出立
「それで結局、お前さんは依頼を引き受けたという訳だ」
前金は貰いましたしね、と言うと、懐から木製の小さな箱を取り出し、カウンターの端でひしゃげている皿に乗せた。鈍色に錆びついたその皿を奥へ押しやると、からからと音を立てて窓口が開き、内から出てきたのは黄ばんだシャレコウベである。きりきりと関節を軋ませながら骨太な腕で小箱を取ると、薄暗い眼孔の奥底を仄かに赤く光らせて「さてさて」と切り出す。
「『朝煙』ひと箱とは、また随分奮発したじゃあないか。今度は何が必要なんだ?」
「貫月査をありったけ」
「カンゲツサカンゲツサ、と」
ぴしゃんと窓を閉めると、続いて壁の向こうで引き出しを出し引きする乾いた音がして、それから再び窓口を開けると、小箱を指先で弄びながら、
「これだけじゃあ足りんね」
黴臭い臭いと共に突き立てられた二本の指を睨んで、パーキングは低く舌打ちした。
「二十グラムも払えるもんか」
「馬鹿、二箱に決まってるだろ」
しばらく相対したまま黙っていたが、「ひと箱」とパーキングが口火を切ると、やにわに交渉が始まった。
香木煙草屋の主人は無類の愛煙家として悪評高く、その偏愛ぶりは並大抵のものではなかった。かつて彼にまだ名声と金と仲間と、何より肉体がちゃんとあった頃から、大陸を渡り海原を超えて種々の煙草を捜し歩き、龍をも打ち倒す武骨無頼の我流剣術は幻の煙草「青海の霞」の原料の一つである香草のために幾度も振るわれたとか、蛇のように狡猾なその頭脳で至極の一本「銀月吐息」をかけて一国の軍を相手に大立ち回りをしたとか、そういう物騒な話を本人がよく吹聴していて、住人達はその大半を適当に聞き流していたけれども、ただ一つ彼が大いに酔っぱらっていた時に漏らした「魔女との取引で手に入れた煙草を呑んだせいで皮と肉が腐り落ち、今の骨だけの姿になってしまった」という逸話だけは、何の確証もないけれど横丁の端から端まで誰もが信じていたというほどである。
交渉は十分ほど続いたが、結局パーキングから『朝煙』二箱と銀の雁首、タマナ謹製の軟膏(深緑色のどろりとした薬で、一度塗ると三週間は藻の腐ったような臭いが付いて離れない)、それから銀貨四枚をむしり取ると、上機嫌で歯を打ち鳴らし、
「それじゃあ交渉成立だ。ほら、しっかり持ってけよ」
鈍く乾いた音がしたかと思うと、カウンターの左側、煙脂のしみ込んだ柿渋色の壁の下部が開いて、節だらけの榑が転がり出た。
「そうそう、魔女の旦那さんよう」
すっかり寂しくなった懐をさすりながら、忌々し気に商品を拾い上げるパーキングに、主人はからかうような口調でそういうと、
「この後はどっかへ寄ったりするのかね」
関係ないでしょう貴方には、と不満げに応じてから、ひょいと木を担いで、
「別に。このまま家へ帰るつもりですが」
「それなら早く帰ってやるといい。新妻が待ってるんだから」
「余計なお世話です」
「まあ聞けよ。良いことを教えてやるから。実はこの頃左脚の関節がひどく痛んでだな」
「知りません。教会にでも行って治してもらえばいいじゃないですか」
「御免だね。肉のある時だって、抹香臭いところへ行くと蕁麻疹が出たんだ」
「好都合ですね。今なら発疹も何も出ないでしょうよ」
「話を逸らすんじゃないよ。いいか、こういう痛みのする時はな、大抵ひどい雨が降るんだよ」
「雨」
ぐっと気分が重くなった。寄りによって、これから本格的に気球の制作へ取り掛かるというこの時期に。「汚れるから外で作業したかったのに」
「しばらくは無理だな。諦めろ」
それから、ふっと声を落として、骸骨は独り言のようにつぶやいた。
「今度は長雨になりそうだしな」
○
屋敷の外門から庭に入ると、ぽつぽつと降りだしていた雨がいよいよ激しくなってきて、パーキングは木材を濡らさないよう抱え込むと、急ぎ足で玄関を押し開けてエントランスに飛び込んだ。
途端、床一面に広げられていた布を踏んづけて派手に転んでしまった。貫月査こそ手放さなかったものの、痛みと羞恥で立つことが出来ず、じくじくと痛む膝を抱えたまま、しばらくうずくまっていた。
「また豪快にすっ転んだもんだね」
ふらりと歩いてきたタマナは、いつもの魔女らしいローブと帽子を脱いだ、ズロースとシャツだけの簡素な恰好である。ぼさぼさの髪の毛をまとめもせずに引きづっているせいで、いたるところに埃やら紙屑やらがくっついている。
「まるでゴミ山の女王だな」
「そんだけ言えるなら平気だわな」
けらけらと笑いながら差し伸べられた手に、パーキングがわざと木材を押し付けて一人で立ち上がると、彼女の笑顔は一層悪いものになった。
「何をにやついているんだ、君は」
「別に」
尚も何か言いたそうに裾の埃を払いながらタマナを睨んでいたが、軽く咳払いをすると、
「で、気球はどこまで出来た」
「半分の半分くらい」
エントランスの中央に鎮座する編みかけのラタンを横目で見ると、彼はふんと鼻を鳴らした。「一応は真面目にやっていたみたいだな」
「そうそう、真面目にお仕事してたから疲れちゃって」
欠伸を噛み殺しながら彼女が長細い指を振ると、視界の端でせわしなく自らを編み込んでいたラタンの紐がぴしりと止まって、そのまま力なく床に落ちる。
「ちょうど旦那様も帰ってきたことだし、休憩しようと思ってたとこ」
「怠け者め。実力はあるんだから、さっさとすましちまえよ」
「疲れたからイヤ」
節くれだった貫月査をホイと宙に放ると、タマナはパーキングを手を握って、
「アナタが『よく頑張ったな、偉いぞ』って褒めてくれたら頑張れるんだけどなあ」
「冗談じゃない!」
中空でひとりでに組み上がってゆく貫月査を睨んでから、素早く手を振りほどく。
「じゃあ大負けに負けて『愛してるよ』でもいいから」
「そんな心にもないセリフが言えるか!」
あっという間にゴンドラの型へと姿を変えた木材が、床に広げた布の中央にゆっくりと降りてくる。
「分かったよ。どうせ行ったって聞きやしないんだ。昼飯にしようじゃないか」
○
カルナボーンは、三度気球の周りをぐるっと回って、ちょっと近付いてから、また逆方向に五周すると、それからゆっくりとこちらへ振り返って、
「正直、期待以上のものです」
ご冗談を、と喉まで出かかったのを、吝嗇家の意地で無理矢理に飲み込むと、こわばった笑顔で「そうでしょうとも」とだけ口にした。この出来では、殴られてもおかしくはないというほどの覚悟を決めていたのである。
エントランスのど真ん中で萎れている気球は、お世辞にも「期待以上のもの」には見えなかった。なるほどゴンドラはしっかりと編んであるし、底の皮もぴっちりと張ってある。とても頑丈に作ってあるのである。だからこそ、ひどく不格好に見えた。凡そ空を飛ぶようには見えない。くたびれたしっぽのように垂れ下がったドス緑の球皮は、必要以上に重力を重く受け止めているような気がした。
カルナボーンは、ただじっとその寄る辺ない船体を見つめていた。何も言わなかった。元々無口な方だったが、しかしその日は一段と寡黙であった。
「どのくらい、飛びますか」
残りの金を支払いながら、彼がぽつりとそういうと、受け取るパーキングの横で魔女は事もなげに笑った。
「月の裏側まで」
山猫はそれ以上何も言わなかったし、二人もまた何を言うつもりもなかった。パーキングの方はさっさと商談を終わらせるのに必死であったし、タマナの脳裏には早くも別のたくらみが育ち始めていたのである。
出発は、特に見るべきところもなく行われた。庭に出た魔女が、あらかじめ紐で作っておいた魔法陣の中に入ると、両手を広げて二度、三度と回った。すると彼女と魔法陣の頭上の雲だけが、すうっと融けるように消えて、そこだけぽかんとえんじ色の穴が開いたのである。夕焼け横丁は、ちょうど夕暮れ時であった。山猫は驚いたが、声を出したりはしなかった。ただ目をちょっと見開いて、それで終わりだった。パーキングも別段驚きはしなかった。これ以上に壮大で玄妙かつ不可思議で、何よりまったく意味のない大魔術を、新婚生活の間に彼は飽きるほど見てきたからである。三人の中で一番驚いていたのは、魔女本人であった。「適当にやっても、意外とどうにかなるもんだ」と口にしなかったのは、何も魔女としての矜持ではなく、単に驚きすぎて声を出すのを忘れていたためである。
それから鶏の足を三本ほど生やした気球が、自分の足で魔法陣の中央まで歩いてきて、どっかと座り込んだ。球皮の方は、引きずらないようわずかに膨れたまま、所在なさげにゴンドラの頭上で浮いていた。
いくつかの荷物と共に山猫がゴンドラへ乗り込むと、魔女は目の前で慌ただしく両手を動かし、種々の図形を宙に描いた。彼女の必死さに比例して気球はぷくぷくと膨らんで、それから何の感動もなくひょいと地面から浮かんだ。全て無言のうちに行われた。耳に入るのは、雪になり損ねた冷たい雨のささやく音と、紫の墨を流し込んだような雲の流れてゆく気配と、久しぶりの運動で疲れ切った魔女の荒い呼吸だけである。
気球は糸でも付いているかのように、上空の穴へ吸い込まれてゆく。山猫はしばらく空ばかり見ていたが、おもちゃ箱をひっくり返したような横丁の中でも、一段と凄まじい魔女夫妻の邸宅が掌に収まるくらいの高さまで登ると、少しだけ身を乗り出し、二人に向かって手を振った。たぶんもう見られないだろうと思ったからである。
不思議なことに、地上の二人もまったく同じタイミングで手を振っていた。パーキングはそれなりの笑顔で手を振っていたが、単に彼は気球を見送る時の礼儀作法と言うものが見当もつかず、いつ手を振ればいいのか悩んでいたところへ、隣に立つ妻が元気よく両手を振りだしたので、慌てて彼女の真似をしただけである。魔女の方は、もう少し深刻な理由で手を振っていた。というのも、横で不安げに気球を見上げる夫を、さて次はどんな手でからかってやろうかと姦計を巡らせていたところで、目の端に映った気球が予定していた航路からズレだしていたことに気付き、あわてて術式を施していたのである。
三者三様の思いを不安定に受け止めながら、気球はどうやら無事に穴の中へと吸い込まれていった。ほっとしてタマナが手を下すと、せき止められていた雲がどろりと穴に流れ込み始め、ふと目を離した隙に、空はもう一面の灰紫に染まっていた。その紫色も、着々と夜の藍色に侵略されつつあり、その証拠に、雨はゆっくりと細雪に変わりつつあった。
ぶしょ、と色気のないくしゃみを一つすると、魔女は鼻を垂らしながらパーキングに寄りかかった。
「わあ、汚いなあ! さっさと拭いてくれよ」
「寒いんだもの。くっつくと暖かいでしょう?」
「気色の悪いことを言うな!」と吐き捨ててから、小脇に抱えていた毛布の一つを彼女の顔めがけて投げつけると、
「僕は部屋に戻るぞ。さっさとそこの魔法陣を片付けちゃえよ」
「あ、わざわざ毛布を用意してくれたんだ」
「もちろんだとも。君に風邪をひかれちゃ困るからな」
憎々し気にそう言って、ずむずむと屋敷に向かって歩き出す。「君が万全の状態でないと、依頼を断らなくちゃならないじゃないか」
「そうだねえ。それは困るよねえ」
彼女は紐の一端を握ると、何事かを囁いてからぴんと引っ張った。蛇のように手元へ集まる紐を束ねながら、鍋の前で見せたあの笑顔をパーキングに向けて、
「ありがとね」
「君には皮肉も通じないのか!」
「だってそれ、皮肉にもなにもなってないじゃない」
それ以上言い返す気も起きず、パーキングは重く湿ったドアを押し開け、肩を怒らせながら自室へと戻って行った。タマナは相変わらず笑顔を浮かべたままだったが、再び派手なくしゃみを何連発かすると、魔法陣をすっかり片してから、続いてパーキングの部屋へ帰っていた。
それからすぐに廊下へ追い出された。




