諦めたふりの溜息
(お題使用)
「ふたばさん。そろそろ煙草やめたらどうですか」
やわらかい口調で、大好きな煙草をやめろと注意する男の名を栴(せん)という。
お節介な物言いに自然と眉間に皺が入った。
「うるさいよ」
咥えていた煙草を唇から離して、ふうと栴の顔めがけて紫煙を吐き出してやった。その仕草に男は困ったような眼差しを向けてくる。
「あたしの勝手だろ」
「またそういう」
「好きなもの吸ってなにが悪い。あんたには迷惑かけてない」
こう言えば、栴がなにも言い返してこないのはすでに何度も経験済みだ。それなのに幾度も繰り返される光景。あからさまに嫌な顔を作ってやった。
好物は酒と煙草、趣味は男あさり。
自分でいうのもなんだが堕ちたとこまで堕ちたな、とたとえるにふさわしいふたばに何故か近づいてきたのは見るからにひ弱そうな優男、栴だった。三度の飯より煙草が好き、咥えてないとなんだかもの寂しいと感じるほどヘビースモーカーのふたばへ向かって禁煙を促す面倒な男だ。
正直、うっとうしい。好きで吸っているのに禁煙を勧められるのは腹が立つのだ。
だからふたばはそのたびに言い返す。
『うるさいよ。あたしの勝手だろ』
それに対し、小さく溜息をつくのがこの男のパターンである。
いつだって強くは言ってこない。理由は単純明快で、ふたばの方が栴より年上だからだ。年功序列というものを理解してるらしく、この男はたったいくつかの歳の差で上回っているふたばを敬う。
(それにしても、こら)
ふたばが柄にもなく切々と思い出してる間に栴の手は手際よく動いていた。
「灰皿片づけんな。吸えないだろ」
「だから片づけるんですよ」
言うが如く、口元の煙草をするりと抜き取られふたばは軽く狼狽する。
「あ……おいっ」
「ちなみに、箱とライターも没収済みです」
取り上げた一本を灰皿に押しつけながら悪気もなく告げる男にふたばは眉をしかめた。
「は? ちょっと待て」
慌てて確認したが確かに机の上にあったはずのそれらがない。ひとり考えごとをしている隙を狙ってか、はたまた灰皿を手に持ったときにはすでに取り上げられていたのか。
穏やかな顔をしてこの男は大胆に動くのだ。
「返せ」
苛立ちを隠そうともせず手を差し出すと、少し笑った男が手のひらを重ねてこようとしたので躊躇なく振り払う。誰も手を繋ごうとして差し出したわけじゃない。分かっていてかわすのだからたちが悪いのだ。
「煙草とライター、どこにやった」
一通り見渡すもすぐ目につくところにはなかった。隠されたのかあるいは捨てられたのか。後者だったらぶん殴る、と少々暴力的なことを脳裏にちらつかせながら。
「さあ。どこでしょう」
だが栴は一向に答えようとせずはぐらかした。灰皿を片づけにふたばへ背を向けシンクへと向かう。
「……ったく」
これ以上なにを言っても無駄だろう。
早々に諦め、買い置きしていた分を戸棚から取り出すことにする。栴は礼儀というものが身についた男なので勝手に家の中をいじることはしない。だから目的のものは無事にそこにあった。
思わず頬に笑みが浮かぶ。
一箱手に取り早速封を開けたところ、しかしシンクから戻ってきた男にあっさりと奪い取られてしまった。
「ちょっと……!」
「なに勝手に吸おうとしてるんですか。駄目ですよ」
やわらかな声音でたしなめたと思えば、箱は栴の手の中でくしゃりとつぶされた。
「身体に毒です、こんなの」
「毒だろうがなんだろうがあたしが好きで吸ってんの」
ふたばの声がにわかに低くなる。いい加減、我慢ができなくなってきたようだ。
「それにあたしがどうなろうがあんたに関係ないだろ。なんでそうお節介やくわけ」
誰も頼んでないし、と付け加えると二人の間に沈黙が落ちる。
悪いことを口にしたわけじゃない。なにも間違いは言ってないはずだ。それなのに黙ってしまわれるとなんだかこちらが悪者になった気がするから居心地が悪くて仕方がない。
ごまかすようにそっぽを向いた。
「……別に、ガキを生むわけじゃないし」
「は? なにを言ってるんですか」
投げやりで吐き捨てた台詞にそれまで身動きすらしなかった栴がすかさず反応する。僅かに驚きがふたばを支配した。
「女性は子どもを生む特権を持ってるんですよ」
「特権って……」
思わず閉口した。だがあながち間違いじゃない話である。子どもを生むことができるのは女だけだ。この先医学がどう進歩しようとも、生命の誕生のプロセスを変えることはできないだろう。
「煙草の煙なんて身体に毒です。ふたばさんも知ってるでしょう」
「知ってるけど、別に今ガキが腹に居るわけでもないし、そもそも予定もないし」
「予定ならあるじゃないですか」
聞き捨てならないその言葉につられるように顔を上げる。次の瞬間、ふたばの表情は歪んだ。
「僕と」
優しい面立ちでしゃあしゃあとのたまう栴に、呆れを通り越して憎らしささえ生まれてもふたばに責任はないはずだ。
そもそもふたばと栴の関係はいわゆる世間一般の恋人同士ではない。そんな甘さはどこにも存在しない。ただお節介な栴がふたばにあれやこれやと口出しをする間柄だ。
これはあくまでふたば側の見解だが、どうやら栴にとっては違ったらしい。
「なんであんたと」
できる限りの悪態をついても男の目は変わらない。いつものお節介な優男のままだ。
「僕の子どもを生んでください」
真面目な顔をして栴はふたばを見据える。
逸らされる様子がうかがえない視線はいつになく真剣で、まるでプロポーズでもされたような錯覚に陥りそうだと、ふたばはありえないことを思った。いや、本当にありえない。冗談でも頭が痛い。
とりあえず一服しようとして、今さっき没収されたのを思い出す。舌打ちして、再び栴を見やった。
「……冗談言うな」
ふざけるな、と強く射るように睨めば、栴は眉を僅かに下げて微笑んだ。
「ばれました?」
ああ、どうやら冗談だったらしい。ほっとしつつ、けれどどこかで引っかかるものを感じた。苦さの中に甘さを含んだ言葉にできない感情だ。気のせいだと首を振って栴へ視線を戻して後悔した。
栴の双眸をまともに受けてしまって。
「でも……」
栴が自分の手を包んだのだと理解したのは、ぬくもりが伝わってきたから。意外と体温の低い栴の手は、触れてすぐに熱を伴うのだと。知らなくていいことばかり思い出すような気がする。
「半分は本気です」
つい舌打ちした。この男のこういうところが苦手だとつくづく感じる。濁った自分の中に綺麗で汚れのない栴が入り込んでくる。添えられた手、強く握られているわけではないのに何故かそうされているように思えてしまう。
錯覚だと笑い飛ばせられたらどれだけ楽だったろう。だけどもう、無理な話だ。
見てしまった。見抜いてしまった。男が向ける瞳の奥に、隠すように、けれど隠すことなどできやしない甘さと苦しさを灯したほの暗い炎。情欲に濡れた壮絶な色気を放つ、一瞬見せた雄としての本能。
あの刹那、のまれたのだと悟ったときはもう遅い。ずぶずぶと足元から沈んでいく感覚は、頭を振っただけじゃそう簡単に消えるものではない。
ふたばは身のうちから起こる震えを悟られないようにそっと手を引いた。
「……物好きだな」
視線を落とし、栴がくしゃりと握りつぶした箱を拾い上げる。そこから折れ曲がった煙草を一本取り出そうとしたが、またも男の手に阻止された。
「物好きじゃないですよ」
栴の男のくせにあまり節の目立たない細い指が顎に添えられ上向かせられた。必然的に栴と目が合う。
「口寂しいのならこれでもどうぞ」
視線が外されない状態で唇に軽く押し当てられたのはなにやら固形物らしい。上唇にノックするように触れられ、どうやら口を開けということかと理解した。
言うとおりに動くのは癪だが珍しくこのときは口を開いてみる。するとじんわりと拡がった独特の甘みに眉間に皺が寄った。
「……甘い」
放り込まれたのはチョコレートだったようだ。しかも中にフリーズドライされたいちごが入っている。
ふたばが甘いものを苦手だと知っててわざと食べさせたらしい。素直に従って損をしたと渋い表情を見せたふたばに気づいて栴が首を傾げる。
「それじゃあ満足しません?」
「……煙草がいい」
むくれ顔でぼやくと、ふっと短い呼気が肌を撫でた。栴が笑っている。だけどそれは決して馬鹿にした笑いではないから、この男を嫌いにはなれない。
それでも自然と眉をしかめるふたばの顔にふと影が差し、目の前が暗くなった。視線を上げると男の顔がすぐ傍にあって、あ、と思う間もなく唇を塞がれたのは一瞬のこと。掠め取るように重なった熱はすぐに離された。
「……満足できましたか」
どうやらこの男に奪われたらしい唇に指を這わせたのは無論、無意識故の行動だ。
ふたばの頭上から、笑いを帯びた声が聞こえる。
「……さあね」
先程の笑みは嫌なものではなかったが、今回は別だ。意趣返しとばかりに答えをはぐらかしてやると、あろうことか栴がふざけたことを提案してきた。
「もう一度試します?」
唇をなぞられ、ふたばは突っぱねる。
「要らん!」
「遠慮しなくても」
(遠慮なんてするか!)
心の中で反発する。誰が言いなりになるかと男の肩を押し退けようとして上げた手をあっさりと掴まれてしまう。
「楽しみにしてますよ。ふたばさんが僕の子どもを生んでくれると言ってくれる日を」
囁くように耳元に落とされた声は、酷く甘い。
「な……誰が……っ」
「だから『これ』、やめましょうね」
なに……と顔を上げた視界に映ったのはふたばから取り上げた煙草だった。容赦なく目の前でつぶされ、どこか遠いところから眺めている気分になる。
(ああもうなんか……)
敵わない気がしてきた。
(こいつには……こんな優男なのに、敵う見込みが見当たらないって)
自分がどれほど脆弱で愚かな存在なのか、まざまざと見せつけられた気分だ。
「……なにを間違ったんだろう」
「え? なにか言いましたか」
「……なにも」
諦めたように溜息をついて栴を見上げる。気づいた栴が淡く微笑んだ。
何度見てもふたばが好むタイプとは正反対の男だ。それなのに。
「ふたばさん」
やわらかく笑って自分の名を愛おしそうに呼ぶ男に、いつの間にか頑なな心はとかされていったのかもしれないなんて、冷静に考えれば噴き出してしまいそうな思考に侵された自分が居るのも事実だ。
毒されている。ニコチンよりも強力で抜け出すことができない底なし沼のような甘い毒に。
「なによ」
「愛してます」
「……はいはい」
けれどまだ素直になれない自分は、それを隠すため瞼を閉じることにした。
=終わり=