後
(5)
6日が過ぎた。晴天。婚儀に好適だ、多少暑い点を除けば。
新調のワイシャツ、白のネクタイ、あとはカフス。毛色の違った紋様が入っていた。胸にチーフ――が、これは止した。張り切り過ぎだ。まず紗栄子に嘲弄される。髭は丁寧に剃った。首元のボタンも締めた。最後に姿見で各所を点検――もちろん屈む――、玄関でエナメルの靴を履き、家を出た。
会場は浜松町、徒歩七分の箇所にある。式場が東京タワー近辺だから、参列者に配慮したのだ。披露宴が4時までで、2次会が6時から。5時30分が開場だ。この間、新郎たちは何をしてるのだ? ――新婦の衣装替え。まあそんなとこだろう。
浜松町で降りて東照宮方面へ歩いた。西に向かう大通り。道の両側、ビルが林立していた。一面ガラス張りのビルに斜陽が射し、全面燃えたようになった。手を引かれ、帰宅に向かう女児の影が長く伸びた。女児はその影を不思議そうに踏んで歩いた。カフェバーがあった。テラス席があり、そこに座る禿げた老人が、閑散の通りを黙然と眺めていた。テーブルには飲み掛けのビール。もう十分飲んだという顔をしていた。
3ブロック目を左に曲がった。地図ではこの先のセブンを屈曲した先にビルがある――が、なかった。ビル群を抜けてしまった。地図を再確認。セブンまでは順当だから――、単純に通過してしまったのか?
戻ることにした。振り返った50メートル先――見慣れた姿態の女、ワインレッドのドレスに黒のボレロ、あれは――紗栄子だ。こちらが認知を察知したらしく、腰に手を当て、俺の接近を待っていた。
「通り過ぎたのね?」
「多分」
「なんで間違うのよ! せっかく道案内させてたのに」
つまり、利用したのだ。先導役に。「こんなこともあろうかとな。多少多めに散歩してみたのさ」
「嘘言いなさいよ。単純に見落としただけでしょう?」
「戻るぞ」
「もちろんよ」
歩き出した。経路は合ってる。あとは視野に捕捉できるか。左右のビルの看板を見ながら進んだ。慎重に。マッサージ店に居酒屋。ネコカフェ。反対は岩盤浴、カフェバー、法律事務所。1階はファミリーマートだ。で、ラーメン屋、居酒屋、居酒屋、不動産屋。反対は美容院か――いや待て。あった。4F。
「あのビルじゃない?」エナメルの爪が中空を指した。「ほらっ、4階の」
近づいてみると入口に案内が出ていた。「深谷・真木結婚式2次会場 右手入口よりエレベーターにて4Fまでお越しください」台は暗色。音楽室の楽譜台のようだ。が、淵は金のリボン。
「なんで見逃すのよ、こんな大々的に出てるのに」
「今さっき出したんだろ」
「嘘言いなさいよ」
エレベーターで上階へ。入口。木戸さんが受付に立っていた。木戸さん――女性の先輩だ、大学の。隣は未見の男。きっと新郎側の関係者だろう。木戸さんはベージュのドレスで、スカートのひだが華麗に照明を四散させてた。髪はアップ。こちらに気付き、目尻が下がって口角が柔和に広がった。
「わー、タカスギだぁ。ひさしぶりー」で、視線を移し、「堂島も」
タカスギとは俺のこと――そう呼ばれるようになったのは、大学1年時、早口言葉で「高槻高すぎ」を連呼させられたからだ。
「お久しぶりです、木戸さん」
「2人で一緒に来たの?」
すぐさま紗栄子に目配せ。もちろん否定しろだ、その意は。が、言わない。逆にこちらを睨み返してきた。何か含意がある――が、無視した。催促でさらに顎をしゃくってやった。お前が言えと。が、またも拒否。下から視線で私意を「懇願」してくるばかりだ。
「えーっ!」と木戸さんの驚愕の声。が、顔は笑っていて「まだそういうプレイ続けてるの?」
「プレイじゃないんですよ、木戸さん」振り返って言った。「イケナイ子は躾けなければ」
「誰がイケナイってのよ」
「あと同道は30メートル手前くらいからですから」
「アンタが素通りするからでしょ」
「尾行すんのが悪いんだろうが」
木戸さんが笑った。「相変わらずなんだねー2人とも。まー、いいから早く入って。続きは中でね」
移動した。中は薄暗い空間。白いテーブルクロスが垂れていた。それが6つ。左右に3つずつだ。奥に雛壇で、中央に空白の通路。主役の通り道だ。上にはプロジェクタがあり、ビームの中に浮遊する細塵。最奥の壁に映像が投影されていた。曰く「深谷・木谷両家結婚式2次会へようこそ!」。天井にはシャンデリアが垂れ、それが黄金の果実のように光っていた。
各テーブルにはグラスを持つ人々が張り付いており、で、左側、久米さんがいる。三守さんもだ。どうやらあちらが我らの領分らしい。紗栄子が靴音を響かせ、前に出た。行先は2つ目の丸テーブル、女性陣の占有する島だ。
「おい紗栄子――」
「分かってるわ」手をヒラヒラさせながら言った。「後で話でしょ?」
で、今度は同じ手を愛想良く旧友たちに振っている。社交を前面に押し出してだ。称賛だな、この切り替え。俺は強者を好む。巧緻な対人述は強さだ。
ビールを取り、3つ目のテーブルへ――1つ目は真木さんの同期の面々が占拠していた。
時間になった。進行役の自己紹介の後、新郎新婦の入場。プロジェクターの映像が変わった。照明が落ちた。大音量でBGMが掛かり、拍手が鳴り、入場口にライトが照射された。皆の注目が1点に集まった。で、開扉。純白のタキシードに掴まる、純白の真木さんだ。ドレスを着ていた。華やかな桜色のリップが柔和に湾曲していた。目元も。が、どこか気恥ずかしそうだった。2人が歩き出した。照明が次々と点灯された。入口と雛壇を結ぶ中央道だけだ。こちらのテーブルまで来た。真木さんは長い手袋をしていた。その手が俺たちの拍手に振り返された。背後から祝福の声が上がった。感嘆の声も。「おめでとー!」「きれー!」女性陣の歓声だ。で、通過。ベールの白波を長くゆっくり引きながらだ。
2人が登壇した。BGMが収束し、拍手が鳴りやんだ。ライトも元通り。ただし壇上には小さな照明器具。ドーム状の明かりで、2人が浮かび上がった。
その後は歓談タイム。料理が出された。鶏のバジルソース焼き、冷製の合鴨肉、イカとサーモンのマリネ。あと燻製チーズにポテトフライ。シーザーサラダの赤ピーマンが際立っていた。が、まずは飲酒。チーズと合鴨だけ小皿に取ると、ビールをおかわりに行った。
取り、飲みながら戻った。残留者は3人。半数は料理の列の後尾だ。テーブルには安西と広尾と栗山。安西と広尾は既に会話していた。で、俺は栗山と話した。栗山――1期下の後輩――、社交家だった。証券会社に勤めていた。営業職。うちの親会社とはライバル同士で、話が盛り上がった。
「お前のとこがなければうちはもっと儲かるんだがな」
「そんな頑張らなくたって、もっと衰退してくれていいんですよ?」そんな会話だ。
ビールがなくなり、中座。取りに行って戻ってくると、安西と広尾の談話に加わった。で、またビール一杯分交歓し、今度は返ってきた料理収得組。いずれも同期で、近情を交換し合っていった。小ざっぱりとした頭髪、溌剌とした相貌。箸を持つとき、グラスを取るとき、袖先に覗くカフスや腕時計が、展開される順調の報告を裏書きしていた。真木さんたちのとり巻き――新郎側の女性陣――が退散した。好機。同卓の野郎どもに声を掛けた。急かした。主導的に歩き出し――が、1歩遅かった。手前の女性陣だ。移動を始めた。ゴツゴツヒールの音を響かせ、進路を陣取った。多色のドレスの裾がひらめいた。空色、浅黄色、ピンク、藍にワインレッド――深紅は紗栄子だ。歩く度、振った腕のブレスレットが輝いた。イヤリングも。紅唇は艶冶に微笑んでいた、同じく華やいだ会友の女子に向かって。横顔。一瞬目が合った――が、すぐ相手に戻った。それが気に食わなった。追尾した。後ろの奴らは後退した――それは察知した。が、引き返すわけにはいかなかった。挑発だぞ、あの一瞥は。
で、追い付いた。
「なんで来るのよ」紗栄子だ。噛みついてきた。「でかい人間は後よ」
「勘違いするな。カメラ係だ」
で、ケータイを預かった。3台。しゃがんで一枚ずづ撮っていった。
「あんたたちまだ抗争続けてるの?」ケータイ返還時、倉持さんが言った。女性の先輩。この人とも卒コン以来の再会だった。「体力あるのねえ」
「それだけが取り柄でしてね。称賛ならそちらの御仁にも送ってやったらどうです? 毎度毎度飽きもせず、逐一突っかかってくる姿勢凄い! って」
「アンタが一々非常識だからでしょう?」
「独創的なんだよ」
「なにが独創よ。オリジン弁当の方がよっぽど独創的よ」
そのとき光が流れた。涙? ――いや、イヤリングだ。硬質な音を立てて床に転がった。
「拾ってあげてタカスギ」先輩が言った。で、拾ってやった。差し出した。
受け取った。「ありがとう」
「ほらっ、グラス持ってあげなきゃ」確かに片手が塞がったままだ。
で、手を出した。紗栄子がグラスを渡してきた。受け取ると飾りを右耳に付け始めた――終わった。
「どうタカスギ。紗栄子キレイでしょ?」
「ああ、綺麗だ」悔しそうな顔になった。が、コメントは無かった。代わりにそっぽを向き、手を差し出してきた。で、グラスを返す。グラス――赤のワイングラスだ。なるほど、そういうことか。
「さてはその服、狂乱になって、ワインをこぼしてもいいようにだな?」
が、みるみる憤然としてきた。で、「違うわ」言った。「これは無礼な大男が絡んできても、なぶり殺せるようによ」
返り血対策か! 「が、そのための凶器はなさそうだぞ」
「あるわ」
「その石頭か?」
「イヤリングよ。その腐った両目にぶち込んであげるわ」
「そんな高価なもんは受け取れんなあ」
「ハア」横から溜息。首が振られ、金のチェーンのイヤリングが煌めいた。「世界から紛争が絶えないわけね」
女どもの挨拶が済んだ。俺らの出番。で、祝辞を述べに行った。「賑やかなパーティが好きです。特に幸せになってほしいと感じる人が、実際幸福そうにしてるのを見れるパーティーが」そう言った。真木さんは喜んでくれた。
会はつつがなく進んだ。マルゲリータ・ピザが出され、ゴルゴンゾーラチーズのリゾットが振舞われた。飲料をビールからウィスキー・ソーダに替え、各卓を回った。まずは新婦側、最前列。久米さんがいた。三守さんがいた。あと古谷さん、窪塚さん、三輪野さん。平野さんに志田さんまでいた――平野さんは大学中退後、フリーター、志田さんはアラブで石油の買い付けをしている。異色の2人だった。平野さんは茶髪で私服、志田さんはパーマに髭だ。中東で、髭は必須なのだ。パーマは好感をもたれるためだ。直毛が皆無だから。志田さんとは話が盛り上がった。仕事の話。他の人とも仕事の話だ。主に各業界の動向、情報収集の一環だ、起業のための。
それから女たちのテーブル。飲み物をシャンパンにチェンジした。薄い琥珀の発泡酒。美麗で、女性に受けると考えたのだ。いたのは斎藤、越田、君島さん、牟田さん、遠藤さん――最初の2人は同期だ。紗栄子はいなかった。各卓を回っていた。話したのはシャンパンの逸話「シャンパンはなぜ発砲するか?」話を続けた。「それはシャンパンには瓶に封入できないほどの幸運が入っていて、それが泡沫となって溢れてくるからのだ。だから、婚礼などで常飲される」もちろん虚偽だ。即見破られた。文句を言われた。喜ばれもした。それから身長。「また大きくなったんじゃない?」で、「実はシークレットシューズを履いてる」嘘だ、これも。で、詐偽を疑われた。靴を脱がされた。で、目測で計量。「やっぱり嘘じゃなーい!」笑いが起きた。これで十分なのだ、彼女らには。
飲み物をウィスキー・ソーダに交換し、新郎側の卓へ。新郎は32歳だ。来場者は会社関係が主。まず最前列のテーブルに行った。初めは陽気に「おめでとうございまーす!」それから手の届く限りの人とグラスを鳴らす。で、自己紹介。高槻というが、皆からはタカスギと称呼されてる。あとその由来だ。それを話すと大概一人が実際やってみて言い出す。で、失敗する。3回目か、達成間近な7、8回目でだ。で、一笑を買う。打ち解けた雰囲気を醸成する。あとは巨躯の話題。身長いくつあるの? なにか運動やってたの? へぇー、ラグビー……。100メートルはどのくらい? え! 11秒前半! はっやいねえ、それは止められないわけだ……。で、本命の話題。仕事だ。各業界の展望やその根拠を、自分より10も20も先達から収集するのだ。1次情報だ。換価できない代物――いや、そうか! 個々の業界事情だけを学習させたAIはどうだ? そうすれば誰もが自由に他業を知ることができる、しかも個別的対話的手法でだ。対象は――就活生だな。恐慌状態だ、彼らは。多少高額でも恐怖心に抗えないはず。これは暴利を貪れ――なんだ! 腰を小突く者がいる。これは――。
「自分のテーブルに戻ったら?」紗栄子。いたずらっぽく笑ってた。
「またお前か。どうしてお前はいつも――」
が、構わず脇に潜り込むように進み出た。「本日はご結婚おめでとうございます。新婦の大学時代の後輩で、堂島紗栄子と申します。皆様は新郎さんの同僚ですか?」
で、微笑。真紅のドレス、結い上げられた長髪、華麗なる相貌。手中は赤のワイングラスだ。それが全て、円卓の首長――俺の隣の中年男性。課長だ――に向けられている。で、男の顔――歓喜だ。完全に話題を奪取された。一団の意識の中核を、紗栄子が乗っ取られた。女の色香に惑うとは。肩をすくめた。即時後ろに振り返った。ビジネスの空気は死滅した。もはやこの地は焦土だ。で、去り際、歓談の集団と簒奪者に一瞥を送った。
次に移動した。真ん中のテーブル。ここも新郎の職場関係で占められていた。が、先のテーブルより年齢層が低い。男ばかり。30代前半が主だ。この層が最も話していて面白くない。20代の快活さもなく、40代の結実もない。諦観と惰性の落ち着きがあるだけ。が、それでも陽気に酒を酌み交わした。で、「タカスギ」の話、長躯の話。あと職種もだ。するとまた脇腹に軽少の刺激。「ねえ、私も入れてくれない?」また紗栄子だ。
「どうしてお前は――」いや、好機だ。丁度退屈してたとこだ。「分かった。なにか面白いことやってみろ」
「その必要はないわ。私たち、並んでるだけで芸をしてるもの」
「なんだ?」
「美女と野獣」
「――ああ、自分を美女と断定する、その傲慢さを笑えばいいんだな」
「残念だわ。ここにライフルがあったらあなたのハートを打ち抜いてあげるのに」
「物理的に?」
「もちろんよ」
「野獣退治の話じゃないぞ、あれは!」
隣人が笑った。座興が受けたのだ。
「初めまして。堂島紗栄子です」
「田原です。お二人はお付き合いされてるかなんかなんですか?」で、俺たちを交互に見た。
「そんな世界の破滅みたいなこと言わないでください」
「それより田原さんはどういったお仕事をされてるんです?」紗栄子がしゃしゃり出た。で、当の田原は喜色を示し――これは先と同パターン。すぐに撤退した。失地だ、もはやここも。
残るは1テーブル。往訪を取り止めた。定位置に帰った。間歇的でなければ再度の妨害に合うと思ったのだ。で、自席に戻り、学友たちと交歓、もちろん紗栄子の動向を監視して。田原氏の所――まだいる――長身、鮮紅色のドレスだ、いやが応にも目立つ。目が合った。が、会話に戻り――また衝突だ、視線の。何だ? いや、それより早くどけ、紗栄子。
会は進んだ。蝶ネクタイの女性店員が酒を作り、それが次々はけてゆく。女性陣は散り、男性陣と混成して黄色い声を上げた。大仰な驚き、さりげないボディタッチ、魅惑の笑み。同性には決して見せない外向けの笑みだ。で、男どもはもちろん魅了される。高揚する。で、女の更なる歓心を買おうとする。周辺の男全てに先んじてだ。で、最も先に、最も機宜を得た発信者に花は微笑む。が、一体なんのために? 快楽しかないのか? 目的が。いや、それより欠落だ。欠如の感知だ。今ここに不足はないか? こいつらに売り付けられるものとは? 一体なんになら金を払う?
「高槻」
「なんだ」声で分かる。紗栄子だ。
「空いたわよ」
「何がだ?」
親指の指差。背後にだ。で、そっちを見た。保留してた新郎側のテーブル。「まだでしょ? 回るの」
「まあな」
飲み掛けのウィスキー・ソーダを交換。乾杯には満タンだ。彼岸のテーブル、移動した。隙間を見つけ、介入した。気前のいい「おめでとうございまーす!」でだ。ただ過干渉だから、いい顔はされない。が、無下にもできない。実際されなかった。逆に話は盛り上がった。ここは新郎の学友たちの集団だったが、三木――話した相手――は、自営業者だった。近所の店のホームページを作成してると言った。が、主業務は情報収集とその提供、ホームページ制作は副産物であるらしい。彼は散歩が好きで、周辺を闊歩するうち、地理を仔細に覚えるようになった。で、それが営業で役に立ったのだ。「アジアンテイストの雑貨屋を探している」「それならどこそこにある」こんな風に。で、受注につながる。愛顧ができる。広大だからだ、東京が。Webだけではどうにもカバーできない。いや、あっても到達できないのだ、求める情報に。いや、そうか。つまりはそれが金脈なんだな。
「高槻」もう反応しなかった。してやる気にならなかった。「ねえ高槻ったら」
「聞こえてる」
「みんなで写真撮るって――」
紗栄子を放置し、歩き始めた。急ぎ足に付いてくる音、それも無視した。
で、写真を撮り終わった後はビンゴ、新郎の挨拶、新婦の挨拶、デザートにフルーツが配膳され、閉会の挨拶だ。終了は夜8時。解散時に土産を渡された。瓶詰めの飴玉で、口をラメのあるリボンで絞められていた。
会衆と別れ――3次会は断った――駅の反対へ。1ブロック行って右折だ。そこで紗栄子と合流になっていた。来た。
「ちょっと、さっきの態度。何なのあれ?」
「仕事の疲れが出たんだ、すまんな」
話が出来ればどこでも良かった。で、視野にあるBAR――「クリスタル・アロー」――に移動した。
2Fにあり、狭いビルの階段を上っていくと、ダーツボードの掛かった入り口。「クリスタル・アロー」そうか、ダーツバー!
後ろを振り返った。「支障は?」
「ないわ」
「だよな」紗栄子はダーツが得意だ。「が、今日はダーツはなしだ」
「そのつもりよ」
法隆寺の床板のような黒ずんだ扉。中に入った。少し暗めの照明。マンゴー色のカウンターがあり、グラスを拭く店主と目が合った。2人と伝えた。お好きな席にと言われた。カウンターは無人。バルーンみたいな黒革の椅子があった。座り心地は悪そう――テーブル席もあった。店内の奥まった方、ダーツボードの真隣り。が、これも却下。耳障りなのだ、ダーツの音響が。なにより先客がいる。先客――同年代の若いカップルで、男はグレーのスーツに朱のネクタイ。椅子に大股を開いて、寝転ぶように座っていた。女は売女のような身なり。ビリヤード球くらいの輪のイヤリング、ボルドーのベレー帽に朱唇。深緑のワンピースから太腿が大胆に覗いていた。で、男が女の首に腕を掛け、女は男の胸に寄り掛かり、甘く、嬌声。ないな。
で、彼らから最遠の地に。カウンターの左端、いま最も上品な席だ。
座った。ボウモアのロック。12年もの。ダブルでだ。紗栄子はワインのロゼ。
「ねえ初めてじゃない? 2人で飲むの」
「ああ。で、話なんだが。お前、なぜ河野と別れた?」
「またその話?」
「納得するまで何度でもするぞ」
「関係ないと思うけど」
「いいや、ある。いいか、ここが岐路なんだよ、紗栄子。河野くらいの奴はそうはいない。堅実で、穏和で、調和的。なのに気概まで持ち合わせている。そんじょそこらのオツムだけ優等なやつとは懸絶したやつなんだぞ。なのに、なぜだ? なぜ河野を拒否する? 収入か? いいや、収入じゃない、お前はそんな愚鈍なやつじゃないはずだ。なら、なぜだ? 何を隠している?」
「つまり河野クンとの別れの原因が、他にあるっていいたいのね? 高槻は」
「そうだ。なぜなら、お前は河野を想っている。今でも」で、停止。注視した。「違うか?」
「違うわ」
「嘘だな」
「なぜそう言い切れるの?」
「口吻だ。口ぶりだ。言葉の端々に河野への尊敬が宿ってる」寡少。ほんの些少な顔容の変化、間。やはりか!「なあ紗栄子、何が障害だ? 何が懸念だ? 何がお前に別れを告げさせる?」
酒が出た。が、受け取っただけだ。乾杯はあと。
「ねえ、もっと楽しい話しない? せっかく――」
「後にしろ」
「なんでそう詮索するのよ?」
「言ったはずだ、ここが分岐点なんだよ、お前らの。お前ら2人の幸福のだ」
「違うわ。あなた1人の満足の、でしょう?」
副次的にはそうでも、一義的には別だ。大体友人の多祥を置いて、一体なんの満足が得られるというのだ?
で、返答しなかった。視線に込めた。それでも十分に分かるはずだ。お前なら。紗栄子なら。
「――分かったわ」で、脱力。溜息。「でも交換条件よ」
「なんだ?」
「私とダーツで勝負して。あなたが勝ったら教えてあげるわ。でも、私が勝ったら――麻美と会うのを止めてもらう」
「麻美? なぜ麻美がここで出てくる?」
「言ったでしょう、話があるって」
「それが、麻美か?」
「ええ。漫研の斎藤君と貝塚君の話、聞いているでしょう?」
「多少は」
「彼らは間違いなく麻美を好きだわ。で、麻美も彼らを憎からず思っている。ねえ高槻。女が若くいられる時間は短いのよ。そしてそれが過ぎたら2度と返ってこない。中学時代、恋愛は恐怖だわ。高校は受験でそれどころじゃないし、大学は恋愛の最盛期だけど、就活を考えれば賞味3年だわ。3年。たった3年しかない。卒業したら仕事に残業で、慣れる頃には、女は、女の子でなくなってしまっている。現実が、恋愛を浸食し始めるのよ」
「つまり麻美に純粋な恋愛の妙味を教えてやりたいんだな? 紗栄子は」
「そうよ」
「で、それには俺が邪魔と?」
「そう」
「なるほどな――。却下だ」
「どうして?」
「第一に麻美の希少性だ。麻美のような特殊な人間はそうはいない。なのに素直だ。性格もいい。第二に麻美の尊厳だ。今の話、麻美当人の意向はどこにあった? ゼロだ。つまり、全てお前の『人生の最適解』から出たもので、即ち、お前の人生の反省の押し付けなんだよ」
「だからって麻美が不幸になるのを見逃すの? それは強者の義務に反することなんじゃないの?」
「それに対する俺の回答は1つだ。いい加減、妹離れしろ!」
「でも危なっかしいのよ。純粋で、一途で。放っておけないの。また家に引き籠るんじゃないかって」
だからって、進路の全部にマットを敷いて回ろうってのか、お前は? 転んでも無事なように? 下らん、克服のない人生の何が人生だというのだ? 悪いが俺は備えの杖まで全部取り上げて、へし折ってしまうような人間なんだよ。八起だぞ、不屈とは。
が、いずれにしろ条件の撤回がないのは分かった。となるとダーツで勝負か――不利だな。
酒をなめた。ゆっくりと、間を取るため。さて――どうする? 正面から相対すれば劣位。といって明らかな下駄も不可。となると――倒錯的要素がいる、格差を無効化し、劣勢を優勢に転換する何か――運だな。運で、片刃を両刃にしてやればいい。
「分かった。麻美を掛ける」
「愚行ね」
「ただし、条件だ」
「聞くわ」
「ルールの追加だ」視線を移した。「マスター!」こっちを見た。「トランプかサイコロ、置いてませんか?」
小考。「――トランプならございますが」
「貸していただけません?」
首肯した。黙然と、暗幕に消えた。で、間もなくカードを持ってきた。
「どうするの? それ」
「勝負で使う。形式は3投を3セット投げ、合計点を競う。ただし、投げる度にこのトランプを引いてもらう。で、スペードかクラブが出た場合は矢の点が加点、ダイヤかハートなら逆だ」
「つまり黒が出れば得点で、赤だとマイナスになるのね?」
「そうだ」
「ジョーカーは?」
「0点に戻る。あと、引いたカードは山に戻さない。点数の下限もなしだ」
「つまり、加減点になる確率は常に変化し、ジョーカーは没収でも救済でもある……」
「上出来だ」
「OKよ」
席を立った。店の奥側へ。交渉だ。先客との。ダーツは1台。使用中のもののみだ。
で、前まで行った。「このゲームが終わったら」と話掛け、見つめ合っていた瞳が、同時にこっちを向いた。「交代してもらえませんかね? 1ゲームだけでいいので」
緩慢な動作。「どうするぅ?」
「駄目でーす!」と女。「今夜はずっと、あたしたちが使うの!」
「だってさ」
だってさだと? 女は泥酔してるらしかった――それはいい、が、男はなんだ! 女の放縦を御しもせず、野放しにするこの破廉恥野郎は!
「待って高槻」振り返った。紗栄子。入れ代わりに前に出た。「私たちと勝負しませんか?」
「しょうぶぅ?」
「タッグ戦です。私たちとダーツで勝負をする。お二人が勝ったら、ここの支払いは私たちが持ちましょう」
「え! マジ? 奢りってこと?」
「ええ。でも、逆に私たちが勝ったら台を譲っていただく――どうでしょう?」
彼らは見つめ合った。視線の相談――同時に頷いた。「いいぜ」
紗栄子が振り返り、視線を合わせてきた。承認の確認。小さく首肯してやった。
ルールはカウントアップ。1人が3投ずつ投げ、それを3回繰り返す。最初の3投は男だ。で、次が女。最後が任意で、ただし、その3投のうち1投は、異性が放ること。こちらは俺、紗栄子、紗栄子で行く。当然だ、紗栄子の方が上手なのだから。
グラスを持ち、席を移設。台にコインを投入した。点灯が回り、開戦だ。
男が席を立った。手に矢を3本。緑、黄、緑の柄。グリップがザラザラしていた。白線まで行った。体は半身、やや前傾。静止し、狙いを定めるように投擲の真似を2度。で、それから急調に腕を振るった。緑の弾道。止まった。刺さった。祝福のファンファーレ。60点。最高点だ。「リョウ君すごーい!」女の歓声だ。
続いて2頭目。予行を2回、狙いを絞って、放った。刺さった。先よりやや上。20点。3倍枠の僅か上だ。間違いない、この男、なかなかできる。
「やるわね」と紗栄子。「正確に60点を取りに来てる」
「勝てそうか?」
「あなた次第かしら」
「つまり神のみぞ知るってことか」
で、3投目。予行の儀式をし、腕を振った。止まった。1点枠との境。ギリギリ20点だ。となると、総計100点。これは――勝てるのか? 仮に女が同等だった場合、軍配は完全に決するぞ!
「あなたの番よ」矢を渡してきた。
「分かってる」で、矢を取ろうとし――取れなかった。取得する直前、紗栄子が手を閉じたのだ。「なんだ?」
「1つアドバイス。いい?」
「どうぞ」
「盤の左側を狙うのよ。見て、左上の点数。12点、9点、14点、11点。矢のコントロールができない初心者にとって、あの一帯が一番期待値が高いわ」
観察した。確かに他は高得点と低得点が隣接していて、リスクが大きい。「なるほど」
「あと1つ」
「1つじゃないのか」
「これはアドバイスじゃないわ。でも言っておく。あのね、私は負けるのが大嫌いなの」
笑った。「同感だ」掌が開いた。今度こそ矢を受け取った。「善処するとしよう」
スローラインまで行き、台と対峙。例の一角が、真正面に来るよう角度を付けてだ。狙いは14と9の間。右手を上げた。足に体重を掛けた。で、腕を引き、一気に手首を返す。飛んだ。なだらかな軌道を描いた。で、チャチな音を立て、コンクリートの壁に激突した。
「ちょっと!」すかさず罵言だ。「何やってんのよ!」
振り向き、両手を開いて不明のパフォーマンス。「酔いが足りんのだろうなぁ」で、席に行き、グラスを煽った。
ラインに戻った。呼気を一息、仕切り直しだ。集中。油断を排すのだ。
待った。来た。思考の中、雑然のブロックが正三角に積みあがるイメージ。物の輪郭が明確になってきた。狙った。投げた。9点。もう一度。続けて放った。14点。ただし、その3倍点で、42点。僥倖だ。
「まあまあね」不敵な笑みが迎えた。上出来だと物語っていた。「一時はどうなるかと思ったけど」
「誰かさんのアドバイスが効いたんだろうなあ」
「あら、素直じゃない」
「たまにはな」でもない。共闘中だぞ、全ては勝利のために決まってる。「それで。巻き返せそうか?」
「あの子次第ね。もし彼女が熟練者ならアウト、高槻くらいだったら……」
「――だったら?」
「五分ってところね」
五分――そいつは困る。
隣に座った。体を近づけた。それを避けるように、紗栄子が背後にのけ反った。が、構わず肩を掴んだ。「信じているぞ、紗栄子!」
反応がなかった。回避の姿勢のまま、置かれた手を冷たく観察していた。で、目だけ動き「――これどけてくれる?」
そのようにした。安座に戻った。紗栄子は黙って、不機嫌そうに髪型の崩れをチェックしていた。
ソファー席。女が立った。が、男が引き留めるようにその手を引いた。で、女の耳に密語。女がニヤニヤした。何度か小さく首肯した。それから矢を持って白線に向かった。定置に着き、顎を上げた。肘を折った。しかし足は「休め」の姿勢のまま――間違いない。初心者だ。
飛び上がるように投げた。17点。「やったー」2投目4点。「えー」3投目、3点。「あれぇー?」計24点だ。彼我の差は78点――まずい、敗勢ではないか!
「行ってくるわ」
紗栄子が立った。ストールを脱ぎ、華奢な双肩が露わになった。歩き始めた。硬質な跫音。たっぷり、余裕を含んだ間隔で鳴り響いた。そしてその度、赤いドレスの裾がさざ波を立てる。柔らかく、空気をはらんで。Aラインの後ろ姿が美しかった。
スローラインに立った。左手からダーツを抜き、右手に構える。ぎこちなさのない一連の挙動、玄人の常だ。で、砲座の両足を適度に開き、ダーツを目線の位置に運ぶ。放った――らしい。矢は中央寄りの3倍枠の下に移動していた。20点。が、一体いつの間に? 射出のタイミングが全然わからなかったぞ。
で、2射目。左手の矢を右手に持ち替え、目線に。放った。20点。先と同じく3倍枠の真下――が、今度は分かった。放出のタイミングが。で、3投目。右手に矢を装填し、腕を上げ、放った。まただ、20点。今度は3倍枠の直上。しかし――、そうか。紗栄子の投擲には「呼吸」がないのだ。だから初動のタイミングが読めない。ボクサーの感じる気の収斂、あれがないのだ。
紗栄子が矢を抜いて戻ってきた。ソファーからは「リョウ君のほうがうまいよね」「形から入るタイプなんだろ」。
「ごめん、高槻」と紗栄子。
「構わん。それより集中を切らすな。次もある」言いつつ相手を睨んだ。
「そうね」
ショールを羽織った。席に座り、気だるげにグラスに手を掛けた。で、ワインを一口。落胆の色。が、お前の落ち度ではないぞ! 紗栄子。
3ゲーム目。ここからペアが交互に投擲する。まずは彼らから――無分別のあの男からだ。
男が立った。女の頭を撫で、ふやけた笑顔を交わす。白線に向かった。先と同様のフォーム、2度の儀式。放った。20点――? いや違う。ファンファーレだ。60点!
続いて女。立ち上がり、男に歩み寄っていった。で、男からダーツを受け取り、ボードと対峙。両のつま先が内向していた。男を見上げた。笑いあった。で、投げる真似をし、また男を見た。談笑。
「ああいうの羨ましくならない?」多少身を乗り出してきていた。
「いや全く」劣勢なんだぞ、今!「ベッドの中だけだ、そういうのは」
で、女。ようやく顔が引き締まった。構え、膝を折って、伸びあがった。2点。80点差だ、今。
女が相手の顔にキス。ソファーに戻った。で、男の番。例のフォーム、例の所作で、本命の投擲の動作。刺さった。鳴った。ファンファーレだ。万事休す――か? いや違う、15点だ。5点の3倍枠。これで95点差。
「私たちの番ね」紗栄子が立った。ショールを脱ぎ、靴音が鳴り始め、しかし2度で止まった。振り向いていた。「何やってんのよ。アンタも行くのよ」
立った。で、ウイスキーをしたため、スローラインに急いだ。
投擲の順序は紗栄子、俺、紗栄子。初回は紗栄子からだ。まず足場を固めた。前傾になった。で、ボードを睨み、腕を上げ、投げ放った。60点。ファンファーレだ。勝機。
紗栄子がどいた。そこに陣取り、先と同様左の一角と正対。で、集中、精神の弛緩を取り払った。それからゆっくり腕を上げ、目線にダーツを持っていった。狙いは9と14の狭間。そのまま視線をロックし、素早く腕を振るった。14点。成功の部類だ、自分には。しかし――21点、21点差か!
ブル・ダブル・トリプル、いずれかの得点がいる。勝負の分界だ、ここが。
「ブルね」台を見たまま紗栄子が言った。「そこが一番集中しやすい」
「そうなのか?」面積的には2倍枠の方が大きい気がするが。「まあ任せる。頼んだぞ!」
どいた。紗栄子がスライド。左手の矢を右手に持ち替え、姿勢を整え、肘を前に出す――矢は――飛ばない。2秒経った。5秒経った。10秒経った。なぜだ? なぜ放らない?
が、集中を阻害すると思い、凝視のみ。さらに数秒だ。が、ついに紗栄子が構えを解いた。
「どうした?」
「できないわ」
「は?」
「私にはできないって言ってるの! 高槻投げて」
「は? 俺だって無理だぞ。っていうか、お前の方が上手だろ」
「でも高槻が投げる方が高確率な気がする」
「ハア? お前一体何を言って――」で、気が付いた。蒼白だ、顔面が。「具合悪いのか?」
「そういうわけじゃないけど。でも勝負が掛かってるかと思うと、無意識に――」
つまり、恐怖! そうだ、こいつ、昔から勝負弱かったな。
「分かった。俺が投げてやる」
「お願い」
紗栄子がどき、そこを占めた。矢を受け取り、半身に。今度は円心を正面にしてだ。赤点がある。そこを凝視し、腕を上げ、眼前のおもちゃの矢を、素早く放った。刺さった。中心付近。場所は? ブルか? 電光掲示板、そこの表示は――20点。あと1点だと?
「よしゃ勝った!」背後から歓声だ。「タダ酒だぞ、タダ酒!」
「リョウ君すご――」
「紗栄子!」びくついた。上がった顎、目を見張っていた。「店を出るぞ!」
黙って頷いた。急いだヒールの足音が響く。ゲームができない以上、滞留は無意義だ。上着を羽織ると、紗栄子が再び歩み寄ってきた。
マスターに事情を話し、奴らのここまでの精算を済ました。今回は紗栄子に出させた。全額。彼らと、俺らの分両方。紗栄子は責任を感じていた。だからだ、支払わせてやったのだ。トランプも返した。礼も述べた。で、退店時、奴らを一瞥した。ニヤニヤ笑っていた。で、男が「ごちそうさん!」手を振ってきた。入口を蹴って開けた。大股に外に出た。背後から店主の苦情。が、当然無視だ。
「もうちょっと常識的な行動とれないの?」階段を下り、紗栄子が言った。
「過度な期待はするな。野獣だぞ、俺は」
「そんなベロベロな野獣なんて初めて見たわ」
「これは、これは。光栄だなあ、人間として扱ってもらえるなんて」
紗栄子は足を止めた。こっちもだ。受けて立つ。
が、嘆息。「――止めましょう。もうそんな気力残ってないわ」
「こっちはまだまだ余裕なんだよ。次の店行くぞ、次」
「タフね」
「それが唯一の取り柄だ」
紗栄子が黙った。そっぽを向いた。で、しばらく。奇妙な一笑が漏れた。「そうね」そしてハンドバッグを肩に掛け、「今日はもう帰るわ。なんだか疲れた」で、ヒールを響かせ、駅の方にフラフラ歩き出した。が、すぐに反転。「あ、そうだ高槻」
「なんだ?」
「私の言ったこと、覚えておいて。女の寿命は短いのよ。私みたいな若さの浪費を、麻美にしてほしくないわ」
「河野を無駄だと言いたのか! お前は!」
「そうじゃない! そうじゃないけど、でも――。分かって。実らない想いの悲しみと、失ってしまった時間の悲しみ、その2つの悲しみを。麻美には味わってほしくないのよ。麻美に執着しないで」
で、立ち去って行った。今度こそ、振り返ることなく。
――執着? 俺が麻美に執着だと? この俺が、成功以外のことに執着してると言いたいのか! そんなはずはない。あってはならない。
それからしばらく立ち尽くした。両手をポケットに突っ込んだ。哄笑。抑えられぬ可笑しみが、自然と口角を持ち上げてきた。で、歩き出した。ポケットに手を入れたまま、紗栄子と逆方向にだ。
ジャケットから電話を取り出した。操作し、通話ボタンを押下した。耳元のコール――繰り返される――4度。5度。6度。出た。
「どうしたんですか? 今日はお姉ちゃんと一緒じゃ――」
「あのな麻美よく聞け。俺は今後、お前と一切会わない。事業が始まるんだ。もうこんな座興に付き合ってる場合じゃない」沈黙。ショックか?「――麻美?」
「お姉ちゃんですね?」
「いや、違うぞ。これは、俺の――」
「お姉ちゃんに何か吹き込まれたんですね?」
「待て麻美。違う。これは俺の意――」切れた。
2日後の深夜。仕事中に紗栄子からラインが来た。
「麻美が帰ってこないのよ。ねえ、そっちに行ってたりしてない?」
またか! 麻美!
(6)
麻美は見つかった。3日後のことだ。が、探し当てたわけではない。連絡が来たのだ、当人から。場所は函館。その一角で、中心街からはずれた所のビジネスホテルだ。数日したら帰るとあった。諸種考えることがあるとあった。一人にさせてほしい――その機微は理解できた。なにより連絡があったのだ、今回は。進歩。信用で返してやればいい。が、却下された。紗栄子だ。迎えに行くと言い出した。俺に付いてこいと言い張った。責任の一端が俺にあるからだと。否定はできなかった。拒否だけはできた。が、承引した。函館だ。こんな機会でもなければ行くこともない。で、河野も誘った、ほぼ冗談のつもりだったが、応諾された――なぜだ?
当日。羽田のロビーで落ち合った。鏡面の床、そこに、キャリーバッグを引く旅人の姿が映った。全面ガラス張りで、天井や側面から遥かな蒼天が望めた。空への門だ。時計塔で待ち合わせ。7時40分のフライトで、7時10分に参集。
6分前に到着し、待っているとエスカレーターの淵から、河野が現れた。
「や」普段の表情。「久しぶり――でもないか」
「荷物はそれだけか?」ブラウンのボディバッグ1つ。
「日帰りだろ? っていうか、高槻こそ手ぶらじゃないか! 荷物は?」
「現地調達だ。捕縛用の網も含めてな」
「で、そのままふんじばってお持ち帰りって寸法だね?」
「ザッツライト」
「いやあ、麻美ちゃんの緊縛ものが見れるとはね」
「妹ものだってのも、忘れちゃいかんぞ」
紗栄子が来た。体のラインの出たシャツ、ベージュのジャケットを、鞄の紐に括りつけていた。で、インディゴジーンズ。3、4センチのパープルのヒール。
「そろってるわね」視線を配った。「行くわよ」歩き出した。
「ヒールか」呟きが聞こえた。河野からだ。
チケット売り場で発券してもらい、発着場へ。ゲートをくぐった。連絡口を歩く。で、シート――一番窓際――を確保し、安眠の姿勢へ。寝不足なのだ。昨夜は29時まで残業していた。ベルトを締めた。アイマスクを付け、耳孔にイヤフォン。が、シートはまだ倒さない。離陸後だ、それは。で、発進のアナウンス。急な加重が来て、振動が来た。静寂。離陸したのだ。アナウンスがあった。ベルトを外した。で、シートを倒し――。
「――高槻」肩を揺さぶられた。「高槻。着くわよ」
「機長にバックしろって伝えてくれ。あと少し寝かせろ」
「何寝ぼけてんのよ。新千歳よ、もうすぐ」
眠ったのか。「そういうことは俺より胸が大きくなってから言ってもらおうか」アイマスクを取った。光――眩しい。蒼穹。空だ。
「いいから起きて。ほら、シートベルトも締めて。あとね、後でぶっ飛ばすわ」
飛行機を降りた。ここからはレンタカー、プリウスだ。紗栄子が運転、助手席が河野で、俺が後部だ。
エンジン始動、バックで発進し、転回すると車道に進出した。
「機内で何話してたんだ?」
「別に何もよ」と紗栄子。バックミラーで一瞬、視線を配ってきた。
「紗栄子は本読んでたよ」窓枠に頬杖ついていた。
「そうか」
下道を僅かに走行し、千歳ICへ。高速で大沼公園まで行く。そこから国道5号で、函館だ。
北の大地。ツーリングで来たことがあった。直線ばかりで、半ば高速道路に近かった。片側2車線の車道を、タンクローリーが100キロ近い速度で爆走していた。(俺はその隣で肝を冷やした)
が、自然は美しかった。広大な畑地とそこを通貫する龍の背のような起伏の道。それが地平線まで続き、その先は碧空。水平から垂直まで全天だ。土の香りがした。蜜蜂の羽音が聞こえるようだった。と思えば鬱蒼の山地。緑が濃かった。煙雨の向こう、洞爺湖が神秘をまとって、永遠の湖水を静かに湛えていた。昭和新山も見た。岩石の頂上、粗い切っ先が、鋭利に空を切り取っていた。
「昔来たことがある。この辺」
「昔って?」紗栄子。ミラーで窺ってきた。
「学生時代だ。大学2年の夏だったな」
「一人で?」
「一人だ。函館から小樽、札幌、帯広、苫小牧とバイクで回ったんだ。が、何しろ学生だろ? 金がなくってな。総予算4万5千円くらいの旅だった。で、せっかく遠出したんだ、旨いもんが食いたくてな、朝夕はカップメンとおにぎりで節約し、昼だけは当地の名物や有名店に入ってたんだ。毛ガニとか、寿司とかだな。で、さらに宿泊費節約のため、テントを持っていって、公園とか道の駅とか、とにかくその辺に勝手に張って、安価の旅にしてたんだが、途中で台風が来てしまってな。さて、どうする? テントじゃパラシュートしょって寝てるようなもんだ。で、避難したんだ、その辺の無人駅に。その駅がまた無情で、ただでさえ心細い夜だってのに、一つしかない白熱灯を10時で切やがんの。あの夜だけは久しぶりに寂しい思いをした。普段、そんなの全然思わんのに」
「台風は無事過ごせたの?」
「でもない。暴風域の広範囲なやつで、翌日の正午まで強風が残ってな。何しろこの辺、海浜だろ? 横風をもろに食らってな。まっすぐ走ろうにも風で対向車線に押し出されるんだ。で、バイクを常に20度くらいに傾けてだな――今思い返してみると、恐怖だったろうよ。特に、周囲を走ってた車にとっちゃ」
「いつ事故に巻き込まれるか分からないものね」
「あと砂塵だな。飛んでくるんだよ、砂粒が。猛スピードで。で、顔に当たる。露出してる頬に目一杯、びっしりだぞ。痛いってもんじゃなくてな。メットはカツカツ鳴りっぱなしだし」
「それでどうしたの?」
「空き駐車場に避難したさ、風が止むまで。で、ブックオフで買った100円の古本読んでたんだが、進展するうちヒロインが死んでな。続きが気になって止むに止められなくなるっていう」
「なんていう本?」
「忘れた」
「思い出しなさいよ、私も読んであげるから」
「無用だ。それより名作を読め、時の試練を受けた世界の名作ってやつを。ま、俺はその妙趣を知らんがね」
「何よ、それ」
河野は黙っていた。顔こそ微笑み。が、絶対に発言しない不可視の意思を、全身から暗然と発散させていた。その口がようやく開いた。
「1時半だけど。2人ともお昼どうする?」
函館だ。ウニが食いたかった。そう主張した。紗栄子は寿司。河野はハンバーグ――ハンバーグは即刻却下された。ウニ派と寿司派の討議になった。寿司はウニを包括すると紗栄子は言った。が、俺。うまい寿司は東京で十分、しかしウニは、新鮮な甘いウニは稀有だ。両者譲らなった。ジャンケンになった。
「ジャーンケーン――ポン!」巨大なグーと小さなチョキ。その中間、そこには、河野の柔和な視線が、静かに降り注いでいた。表情一つ変えずに。平安に。
結局ウニになった。函館駅近辺の店。駐車場がなかった。近くの立体駐車場に停車した。そこからは徒歩。隣を紗栄子が歩いた。河野は後方で、キョロキョロしながら付いてきていた。
「この辺は来たことあるの?」
「いや。商店街の方だ、俺が行ったの。夕食だったな」
「何食べたの?」
「覚えてないんだな、これが。カレー――だったような」
「美味しかった?」
「安かった」
「何よ、それ」
「死活問題だったんだよ。帰着したとき、41円しかなかったんだぞ、財布に。帰路、ガソリンが買えなくって帰還できるか分からなかった」
「本当? でも途中でお金下ろせたんじゃない? いざとなれば親御さんにお金振り込んでもらって、ATMで下せるでしょ?」
「それが旅行直前に暗証番号変えてだな」
「よりによってまた」
「な。で、しくじっちまったんだ3回」
「それでどうしたの?」
「バイクを40キロまで加速させる。クラッチを切る。するとしばらくは慣性移動できるから、20キロくらいまでアイドリングで進行。これでリッター7、80キロはいったな――河野?」
紗栄子を凝視していた。「え? あ、なに?」視線がこっちに来た。
「いや。付いてきてるならいい」
「視界に入らないからって、ナチュラルに低身長を馬鹿にしないでほしいんだけど」
駅前に出た。広大な車道。送迎のタクシーが客待ちしていた。秘密基地の骨格のようなオブジェがあった。が、人はいない。無駄に広い、繁華な地方都市。ま、新潟同様だな。土地が潤沢すぎて、建物が膨れ、かえって閑散の印象が濃くなる点は。
そこを通り南西へ。到着した。ウニ丼の看板がでかでかと見えた。が、店構えは小さい。かなり屈んだ。暖簾をくぐった。店員の子が人数を聞いてきて、3人と答えた。店は混雑。20分待ち。
「待つぞ」
「ええ」
「任せるよ」
で、待つこと15分。濡れ布巾の水滴残るテーブルに通された。蕎麦屋の和風テーブル風。矮小だった。窮屈だった。なのに河野、隣の椅子を引いてきた。
「なんでわざわざこっち来んだよ、そっち行け、そっち」
「ジョークさ」で、対偶に。で、紗栄子。こいつも隣に座って来ようとした。
「おい紗栄子」
「何かしら?」
「俺テレビ持ってないから知らんのだがな。最近こういうの流行ってるのか?」
「ジョークよ。真似してみたの」で、対面に。
店員がやってきた。で、注文。ウニ丼を3つだ。1つは大盛り。あとは天ぷら盛り合わせ。
「麻美、ちゃんと食べてるかしら」
「テイクアウト頼んでみるか?」
首を振った。「それより今日はありがとう、2人とも。付き合ってくれて」
「いいさ。色々心配だし」
「色々?」
「天候の変化とか、社会保障費の増大とか」
「公僕らしいな。で、北海道視察ってわけか」
「Exactly」
「いいわね、あんたたちは。観光気分で」
「病は気からってね」
「病苦で鬱になるとも聞くぞ」
「気がもめて病になり、その病でさらに気が滅入って、病気がさらに、重篤化していく」
「まさに死に至る病」
「ハア」巨大な溜息。「あんたたちの話聞いてるとホントに病気になりそう」
丼が来た。小ぶりの器。そこにベージュの絨毯。厚みがあった。中央のわさびが爽やかに映えた。小皿に醤油、わさびを溶き、周回させながら丼に掛けた。で、端の方から豪快に掬ってほうばる。
「おっいしっ!」紗栄子。目を見張っていた。
が、その通り。ウニの甘み、うま味。多言無用の境地だ。
食い尽くすと茶をすすった。クールダウンだ、熱い茶で。
「行きましょ」ポーチに手が伸びた。椅子が後ろに滑り出た。顔が若干、厳粛になっていた。
「行くってどこに? 寿司屋か?」
「麻美の所よ」決まってるでしょうと言わんばかりだ。
「んな急がなくたって」
麻美の連絡。確かに虚偽の可能性はあった。紗栄子が危惧してるのはそれなのだ。
「でも早いに越したことはないわ」で、素早く伝票をかっさらい、コツコツ音を立てて歩き始めた。
「やれやれなやっちゃ」
河野が席を立った。で、仕方なく俺も。
「トイレ行ってから行くよ」
会計は全て紗栄子。同道のお礼と主張した。で、承諾。外に出た。歩道の手すりに寄っかかって、河野を待った。
「麻美、無事でいるかしら。何か事件に巻き込まれてないといいけれど」
「巻き込まれてるのは俺らだぞ」
「そうね」微かに笑った。「でも心配なの」
「またペンキ被るんじゃないかって?」
「ペンキは被らないけど危険は被るんじゃないかって。麻美ってほら、一番欲しいものだけを側に置くじゃない? 2番や3番じゃなくて一番欲しいものだけを。だからもしその好きになったものが危ないものだったとしたら、簡単に危機に陥ってしまいそうで」
「もうちょっと信頼してやったらどうだ? 麻美のモラルってやつを」
「ペンキをぶちまけるモラルを信じれっての?」
「OK。撤回だ」
「人生に変心はあるわ。でも人の好みはそう変わらない。好きなものはずっと好きだし、途中で好みを転向させたように見えても、それはポーズであって、当人は初心を抱き続けている。ため込んでるのね、本心を。だからそれが何かのきっかけ――抑圧から解放されたり、外圧を凌駕してしまったときとかに、急にあふれ出して、操行を一変させるのよ。で、周囲の耳目を脅かす」
「もう十分脅かしてるがな」
「でも今は日常じゃないじゃない?」
「破目を外しやすいってことか?」
首肯。「だからなのよ。あの子の秘めた欲望が暴発するんじゃないかって」
「ひ、秘めた――なんだって?」笑った。「そんな卑猥には見えんぞ! 麻美は」
「そういう可能性もあるって言ってるの」
「ま、些細な願望だと思うがな」麻美。家族で海水浴に行きながら、海にもバーベキューにも興味を示さず、黙々と砂の城を固めてるような女の子。
「杞憂なのかしら?」
「多分な」
「うん。そうよね、きっとそう」
河野が帰ってこなかった。店の入り口を見た――いた! ガラス越し、霞みがかったグラデーションの奥、遺影の無表情さでこちらを凝視していた。その行動の真意――観察か! が、一体なんのために?
目が合うと表情が戻り、扉を開けて出てきた。
「何してたんだ?」
「いや。絵になるなあと思ってさ。2人とも背がビッグで」
「そこはトールだろ」
「Oops! そうだったね」
「ちょっと。何してんのよ」紗栄子。既に歩き出していた。で、再度歩行を開始しつつ、「早く付いて来なさいよ」
「あの歳で『ちょっと男子~』だからな」
「キッツイよね」
「聞こえてんのよ!」
駐車場まで戻り、プリウスで臨海へ。開豁な公園を超えた。細流の橋を渡った。その近辺。ラブホテルのような小城が、2棟、並んで立っていた。麻美はそこに逗留しているらしい。
敷地内に進入し、車を停める。出た。ボンネットの奥、春陽を受け、凪の海峡が輝いていた。波の音が聞こえた。息を吐くような長い崩壊音が轟いた。で、残響。吸気のような砂礫を引く音。
アーチ型の入り口を通って西棟のフロントへ。白革のシングルソファーが4つ、間に大理石のテーブルがあった。窓際の台座には紅白の花束。同じく花の装飾をあしらった豊満な壺に活けられてだ。左手奥は全面採光ガラス。そこから春光が差し込み――、外観と異なり、どこからどう見ても普通のホテル。
フロントを訪ねた。ベストを着た女性と黒いジャケットを着た中年の男が対応していた。
「聞きたいんですが。302号室に堂島麻美という子は宿泊してますか?」
「申し訳ございません。お客様に関する情報はお答えかねます」女性が言った。
「あの私たち」後ろから紗栄子が顔を出した。「彼女の知り合いなんです」
「申し訳ございません」
「なんでしたら」と男。「ご自分でお確かめになってはいかがです? 私どもはそこまで関知いたしませんので」
紗栄子が見上げてきた。目が合い――小さく頷きあった。
エレベーターで3階に。出ると左に301~305、右に306~310の掲示。左に折れた。絨毯が足音を消し、静寂が小路を支配していた。部屋を3つやり過ごした。戸口に立った。302の金のプレート。呼び鈴を押した。室内でなったのが漏れてきた。が、そうだ! のぞき穴。こういうとき、住人はまず来訪者を確認しないか? で、それが俺たちだった場合――。とっさに紗栄子を突き飛ばした。自分は後退し、河野をこちらに引っ張っり寄せた。
「な――」
人指し指を唇に。それで紗栄子を黙らせた。が、小声で「後で覚悟しときなさいよ」
で、こっちからのぞき穴を窺った。誰かいる、近づいてくる――逆行で容姿は見えない――が、女性だ、形影で分かる。ドア脇で待機――まだ開かない――これは――いたずらと思って戻ったか? いや、気配があった。ロックが落ちた。ドアノブが落ち、扉がゆっくり開き始め――すかさずつま先を差し入れた。ドアヘリを掴み、強引に引き裂いた。ドアノブに引きずられた女。その視線と、上下で間近にぶつかった。
「な、なんですか、あなたたち」
白髪のパンチパーマ、たるんだ頬肉。初見の老女だ。目をパチクリさせていた。
「あ、いや、これは――すみません、間違えました」
「なんなんですか。まったく」ドアが閉まった。周囲に静寂が、再度落ちた。
「麻美ちゃんじゃなかったね」と河野。
「感じは良さそうな人だったがな」
「ストライクゾーン広すぎじゃない?」
「小生に死球なしさ」
「現代の光源氏、降臨!」
紗栄子がへたり込んだ。女座り。床に手をついていた。「うそ。麻美じゃないなんて」
「立てよ紗栄子、みっともないぞ」
「うるさい! 麻美じゃなかったのよ」
「動揺するな」
「まあでも、これで手がかりは無くなっちゃったわけだし」
顔が上がった。嚇怒の視線。河野を射た。「わ。こわい」
「落ち着けって、紗栄子。ここが麻美の牙城でなかった以上、このまま捜索を続けても無駄だ。一度東京に戻り、態勢を立て直すしかない。が、まずは事実の検証からだ。麻美からの連絡は誰が受け取った?」
「私」
「どんな形でだ?」
「ラインよ」
「画像は?」
「なかったわ。文面のみよ」
「このホテルの名前で、302号室が明記されてたか?」
「あったと思うけど――ちょっと待って」携帯を取り出した。何度かスクロールし、目を滑らし、「あったわ」
つまり虚言。欺かれたか!
「そういえばここって」と河野。「2棟あったよね」
そうか!「棟の記述は? 棟の東西はどうだ?」
「書いてない」
「麻美に電話してみろ」
数度操作。耳に押し当て「出ないわ」
「ならラインでいい。しばらく待つぞ」
ロビーに移動した。麻美からの応答を待った。で、15分。握りしめられていた紗栄子の携帯が、着信のチャイムを鳴らした。
「麻美からだわ」緊張の面持ち。携帯を操作し、件の質問、「『ごめん東棟』だって」で、嘆息。「なんなのよ、もう」
急行した。東棟の3階。エレベーターを降り、突き当りを左。構造は西棟と同じだ。廊下の絨毯が足音を消した。ジーンズの衣擦れが再現した。で、302。正面に紗栄子だ。我々は小脇で待機。目配せし、首肯し合い、呼び鈴を押した。残響。それが消え、ロックの鋼鉄の解除音が、廊下に反響した。
扉は一気に開いた。
「どうしたの、お姉ちゃん――」で、足元の俺たちに気付き「高槻さん――」が、拒絶気味に激しく視線を逸らされた。
「どうしたのじゃないわよ、麻美!」両肩を挟んだ。
が、それに構わず中へ。灰色のカーペット、手前にユニットバスがあり、奥に狭小の居住スペース。備え付けの長机の上、A4用紙が散乱していた。あれは――。
「ちょっ!」猛然と突進してきた。背中にタックルされた。で、そのまま走り過ぎ、机上の用紙を収集し始め、「あっち向いててください!」
この動転の仕様、A4の用紙――漫画か!
が、目は背けなかった。始終を見ていた。「日記か?」肩が微動した。手が止まった。背が丸くなり、震え出した。
「挿絵入りの日記なんて、随分手が込んでるなあ!」
「高槻」と河野。「そのくらいにしといてあげなよ」
「どうして家出したの?」と紗栄子。両腕を広げ、ゆっくり近づいてきた。「そんなにお姉ちゃんが嫌い?」
「行先を告げる家出なんて家出にならんだろ」
「あんたは黙ってて」
向き直った。「心配したのよ、麻美。夜になっても帰ってこないし、なんの連絡もしてこないし。お父さんなんて『書庫』で、本に埋もれてるんじゃないかって動転して。そんなにお姉ちゃんのやったことが許せない?」
急いで作業再開。「そういうわけじゃ――ないけど」
「じゃどうして家出したのよ! なんで函館なの?」
集め終わった。角をそろえ、丁寧に紙袋に詰め、革鞄に収納した。で、こっちに向き直った。「連絡はした」
「2日経ってからじゃない!」
が、沈黙。憮然。そっぽを向いていた。
「――言いたくないのね?」
首肯。壁に向かってだ。
「帰りましょ」
「帰らない」
「カードを止めるわ!」
視線が動いた。その瞳が、みるみる憤怒にたぎっていく。「バカっ!」
麻美の旅荷――革鞄とキャリーバッグ、ボストンバッグ1つずつだ――をトランクに詰め、空港へ。前2席は紗栄子と河野、後部は俺と麻美だ。麻美は側面に体を密着させていた。で、仏頂面。完全に自己の殻に閉じこもっていた。
こちらは窓枠に頬杖。何気ない装いだ、そう配慮したつもり。
「警戒の必要はないぞ、麻美。もっと寛いだらどうだ?」
が、無反応。でも分かる。聞いている。
「函館くんだりまで来て、何がしたかったんだ、麻美?」
無視。
「美味いもん食ったか麻美? こっちはウニ食ったぞ、ウニ。昼にな。豪儀だろ」
無視。
「紗栄子なんか夢中でがっついてたんだぞ。麻美を必死で心配しながら、豚みたいにな。なかなか器用な奴だろ?」
前から笑いと反駁。しかし、これも無視だ。
ま、良かろう。「もう会わない」と告別したのはこっちなのだ。気持ちは分かる。
車は来た道を逆行した。郊外を通り抜け、下沼公園で高速に切り替え、弧状の湾岸をなぞって走る。函館山が遥かに退いた。日が暮れ、空の茜が紫紺に移り始めた。
途中有珠山SAで休憩。21時50分のフライトだ、まだ余裕はある。
駐車場に停車、車外に出た。前輪側の2人も。が、後輪側、その左の方。こめかみを、ドアに張り付かせたままだ。
「麻美、出ないの?」無反応。
「行くぞ。ほっとけ!」
「――ええ」その間も不動だ。
施設まで歩く。隣を紗栄子が添った。四囲閑散としていた。
「高槻――」後ろを歩く河野だ。いつの間にか2、3歩遅れを取っていた。「あれ――」背後を凝視。なんだ?
視線を辿った。トランクが開いてた。で、蛍のような明かり、そこから両手にバッグを抱えた暗影が、鈍重に走り去ろうとしていた。あれは――。
「麻美!」紗栄子が駆け出した。そうだ麻美だ、あれ。
走った。麻美がこっちに気付き――、2、3歩進んで、荷を捨てた。が、鈍足。すぐ追い付いた。手の届く位置まで来て、ジーンズのウエストを堅確に掴んだ。完全に制止。で、すかさず両脇に手を回し、後頭部でロックした。
「おいおい、ちょっとお痛が過ぎるんじゃないか、ん、麻美よう?」走らされ、頭に来ていた。
「離して! 離して下さい!」暴れ出した。たまらず着地を許し、しかし羽交い絞めはまだだ。が、自由を求める足が、脛を打った。もう一度。また一度だ。思わず眉間が動いた。
腕を解いた。突き飛ばすように蹴りだした。背中。振り向き、意外な顔で呆ける女の腰骨に、さらに素早く一蹴を加えた。尻餅。陸に上がった人魚の姿勢になった。
「行けよ麻美」息を継ぎながら言った。「行け。安心しろ、もう止めはしない」
2人が追い付いてきた。紗栄子は裸足。ヒールは手だ。で、やはり息を切らせていた。
「だがな、いいか、ここは北海道だ、東京じゃない。金もない、伝手もない、土地勘もない、すぐそこは高速道路だ。ヒッチハイクでもすんのか? ああ、やってみろ、やれるもんならな。で、どこに行く? 札幌か? 千歳か? いいや、行けるとこなんてない。いいか麻美、お前の居場所は東京のあの自宅、あの居室だけなんだよ」すすり泣き出した。「分かったなら立て!」
で、紗栄子に目配せ。顎をしゃくった。介抱してやれだ、意は。
転進、車の方に歩いた。途中、放棄されたバッグを拾い、車に着いた。で、トランクにそれを詰めてると、河野が後ろから話し掛けてきた。
「ちょっとやり過ぎなんじゃないの?」
「同意せざるを得んな」
「謝っといた方がいいと思うけど」
「だな」
2人が戻ってきた。麻美には謝罪。が、もちろん無視だ。そっぽを向いていた。紗栄子が麻美の肩に触れて催促し――それでようやく顎が降下。が、目は明後日に向けられたままだ。まあ落着だ。紗栄子と視線で確認を取った。河野はポケットに手を突っ込み、こちらから1歩半の位置で経緯を眺めていた。
車に乗り込み、ほぼ無言のまま新千歳へ。8時半に着いた。レンタカーを返し、空港でチケットを引き換え、9時30分のフライトの搭乗手続きを済ませた。で、搭乗。機内でも麻美は内向一偏で、誰とも目を合わせなかった、1度も。
東京に着いた。荷を受け取り、11時半。羽田で11時半だ。
「あれ? 河野クン終電は?」
「ないよ」
「え、じゃあ今夜はどうするつもりだったの?」
「終夜銭湯か、中野坂上からタクシーでと思ってたけど」
「駄目よ! そんなの」で、腕組み。一考のポーズ。「私がタクシーで送るわ」
「えぇ。悪いよ」
「本音じゃ嫌ってときの常套句だな」
「あんたは黙ってて」で、河野に向き直り、「じゃあ私の家に来て。それなら誰も損しないし」
「妙案だ」河野を見た。「そうしろよ」
「うーん、なら高槻も一緒に来てよ。それなら行く」
「な」視線が集中した。「いや、行かんぞ。メリットがない」
「あるわ」
「なんだ?」
「とっておきのワインよ! 9万するわ!」
9――。さすがだ、この潔さ。「いいだろう。まだ旅を続けようじゃないか」
電車に乗って成城学園前。深閑としていた。麻美のキャリーケースが地響きを立てた。後は俺の靴音、紗栄子のヒール音。時折通過する家屋、そのどれもが瀟洒だった。で、番犬の如き外車群。少なくて2台、多くて4台だ。黒塗りか、白塗りのいずれかがあった。微かな生活音が漏れていた。中には絶叫に近い悲鳴も。食器の割れる音までした。崩壊間近か。で、その前段で食器が飛び散るんだな。
紗栄子邸に到着した。既に両端の家屋に光はなく、就寝済みの模様。正面の家にも明かりはなかった。鈍色の鉄格子の向こう、薄墨のブロック体が鎮座していた。塀は蔦が這ったコンクリート。記憶通りだ。蔦の葉が枯死している以外は。
「お母さんはカナダなの。香水の買い付け商だから」
玄関をくぐった。靴を脱ぎ、段を上がる――背後から押し退けられた。俺と河野の間、何かが通り過ぎて行った。
「ちょっと麻美!」
そのまま駆けて行った。で、階段を上る音がし、ドアの開閉音がし、錠の落ちる音がした。荷は玄関に置き去りだ。
「まったくもう」で、こっちを向き、「上がって。約束のものを振舞うわ」
紗栄子に先導され、2階へ。
「アレクサ、電気付けて」で、手元のランプが点灯した。
「おお! 音声認識!」
「まだここだけなの」
で、天井の大照明。点けると部屋が一変した。テーブルもソファーも白。毛皮のカーペットはグレーで、床はベージュ。カーペット――生前は、ホワイトタイガーとして、雪原を闊歩していたのかもしれない。
「アレクサ、ジャズピアノ掛けて」
音声があり、音楽が始まった。が、旋律が早く、非常にスイングフルだ。「アレクサ、もっと落ち着いたのにして」
音が止み、再度の音声。で、待機時間後、選曲が変化した。今度はもっとムーディーで、気怠い感じ。その間、紗栄子はキッチンで酒肴を用意していた。冷蔵庫を開閉、食器棚から豊艶なワイングラスを取り出した。
「アレクサ! テレビを点けてくれ!」が、何も起こらない。
「ごめん、テレビは未対応なの」紗栄子がテーブルに食器を置いて言った。「まだ照明とスピーカーだけね」
で、我々と垂直になる位置に腰を下ろした。「飲みましょ。シャトーラトゥールの20年ものよ」
ナイフでラベルを切除。コルクスクリューを瓶にねじ込んだ。慣れた手つきでコルクを抜き、瓶底を持って中身を注いでいく。
手を伸ばした。グラスを取った。紗栄子も。が、河野。ソファーに座り、膝の上で、手指を組んだままだ。
「どうした?」
が、俺を見た。それから紗栄子を見た。「なに?」
複雑な笑みを浮かべていた。「今日1日で確信したよ、紗栄子」
「――なに、なんのこと?」
「ずっと疑問に思っていたんだ。紗栄子は僕が好きで、僕と付き合っていたのかって」
「なんの話をしようとしてるの、ねえ?」
「いや、実感はあったんだ。紗栄子は僕を好きで、僕に、真の愛情を注いでくれてるって。目や顔がそう訴えていた。だから今まで断定を避けてたんだ。でもこのままじゃ駄目だよ、紗栄子。このままなんのアクションも起こさずに、離れていくつもりだろ?」
「止めて!」
「高槻」こっちを見た。「紗栄子は高槻が好きなんだ。もうどうしようもないくらいに」
「違うわ! 誤解よ!」
「なあ、紗栄子。僕は紗栄子が好きだよ、今であっても。それこそもうどうしようもないくらいにさ。だから幸福になってほしいんだよ、その相手が僕でなくても。高槻であっても。だから、僕は紗栄子の背中を押すよ」
で、グラスを取ると一気に飲み干した。「いいワインだ。でも高槻好みだね、僕の嗜好じゃない」
で、立ち上がった。歩き出した。テーブルを回り――このまま行けば出口だ。
「どこ行くのよ!」立ち上がった。
が、それを無視し、部屋の戸口に手を掛け「ちょっと酒を買ってくるよ。コンビニまで」
「お酒ならあるわ! ビールもウイスキーも焼酎も。ブランデーだって!」で、キッチンに走り出し、「なんだってあるのよ、ここには!」
「でも安物はない――、だろ?」
紗栄子は首を振った。脱力し、顔面蒼白、懇願の表情になっていた。
「ねえ、紗栄子。ここが正念場なんだ、ここが正念場なんだよ! 立ち向かわなくてどうする?」で、ドアを開け、「僕らの7年は実らずに終わったけど、でも、本当の意味で無意味にはしないでほしいな」そして、出ていった。
意識に音楽が戻った。グラスに口を付け、ワインを飲んだ。一度に、全部。芳醇で、濃厚で、柔らかく、それでいて渋みもはっきりしている。確かに俺好みの味だ。即、次を注ぎ足した。
「で」注水音を立てながら言った。「俺のこと好きなのか?」
沈黙。当然だ、この女なら。
「認めたくってわけか。なら別の質問だ。なぜ河野と付き合った?」
が、これも秘匿。後ろ手に椅子を掴み、キッチンテーブルに寄っかかったまま、視線はまっすぐ、虚空を睨み付けていた。
ワイングラスを回した。3回、ゆっくり。で、少量を口に含み、試味。もう2度グラスを回した。
「好きだったのよ」小声がした。かすれていた。で、苦汁を飲むような喉仏の上下、手が髪をかき上げた。
「どっちをだ? 両方か?」
「ええ」
「奇妙な話だ」
「分かってるわ。でも――そうね」また髪をかき上げた。「それこそ、もうどうしようもなかったの」
「で、罪悪感に負けて逃げたんだな。河野からも、俺からも。自分の恋愛からも」
「それもある」
「主因じゃないのか?」
間隙が挟まった。が、分かる。拒否でない、心気を整える準備の間だ。だから待った。ワインを飲んだ。ジャズに耳を傾けた。
「憧れだったのよ。本当の私は――、皆が思ってるより、強い女じゃない。臆病で、人の影に隠れていたいタイプ。なのに誰もそうは見てくれない。声や、容姿や、仕草で、勝手に判断して、私に選択を迫るのよ。私ならできるからって。私に任せれば安心だからって。勢い、私は人の前に立たされる。もう疲れたのよ。私に選択を迫らないでほしかった。判断を委ねないでほしかった。人生を奪ってほしかったの、誰かに。強い男に」
人生を奪ってほしかっただと!「で、俺か?」声が震え出した。
返事はなかった。肯定が沈黙で返ってきた。視線もだ。相変わらず正面を睨み付けていた。
「衝撃だったわ。最初は嫌悪感が強くて。でもどんどん惹かれていった。不愉快なくらいに。でも一方で、ちゃんと知覚もしていた。この人は絶対手に入らない人なんだって。なのに、河野クンはその人と親友で、永劫の友情を決めていて。ねえ、分かる? 私が河野クンと一緒になれば、どうしても手に入れたいものを、絶対に手に入らない位置から永遠に見せつけられるのよ? なぜ? 運命を呪ったわ!」
「おい紗栄子」この瀟洒な家に住み、高価なワインを存分に堪能できる地位にいて、男に運命を奪ってほしかっただと?「それマジで言ってんのか!」強者の自恣は大罪だと、あれほど強く言っておいたではないか!「この馬鹿野郎が!」テーブルを蹴った。瓶が倒れ、グラスが倒れた。瓶は卓上を転がり、回転しながら中身を吐いた。毛皮が今頃負傷したみたく、赤く染まっていった。
「どうして! どうして怒るのよ?」
「いいか紗栄子。お前のような強者の側の人間が、公利を無視して、個人の幸福を追求した結果がこの有様だ。社会の閉塞感を生み出してるのは、お前たち強者の自由主義、いや自由主義という名の利己主義なんだよ。それを――それを苦しいからって肯定するだと!」
「でも私は強い人間なんかじゃない!」
「違う。覚悟が足りないだけだ」
「覚悟?」
「生まれの宿命を背負う覚悟だ。なのに――なぜだ? それほどの器量を持ちながら――お前は!」
「どうして? どうしてそうなのよ?」
紗栄子は崩れ落ちた。泣き出した。しばらく嗚咽が続いた。ジャズが慰めるように優しく流れた。
「そうよね、あなたは自分の論理に生きる人」自嘲の口調だった。で、髪をかき上げ、涙をぬぐって立った。流し台で手拭いを濡らし始めた。水洗の音に交じって鼻をすする音が聞こえた。水が止まった。
「麻美を手放してくれたんですってね」
「別にお前のためじゃない」
「知ってる。でも、本音を言えば、あなたとうまくいってほしかった」
「無理だな」
「どうして?」布巾を持って来た。
「言ったはずだ。それが持つ者の義務だと。麻美はいい子だ。付き合えば、きっと良好な関係が築けたはずだ。が、それは俺一人の愉楽だ。俺だけの」
「だから拒否するってこと?」テーブルのズレを戻し、卓上を拭き取った。
「まあそうなるな」
「でもそれだと人の強弱なんてないように思えるわ。貧者は低劣と困窮で人生が選べず、強者は利他の義務で人生を選べない」瓶を卓上に戻した。グラスを起こし、原状を回復した。
「余計な考察はいい。俺は俺の為すべきことをやるだけだ。というか紗栄子。お前、俺の影を河野に感じるからって、河野を振ったんだろ? 麻美と俺はOKだったのか?」
「それは――。それもそうね。でも不思議と嫌じゃないのよ。あなたと麻美が一緒にいても。多分、私あの子が可愛いのよ。可愛くて可愛くて仕方がないの。だから、幸せになっても――」
「私は!」と階段から絶叫。「お姉ちゃんに幸せになってほしかった!」
麻美。声で分かったが、そっちを見て、呆然とした。
「止めなさい!」今度は紗栄子。血相を変えて立ち上がった。「下ろすのよ、それ!」
麻美が両手に抱えるように持っているもの――ボウガンだ。フルサイズの。俺を指向していた。
こっちも立った。「おいおい、どうするつもりなんだよ、それ?」当たれば最悪即死――死か!「ん?」
「お姉ちゃんと付き合ってください」
「なに馬鹿なこと言ってるの!」
「答えて下さい! 付き合うんですか?」そこで意図を滲ませるように握り込み、「付き合わないんですか?」
「聞いてたんだろ?」階段の暗がりの方、視線はそらさず、顎でしゃくった。無言が返ってきた。つまり肯定。「なら、そういうこった」
「いいから下ろしなさい!」
「お姉ちゃんは黙ってて」
紗栄子が俺の前に出た。四肢を広げ、腰を落とし――俺を庇う姿勢。
「無駄だ、紗栄子」細腰を押し退けた。もちろん、狩人を監視したままだ。「あのサイズのボウガンなら、人体の2枚くらい軽く貫通する」
「でも――」
「いいから下がってろ」
「危ないわ!」
「お前がいる方が危ないんだよ。いいからどいてろ」肩を全力で突き飛ばした。2、3歩よろめき、足が止まった。「男の領分を犯すな!」
それから急速に飛び出した。左にステップ、右にステップ。全速力でだ。狙いを定めさせず、同時に距離を殺す。外れればこちらの勝ちだ。が、どうせ撃てはしない――麻美だぞ!
そのとき部屋の扉が開いた。河野――ここで帰還か! と同時に銀の閃光。急襲した。そして圧力、激痛。
「キャア!」
思わず膝を屈した。胸――疼痛は胸骨のすぐ右当たり――血――出てない! 足元を見た。先の丸まった矢が転がっていた。
「そ、そんな――、う、撃つつもりじゃ――」得物が落ちた。ガシャっと音がし、倒立し、ひっくり返った。
麻美は振り返った。階段を駆け上り始めた。
「待――」激痛。声を張り上げようとしただけでだ。この俺に重傷だと? 男に弓引く、その意味が分かってるんだろうな、麻美!
無理に立ち上がった。全速で追いかけた。「まーてよ。麻美ィ! にーがさないぞぉ!」
後背から紗栄子の音声。が、無視だ。
階段を2段飛ばしで上った。上方、左に折れる短髪の片影。そっちか!
上階に達した。左に屈曲した。視野の中心、逃げる女の背があった。廊下の先、そこは突き当り。いや、ベランダへの出口だ。そのドアに手を掛けた。一瞬こっちと目が合った。出た。暗闇の中に姿が消え――、勝った! 完全に追い詰めたぞ、麻美!
半開きのドア、薙ぎ払って外に出た。
「来ないで! 来ないでください!」
鉄柵を背にした体勢。が、今度はそれが反転した。で、柵に手を掛け、飛び上がり――今度は一体何をする気だ? いや、これではまるで――まずい!「待て!」
華奢な左足が柵上に掛かった。で、その体がさらに上に伸びあがり、「待て! 止めろ!」鉄格子の方が前面になった。
白いうなじが見切れていった。
(7)
昨日で梅雨が明けた。傷痍も完治した。胸部第3肋軟骨の骨折。
朝7時に起きた。メッシュのライダースジャケットに袖を通し、駐輪場へ。今日は久々のソロツーリングだ。約2年ぶり。サークルの人たちは快気を祝い、計画を案出してくれた。が、断った。単にそういう気分だったのだ。
U字ロックを外し、引き抜くようにして後退。方向転換して駐輪場を出る。そこでまたがり、エンジンを掛けた。本日のコース。海だ。千葉の南端、野崎灯台に行く。
発進させた。一般道を通り、大井I.C.から首都高湾岸線に入る。で、浮島でアクアラインに乗り換えだ。対岸は既に千葉で、木更津、目的地には近傍。
あの日、救急車で搬送された麻美は、緊急手術を受けた。両足への施術。骨折だ。あと靭帯の断裂。着地点が花壇で助かった。もしそうでなかったら――と河野は言った――もっと深刻な事態になっていたはず。
俺も1週間は寝込んだが、2週間で止痛、医師の話通り、1月後にはバストバンドも取れた。で、麻美を見舞った。時季の花――向日葵――を持って。
病室の名札には堂島麻美とあり、ドアは開き戸。個室タイプだ。父親のコネと聞いた。
ノックした。のんびりした返事があった。入ると右手にトイレがあり、その先に車椅子とベッド。麻美は上半身を起こし、ゲームをしていた。
「もうちょっと待って、お姉――」こちらを認識した。「高槻さん――」素早く顔を背けた。「帰ってください」
「ご挨拶だな」
「帰ってくださいってば」
「振られたからってそんなに邪険に――」
「帰ってくださいって言ってるんです! お願いだから私を惑わさないで! お姉ちゃんを惑わさないで!」
雨天。雨滴が会話を継いだ。それから静かに「帰ってください」
「花があるんだよ」枕元に花瓶。既に向日葵が刺さっていた。「それに足していいか?」
「斎藤君から貰ったものです。駄目です」
「同じ向日葵でも?」
頷いた。つまり混交は避けたい――俺は斎藤とやらに劣後している。「――分かった」洗面台に歩み寄った。「じゃあこれはここに――」
「持って帰ってください!」
振り返った。が、こっちを見てなかった。で、掛布団を握り、体を硬直させ、顔は窓の暗雲の方。束ねた髪で、耳の裏が見えていた。
「分かった」花を胸元に戻した。で、出口まで行き、扉を閉める前に一言。「早く良くなれよ。じゃあ」
最後までこちらを見ようともしなかった。
それから2、3歩。病室から何か陶器の破砕音が聞こえてきた。「あー!」悲痛な金切り声もだ。
手元に投擲できるようなものは花瓶しかない。ということは、あれは贈り物の花瓶――いいだろう、麻美。ここで終わりだ、終わりにしてやる、俺たちの関係は。退出の途次、回転する青い蓋のごみ箱を見つけた。そこに強引に花を突っ込んだ。弔花だ。俺たちの友好への。
ウミホタルを通過し、千葉へ。連絡道から館山自動車道に乗り換え、南下。君津PAで休憩をとった。駐車スペースが広がるのみで、索漠としていた。蝉が鳴いていた。炎陽が濃い影を作った。冨津中央で高速を離脱し、下道を順行。127号線は臨海で、横手の潮騒が心地よかった。時に蒼海を眺めつつ、沿道をひた走った。
野島崎灯台に着いた。一円に定食屋が散在し、青いのぼりの店で昼食――蛸飯――を賞味した。待つこと10分。消費に5分だ。
で、灯台。入館料200円を払って入場した。展示では明治2年に建築されたとあった。当時は西暦でなく旧暦――明治巳干の表記。で、階段を上り、展望台へ。波が岩礁で砕けていた。水平線が模糊と広がっていた。海猫がしきりに羽ばたき、ペアで飛び過ぎて行った。他の入場客は連れとおしゃべり。腹の出た中年男は、夢中で望遠レンズを瞬かせていた。で、そのフラッシュよりもまばゆい海。背後には完結した安閑の町だ。手すりに肘を置いた。遠方の煌めきを目に映した。横凪の風が、時折不愉快に吹いた。
帰路に着いた。ルートは86号を通って館山へ。127号を北上し、有料道路を行く。最初は一車線。すぐにトラックが前を塞いだ。丘陵地帯で、陰暗のトンネルが連続した。側面は山だ。深緑。叢林が何か1つの生き物のように密生していた。草が空けるほどの斜光で、鮮やかに発色していた。瑞々しくも逞しくもあり、それが高速に、しかも変わらず後ろに流れた。
2車線になった。右側に出た。ギアを中速に落とし、右手を一気に捻った。車列が瞬く間に後方に滑っていく。先頭に出た。チャコールグレーの緊密な路面、そこに純白の区画線が、濁ることなく清新に伸びた。前方には何もない。遮るものも、阻むものも、横を、並走するものも。
河野。
1週間前、新宿であいつに会った。西武線。その南口改札前。落ち合ってすぐ近辺の喫茶店に入った。河野がそう誘ったのだ。真昼。店内にはテンポの速いジャズが掛かり、人々が午後の憩いにくつろいでいた。老齢の婦人たちがいた。顔を近づけ合う若い男女がいた。Vネック黒Tシャツを着た男が、足を組み、片手で本を開いて読んでいた。まばゆいほどの日射の中、人々の往来が窓から見えた。
入店後、我々は中央の小テーブルに腰を下ろした。
「どうしたんだ今日は。まだ昼だぞ?」常時なら夜だ。居酒屋が開くから。
「うん。今日はお別れを言いにきたんだよ」
「お別れ?」
「聞いたんだろ? 紗栄子から。僕がなんで振られたか」
「まあな。びっくりしたぞ。まさかカニみそがワインと合うかどうかで口論してとは」
が、無反応。張り付いた微笑が、主題の継続を提起していた。「――OK、続けてくれ」
「先々週の話だよ。紗栄子と会ってさ、で、色々話して。それで寄りを戻すことにしたんだ」
「――それで?」
「ある条件を突き付けれられて。で、それを飲むことにしたんだ」
紗栄子の悲哀、それは河野によって、俺の残影を想起させられること。「つまり、それが俺との決別ってわけなんだな?」
首肯した。視線を合わせたまま、はっきりとだ。つまり、意思が確固としてるんだな。「――分かった」
「すまないね」
「いや、お前は正しい。紗栄子と結婚するんだろう? なら、家族を守るのは夫の当然の義務だ。だろ?」
「うん」
アイスコーヒーが運ばれてきた。受け取ってシロップを注ぎ、ストローを刺した。河野はその突端を口に含み、ストローが黒くなった。
「この前さ」と河野。「異質であるには同調圧力を拒み続ける必要があるって話、しただろう? そのためには非常な膂力がいるって。ほら、あのドブ味のもつ焼き屋のときにさ」
「――したな」2カ月前。あの妖怪の切り盛りする茅屋での小宴だ。
「かつては僕もできると思っていた。でも、結局拒否し続けることはできなかった。僕は紗栄子を選択してしまった」
「なに間違ったことのように言ってんだ」
「でも――」
「お前が紗栄子を支えるんだぞ!」既に決意も覚悟も為したはずだ、その裁量で。
「うん。でも――でも、結局『頑張ってくれよ高槻』って、その一言に収斂するわけか。もう行くよ。紗栄子を待たせてあるんだ」
「分かった」
我々は外に出た。空が霞むほどの日差し。通行人を避けるため、歩道の端に寄った。
「それじゃあ」手を差し出してきた。「元気で」握手――最後の。
「ああ、お前も――」
手を握ろうとした瞬間。いた。雑踏の人海の中、白い日よけ帽を被り、ブルーのスカートに白いノースリーブを着た長身の女。帽子に手を置いていた。仰ぐようにこっちを凝視してた。「紗栄子――」
河野が反応した。急いで後ろに振り返った。紗栄子が帽子を目深にずらした。肩が痙攣したように上下し始め、すぐその場にへたり込んだ。嗚咽の所作。
「紗栄子!」
河野が駆けだした。到着し、しゃがみこんで紗栄子の両肩を支える形になった。はたから見れば、それは完全に脅威と、それにおびえる男女の図。
中和の力。平均回帰の力。だが、仮に永久に反応を止めない強固な反応物があったとして、それを均一な媒介液に投入したとき、その反応物に接着する至近の媒介物たちは、一体どうなる?
俺は背を向けた。大股で歩き始めた。
「高槻!」背後から河野の声。「高槻、すまない! 絶対成功しろよ! 絶対成功しろよ、高槻!」
ああ、親友! 見ていてくれ!
バイクが呻りを上げた。眼前は遮蔽物のない無窮の道。脚下は一面の鉄紺の海だ。
加速した。さらに加速。意識が集中し、視野の尖端が刃物のように鋭くなった。その切っ先の向こう、そこには数多の欲望を飲み込み、肥大化したビルの山塊が、見るものを誘惑し、睥睨し、さらなる膨張を遂げようと、霞みに消えぬ鋼鉄の麗姿を、煌めかせている。可能性の都。あそこにはきっと、なんでもある。成功も失敗も、悲嘆も零落も、あらゆる人類的なもの、全てがだ。まだ見ぬ同志も。
俺はその韜晦の同志たちの胸に火を点け、結集し、この国を、再び繁栄の光耀に輝かすまで、全力で、走り抜けて見せる。