き加減に坂を上るだけだった。空き缶が道路の隅を転がっていく。お互いの息遣いが聞こえる。
二人で同じ学校に通っていた時もこの坂道は通学路だった。
「じゃあ乾杯しますか」
「乾杯」
プルタブを開ける音、缶から空気の抜ける音が続く。素朴な木製テーブルの上に乗るのはトマトと玉ねぎのマリネ、豚肉と夏野菜の味噌炒め。アルコールのつまみにはふわりと揚げられたそら豆と魚の天ぷらが出ていた。皆ご飯をかき込みながら料理を口に運び、麦茶のグラスや缶を呷る。ご飯もご飯で、ただの白米なのだが水気が丁度良く、噛みしめる程にほんのりと甘い。
同窓会といっても特に仲のいい者だけの集まりだから十人にも満たない。男女入り混じる全く遠慮の無い会話というのは確かに久しぶりでなんだか安心する。
「そういえば一ノ瀬」そう言って箸をこちらに向けたのは多賀というクラス委員長だった男だ。
「お前彼女とかできたのか? 気になる奴とかさ」
「え、なんで俺に聞くの、っていうか俺も聞きたいんだけど」
「俺らはいたりいなかったり。俺はまだ」
「いるんだろ」顔が変に笑っているからだ。
「俺はお前に聞いてるんだよ」
炒め物を箸でつまみながら俺は目を細めた。「いやー、まだ」彼女はともかく、気になる奴がいるかと聞かれて、いたとしてもそのまま素直に答える奴はそうはいない気がする。ましてやどんな人間が気になっているのかなんて、その子を知らない友達だったとしても口にするのには抵抗がある。
多賀は缶をテーブルに置いて、ふうんと息を吐いた。
「一ノ瀬は酒飲めないのか」
「飲めるよ。ただ、飛行機酔いが酷くなりそうだから今日はあまり飲まないだけ」
「こいつこれから飛行機で戻るんだって」一也が苦笑する。「大変だよな」
この場にいない奴の近況や最近発売されたゲームの話で盛り上がりながら、時々俺はグラスに注いだ濃い麦茶の揺れる水面をぼんやり眺めて、顔を曇らせずにはいられなかった。
本当に戻らなければいけないのか、と考えていた。
「ゆっくりしてていいよ」皿を重ねながら蛍が言う。「呼んだのは私だから」
「ごめん。ありがとう」
他の仲間が帰って、雑談に上がっていた熱が少し冷めてきた。椅子の背に腕を掛けながら俺は目を瞑る。顎を上げると冷房の風が額を掠めていくので心地いい。そこに叔父さんが姿を現した。無精ひげが生えかけていて、しかも黒いエプロンを掛けたままなのにそれらしく見えてしまう。これだから顔が良い人間は得だ。俺に笑いかけて歩み寄ろうとした途端に叔父さんは壁の枠に頭をぶつける。前にも何度か見た光景だけど部屋の設計ミスなんじゃないかと常々思う。
「蛍が空港まで送っていくんだろ」
「うん」
瞬きした後、俺はがばっと姿勢を戻す。
「聞いてない」
「だって私アルコール飲んでないし、電車は疲れるじゃん」
俺は渋った。空港まで車で行くとすればそこそこ距離があるし、蛍の方の明日の予定も知らない。
「そういう時は送ってってもらえばいいんだ。親戚なのにもうたまにしか会えないんだから」
なんとも微妙な心境だったが、少し考えた後で俺は立ち上がった。
「じゃあ俺も片付ける」
空港までの道は渋滞していた。フライトに余裕を持つために早めに出発していて正解だった。かかっているCDの曲名も聞く気が失せていたのでお互いに何も話さないまま時間が過ぎていったが、助手席で窓の外に並ぶ自家用車やタクシーやトラックを眺めていた俺に、ぽつりと声がかけられた。
「昂大君は知ってたっけ。うちのお母さんの話」
「いや」
「他に好きな人ができて駆け落ちしたんだって。十年以上前の話」
どこか他の家族の出来事を読み上げるような口調だった。振り返らないまま続きを促す。
「今の生活に慣れ過ぎて私はなんとも思ってないんだけど。こないだ突然そのことをお父さんが言い出して。どこか行っちゃう前から薄々気づいてはいたけど、何も聞けないうちに消えちゃったんだってさ」
「ああ……あの人、あの見た目で結構憶病だもんな」
「うん、そう。……でも今でも大好きなままなんだってさ」
それだけなんだけど。少し間を置くと蛍はドライに話を結ぶ。何を言ったらいいのか分からずにいると、運転席の彼女は息を吸い込んだ。
「でもさあ。うちのお父さん、そういうこと言おうとすると照れちゃうじゃない。だから多分お母さんはそんなこと全然分からなかったんだよ。もしかしたら今はもうお父さんのことなんて忘れてるかもしれないじゃない。もう連絡もつかないまま長い間経ってるのに。しかもそういう情熱的な所も好きだなんて、馬鹿みたいだよね。そんなだから逃げられちゃうんだよ」
蛍の声は通るし澄んでいる。よく、転がる星の欠片を連想させるような声だと思っている。そこにほろほろと苦さの混じる声で蛍は笑っていた。フロントガラスに視線を移しながら、俺は思ったことをそのまま口にすることにした。
「でも、お前、叔父さん__お父さんのこと好きなんだろ」多分、お母さんのことも。
流石に少し照れたのか、少し間が空いたが、蛍はそっと言った。
「ま、そうだね」
空港に続く道が真っ直ぐに伸びている。暖色系の街灯、車のテールランプ。住宅街のまばらな光。俺達は、なんだか道の先にあるなにかに吸い込まれにいくみたいな。
その向こう、ずっと遠くでぼんやりと夜空を光らせているのはきっと空港だ。
車の渋滞が緩やかに解け始めていた。蛍の横顔を見れば、影の中で頬だけが照らされている。髪を高く束ねているから襟足から少し後れ毛が出ている。実に見慣れた顔なのだけれど、車を運転しているからか、照明のせいか、妙に大人っぽく見える。
「空港に着きそうだな」
「うん。間に合いそうで良かった」
「__嫌だな」
「え?」唇を微かに開いて蛍はこちらへ視線を送った。
「帰りたくない」
向こうの町で俺が何をしているのか、何が不満なのか、具体的に言おうとしたけれど言葉が出てこなかった。
向こうに帰れば俺はまた一人になる。自分が孤独に生きているものだとまた思い込む。寂しさや色んなものに首を絞められそうになる。その癖社会的な笑顔を浮かべることはできるから、向こうにいる俺は蛍のことを簡単に忘れて、打算で適当に彼女を作ることもするかもしれないし、適当に理由をこじつけて別れることも出来てしまうだろう。人とはどうせ適当に付き合えばいいんだという考えに落ち着いて。
後部座席でスーツケースが音を立てる。
「分かるよ」と、蛍が言った。
「今の生活、たのしくないの」
「__楽しいことが全くない訳じゃない。でも、この町がいい」
「向こうの町の方がずっと綺麗なイメージあるけどなあ。この町ごみごみしてて私はあんまり好きじゃないなって思うことあるよ」
「うん」
自分がただ故郷の町を懐かしんでいる訳ではないことが本当は分かっていた。今、俺の隣に座っている人間がいなければ、俺にとってもこの町は蛍が言うようなものだろう。
「離れると、良い部分しか見せられなくなってくるね」
俄かに表情の抜けた瞳を伏せてかすかに彼女は顔を歪ませた。
「距離が近すぎたら近すぎたで、ただの親戚だよ」
「親戚って便利な言葉だよね。誰も彼もそれで納得するんだから」
急なカーブでハンドルを回しながら、冷房の音に紛れそうなぐらい珍しく低い声で蛍が呟くのを右で聞いた。車が高速のゲートをくぐる。道路標識に空港への案内が書かれている。
「あの、俺のことどう思ってんの?」
「……帰っちゃうんだよね」
「……うん。ごめん」
「車で送っているのは私だし……。帰るしかないんでしょう」
向こうの町なんか捨ててさっさと帰ってくるから、とすら言えないのがどうしようもなくもどかしかった。高い建物が無くなって広くなった空の下で、遠くにあるターミナルに緑色の明かりが灯っている。
空港の駐車場に車を停めてから少しの間、二人して呆けたように前を見ていた。どうしてこんな会話をしているんだろう、と思った。こんな距離感は好きじゃない。
「ちょっと」
ふと気が付いて、その指に触れると思った以上に冷たかった。
「冷房強すぎじゃねえか?」
「そういえばそうだね。寒いかもしれない」
「また来るよ」
彼女の瞳が少し動く。こちらの意図を読み取ろうとしているような眼差しに無表情で応える。これだけしか言えないけれど、これだけは言っておきたかったというだけのことが果たして伝わるだろうか。
ふっと空気を緩めるように蛍は微笑んだ。
「じゃ、またね。昂大君」
前髪が温い夜風に煽られる。
淡く浅い夏の夜空に飛行機の爆音が木霊している。