帝国陸海軍二式戦闘機
第二次大戦時の日本の兵器の年式は、西暦ではなく神武天皇即位を起源とする皇紀を基準としたものであり、例を上げると連合軍からゼロと呼ばれた零式艦上戦闘機は、皇紀2600年採用の兵器であることを意味する。
そうなると、二式戦闘機は皇紀2602年、昭和で言えば17年採用の戦闘機であることを意味するが、実はこの年から海軍は採用兵器を年式ではなく、「雷電」や「彗星」のように、一定の基準による名称に変更している。また陸軍の場合は、二式単座戦闘機、二式複座戦闘機というように、年式に加えてカテゴリーで区別しており、二式戦闘機は厳密には存在しない。
しかしながら、当時の陸海軍の公文書にもこの二式戦闘機の名前は登場し、ちゃんと購入契約書でも使われている。ところが、先に述べたように厳密にはこの二式戦闘機と言う戦闘機は存在しない。
では二式戦闘機とは何ぞや?という話になるが、事実は以下のようなものである。
1941年6月の独ソ開戦前、日本の陸海軍ではそれを全く予期せず(というより意図的にその情報を無視したとも言われる)、ヨーロッパへの連絡路はしばらく維持されるとして、技術取得や交流目的で独伊に対して陸海軍軍人を派遣していた。
この中には、陸海軍の航空機搭乗員20名あまりも含まれていた。彼らは輸入が難しくなった欧州の航空機を、実際に現地で視察あるいは操縦し、その性能を把握。本国に情報を送ることを、使命としていた。
彼らがシベリア鉄道経由でドイツ入りしたのは1941年4月のことで、以後独伊をはじめ、フランスやフィンランド、ルーマニアと言った枢軸同盟国や、スペインやトルコとなど、中立国各国の軍を視察した。もちろん、機会があれば航空機の試乗や操縦の体験も行った。
しかしながら、前述したように6月に独ソが開戦するとシベリア鉄道経由での帰国が実質上不可能となった。そして、12月の日本の対米英開戦により、海路での帰国も不可能となった。
日米開戦時点で、ヨーロッパ派遣の搭乗員はその後増派された人間も含めて、陸海軍合わせて約30名で、これに航空機メーカーの技師や、整備兵などが加わり100名近い所帯となっていた。
この100名は日米開戦後、本国への帰国が困難になったことと、日本が対英開戦もしたために、潜水艦や封鎖突破船による帰国の順がくるまで、欧州において独軍と戦うことを決した。
この義勇部隊には、さらに在欧州日本人から人間が募られ、パイロット以外の整備兵や主計兵なども加えると最終的に200名程の規模になった。
ドイツ政府はこの部隊にドイツ防空戦闘への協力を依頼した。宣伝省はこのちっぽけな部隊を「三国同盟の輝かしい成果」として喧伝した。
しかしながら、人間こそなんとか集まったが本国から遠く離れた彼らには機材がなかった。そして同盟国である独伊にしても、ソ連やアメリカと言った大国と戦っている以上、譲渡する機体の余裕などなかった。
そこで、ドイツ側はこの義勇部隊に二線級の機体を提供することにした。厳密に言えば、占領国で捕獲した機体や、同盟国の機体であるが性能的には二流の機体、実験的に生産された機体などだ。
例を上げると、フランス製のMS406戦闘機やDO520戦闘機、ルーマニア製のIAR80戦闘機、アメリカ製のP36戦闘機、ドイツ製で競作に敗れたHe112戦闘機等であった。
これらの機体は少ないと3機程度、多くても15機程度の数が義勇部隊に供給された。
雑多な機体が集められて供与されたわけだが、実際には格安とはいえ有償という形が取られた。有償となったのは、ドイツへの配慮であったと言われている。そのため、書類上は購入となったわけだが、機種の数がとにかく多い。1機種ごとに記入していては、煩雑になる。部品にまで広げればさらに書類仕事が煩雑になる。
そこで機体価格が一律であったため、陸海軍はこれら雑多な機体を一括して「二式戦闘機」として括り、部品についても二式戦闘機関係部品と言う形にした。
つまり、二式戦闘機とは単一機種の戦闘機をさすのではなく、雑多な寄せ集め機体を一括りにした、言わば便宜上の呼び名であった。しかし、これが公式記録として残されたため、帝国陸海軍二式戦闘機の正体は何とも言えないものになってしまった。
とはいえ、呼び名が何であろうが公式記録にどう書かれていようが、前線の兵士たちはあるもので戦うしかない。慣熟飛行も終えた1942年6月から、日本人義勇部隊による戦闘がはじまった。彼らはドイツ北部の基地を拠点として、ドイツ本土防空戦に参加した。
旧式機や2線級機の寄せ集めであったが、この頃はドイツ空襲に向かう爆撃機にまだ護衛戦闘機が十分についていない時期であり、使い方次第ではこれらの機体でも使いようはあった。
無線機を搭載した義勇部隊の戦闘機隊は、その性能などから専らドイツ空軍の戦闘機隊が迎撃した後の敵爆撃機を襲撃した。ハイエナのような戦い方であったが、性能的に劣る機体にはおあつらえ向きの戦法だった。
こうした状況であるから、撃墜数はそれほど伸びなかった。ただしプロパガンダ部隊としては絶好の材料であったため、この時期のドイツのニュース映画や雑誌に大きく取り上げられている。
この結果日の丸をつけたドイツ、フランス、ルーマニア製の機体が日本人パイロットによって操縦される姿が、現在まで数多く残された。
なお42年も末期になるが、イタリアも同盟国としてMC202戦闘機8機を、わざわざイタリアからはるばるドイツへ運び込み、提供している。
そんな華々しい印象とは逆で、部隊の運用は苦難の連続であった。前述した機体の性能もさることながら、雑多な機体の集合は整備面や補給面でも不都合が多く、整備や主計の人間の苦労も多かった。
そのためか、1943年に入ると機種の統一が求められるようになり、最終的にドイツ政府と交渉の末、ドイツ製のFw190戦闘機が供与されることとなった。
このドイツ製戦闘機の供与開始の結果、それまで運用されていた雑多な二式戦闘機は急速に淘汰されてしまい、1943年3月頃にはわずかな機体が訓練或いは連絡用に残されるだけとなった。
その後の義勇戦闘隊はドイツ敗戦のその日まで、ドイツ製のFw190各タイプやMe109戦闘機などを運用し、捕獲戦闘機などが運用されることはなかった。
二式戦闘機が運用された期間は短く、また性能面で新型機に大きく劣り、雑多で運用に難があったことからパイロットや整備兵の評価もあまりよろしくない。
ところが、この二式戦闘機。皮肉なことに戦後、多くのミリタリーファンや航空ファン、さらには航空機模型のモデラ―らによって大きく取り上げられることとなる。原因は、数多く残された写真や映像のせいであった。
この二式戦闘機時代の義勇部隊は、ドイツのプロパガンダ戦略に伴い数多くの写真やフィルムに収められ、その中には当時日本にはほとんどなかったカラーフィルムで撮影されたものまであった。
そのため、機体の塗装だけでなく細かい汚れや機体番号まで読み取れるものもあり、ファンたちにとっては当時の正確な姿を詳細まで追うことが出来る貴重な存在であった。特に、航空機モデラ―には絶好の題材となった。種類が違う雑多な機体と言うのも、モデラ―からすると作る楽しみが増えると言う側面があった。
外国製の機体をオリジナルのまま売っても売り上げは今一歩であるが、日の丸のデカールを付属して二式戦闘機バージョンにするだけで、売り上げが伸びる。
これに輪を掛けたのが、二式戦闘機が日本の空へと里帰りを果たしたことであった。これは実機が里帰りしたわけではなく、二式戦闘機と同機種であるMS406など、連合軍機や中立軍機ゆえに戦後も残存していた機体が、経済成長著しい日本の実業家に買い取られ、日の丸をつけて日本上空を飛行したのであった。もちろん、その飛行には義勇部隊の生き残りや、二式戦闘機を愛するファンも多く集まった。
日の丸をつけたMS406やMe109戦闘機が、一度も飛んだことのない日本の空を舞った。
この事実は、それまで戦後の極端なまでの軍事への忌諱感を多少なりと転換することに役立った。旧軍人を中心に「外国製だけでなく、国産兵器の里帰り」運動が盛んとなり、それをサポートする世論も生まれた。
フライアブルな二式戦闘機は、その後も日本製兵器の保存の立役者として、日本の空を舞い続けることとなる。
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ごっちゃな型式をまとめて一つにすると言うのは、古い鉄道車両を元ネタにしています。




