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ライトスタッフ

「ベーカー、いよいよ打ち上げだな、」

 このところ、少尉は会うたびに、見知らぬ相手からもそう言われて肩を抱かれたり、握手されていた。

 始めは受け答えが面倒な気分になってしまったが、しかし、その受け答えの決まり文句に慣れてくると、面倒な気分も薄らいできて余裕で微笑を浮かべて答えられるようになっていた。

「はい」と言いながら少尉は、相手の肥満した体をかろうじて包み込んでいる制服の徽章が大佐なのを見た。

「大佐、光栄です」と握手を返す。

 大佐は少しアルコールの臭いがする口を開けて笑った。

「しかし、君の肩は少し震えているような感じだぞ。ハハハッ、」

「とんでもない。大佐、これは武者震いってやつです。」

「怖くはないのか?」

 ああ、そんなこと聞かないでくれ。怖いに決まってるじゃないか、この酔っ払い将校め。

「怖くはありません、大佐。」

「しかし、敵国を含めて、まだ誰も地球の大気に飛び出した奴はおらんのだぞ。」

「必ず成功してみせます、大佐。」

「うむ。その意気だ。お前は我が国家の誇りとなるだろう。」

 大佐は今一度ベーカーを強く抱擁すると歩き去った。


「大変だな、ベーカー、あんな酒臭い将校にハグされて、」

 背中からかけられた声に、少尉は口元をほころばせて振り向いた。

「やあ、アル少尉、まったく、僕の気持ちをわかってくれるのは太陽系で君だけじゃないかと思うよ。」

 アルはベーカー少尉と共に今度の宇宙飛行士の最終候補だったが、今回はベーカーが抜擢され、アルはバックアップ要員になったのだ。

「おおげさな奴だな。」

 アルはベーカーの手を掴むと「ちょっと来いよ」と廊下を歩いて、人気のないのを確かめ、会議室に入った。


「ベーカー、これは俺が一番乗りになれなくて悔しくて言い出す訳じゃないんだ。

 だから素直に聞いてくれ、」

 アル少尉のおかしな前置きにベーカーは身構えた。

「なんだよ、アル。」

「もし、もしもだよ、打ち上げの前に、たとえば1時間前、いや、十秒前でもいい、

 嫌な予感がしたら、遠慮しないで俺に代われよ。そういう時のためにバックアップの俺がいるんだから。」

「どうしたんだよ、急に。」

「つまりだ、お前にはちゃんと元気な親がいるだろ。でも俺には親はいない。だから万が一が起きる時は俺の方が悲しむ者が少なくてすむんだ。」

「貴様。」

 ベーカーはアルの制服の襟を掴み絞った。

「そんな言い草ってあるか。

 貴様にもしものことがあったら、俺が貴様の親の分と合わせて三人分の涙を流し、それには血が混じるだろう。

 そして、俺の嗚咽は大聖堂のステンドグラスを粉々に砕く。

 俺はお前の棺桶を殴りつけ、俺の手首はその中に落ちるだろう。

 いいか、二度と馬鹿げた話をしてみろ、貴様とは絶交だ。」

「ベーカー……、」

 アル少尉は唇を噛むようにして「すまなかった」と謝ったる

「ただ、こんな時に言うのもなんだが、

 整備の奴らはずっと徹夜続きで、目の下はおろか、唇や手まで紫がかってやがるんだ、お前も見て知ってるだろう。

 しまいにゃ、ねじを鉛筆で締めようとしてやがった。あんなやつらにきちっと整備しろって言ったって無理がある。

 この宇宙計画はここへ来て急ぎすぎてる。これはみんなが気付いてることだ。」

「アル、お前の言う通りかもしれない。

 だがな、ここで手を緩めて、敵国に先を越されたらどうするんだ。」

「それはそうだが、」

「いや、正直言うと俺には敵国なんてどうでもいい。

 俺は、小さい頃からずっとずっと憧れてきた宇宙に、一刻も早く飛び出したくてうずうずしてるんだ。」

アルはベーカーの目に期待がきらめいてるのを見ると、それ以上は何も言えずに、ベーカーの肩を抱きしめた。


 ベーカーが自分の待機室のソファで横になってラジオから流れる音楽を聴いていると、ドアがノックされて警備兵が入り、敬礼した。

「ご母堂様がご面会です。」

「ありがとう、さがっていいよ。」

 警備兵と入れ替わりに、母親のオリガが入ってきた。

「まあ、まあ、私の大事なベーカー、元気だね。」

「もちろん。お母さん、来るなら来ると連絡くれれば玄関まで迎えに出たのに。」

 オリガはベーカーを抱きしめて聞く。

「明日、打ち上げなんだってね?」

「そうだよ。」

「どうしよう、私の心臓は今からドキドキが止まらないよ。」

「ハハッ、止まったら困るじゃないか。」

「大丈夫なのかい?まだ誰も行ったことのない空の向こう側に行くんだろう?」

「もちろんだよ。いよいよ宇宙に飛び出すんだよ。宇宙は殆ど真空だから、うまくしたら宇宙の果てが見えるかもしれないんだよ。

 それはもしかしたら自分の脳を顕微鏡で見たのと一緒かもしれない。お母さん、この世で最も大きなものと最も小さなものがつながっているっていうのは、バランスのとれた美しい仮説だと思うだろ?」

「まあ、まあ、お前は子供の時からそんな難しいことを言ってたねえ。」

「うん、それを確かめられるかもしれない。偉大な美しい任務だよ。」

「おお、ベーカー、私の望みはお前にきちんと帰ってきてほしいってことだよ。

 たとえ宇宙の果てが見えなくても、帰ってきてくれればいい。帰って来れないなら最初から行かないと約束してほしい。」

「わかったよ、お母さん、約束する。」

「もし約束を破ったら?」

「天使が舌を引っこ抜く、だろ。」

「お前はいい子だね。」


 そこへドアが乱暴にノックされ開き、開発チームのカール主任が入ってきた。


「や、お取り込み中ですか?」

「いえ、母の用は済みました。帰るところです。」

 母親は「じゃあ約束したよ」と言って手を握り、一回振り向いて部屋を出て行った。


「で、カール主任、どうかしたんですか?」

 ベーカーが聞くとカールは言う。

「少尉、君の安全のことだ。

 まだ宇宙飛行士の安全対策が不十分だから、僕は、打ち上げを延期しろと、ボスに掛け合ったんだ。」

「ふー、なんかさっきからやめろって話ばかり聞かされてますよ。」

「実際、今のコックピットじゃ太陽の日差しを浴び続けたら、一時間ともたないはずなんだよ。しかし、ボスときたら、パイロットの安全のことなんか考えてないんだ。計画に危険は付き物だの一点貼りなんだ。」

「大丈夫、回転させて、太陽の輻射熱の当たる面をずらしますから。」

「それをやってもせいぜい数十分延ばせるだけだよ。耐え難い暑さに脱水ショックを起こし、君は生命の危険に陥ってしまうんだぞ。」

「ありがたくない話ですね。」

「まったくだ。私はこの問題が解決するまで君を打ち上げたくない。」

「しかし、国家命令に逆らって打ち上げを止めたら国家反逆罪ですよ。」

 私が指摘すると、カールはうなだれた。

「そうなんだ。これ以上はどうにもできない。許してくれ、少尉。」

「カール主任、気にしないで下さい。私はなんとかやりとげてみせますよ。」

「私はさっき、暇つぶし用に積まれていたマトリョーシカ人形を外して、マニュアルにない器具を取り付けた。

 操縦席の右横に青いボタンがある。

 船内の汚れた空気を圧縮してボトルに貯めているんだが、それをちょっと排出するボタンだ。これを使うと船の向きが少しずつ変えられるはずだ。」

「それはいいですね、向きが悪いとずっと地球が見えないかもしれないと心配してたんですよ。これでちゃんと地球が見えますね。」

「うむ……。ボタンはもう、」

 カールは言いにくそうだった。

「もう、ひとつある。操縦席の左横にある赤いやつだ。

 もし、コックピットの熱が君の生命を圧倒すると判断したら、私がマイクで叫ぶ。

 そしたら押してくれ。すると君の腕に麻薬が注射されて楽に……。

 済まない、少尉、私にはこんなことしかできないんだ。」

 カールは悔しさをこらえてるらしく肩をひきつらせた。

「カール主任、ご配慮ありがとうございます。

 でも僕はきっと任務を成功させ、宇宙の果てを見てやります。それから、マトリョーシカ人形ですが、僕はあまり好きじゃないから気にしないで下さい。」


 発射台を見渡す管制室に軍の将校や政府の要職が座っていた。

 スピーカーから管制官のカウントダウンが響きわたる。

「9、8、7、6、5、4、3、2、1、点火、」

 エンジンが轟音を上げ、コックピットは振動ですさまじい地震にあっているようだ。

「全エンジン燃焼、高度1メートル、3メートル、9メートル、15、31、49、65、99、」

「大丈夫か、ベーカー少尉?」

「はい、大丈夫。」

 ロケットはどんどん上昇し、雲の中に消えていった。

「高度5千メートル、成層圏を突き抜け、周回軌道に入ります!」

 管制官の声に、見守っていたお偉方から歓声が、拍手がわきあがった。

 ボスが満足そうに言った。

「よくやった。これでわが国は宇宙開発競争で敵国に勝ったのだ。」

 熱狂的な拍手が沸いた。


 しかし、カール主任の関心はコックピットの温度だ。

「ベーカー少尉、温度は大丈夫か?」

「カール主任、丁度いいですよ。重力が弱いせいか、変な感じです。」

 まもなく衛星は地球の裏側の夜の領域に入るから、寒いだろうが、熱は問題ない。

 しかし、再び昼の領域に出て、熱を浴び続けたら、その時はどうなるか。

「カール主任、ここから見る宇宙は素晴らしいです。こんなに星がはっきり見えるなんて感激ですよ。」

「了解。地球は隅に見えるか?」

「うーん、見えませんね、角度がよくないようです。」

「そうか。」

「カール主任、ちょっと寒いです。」

「うむ。ベーカー少尉、君なら耐えられるよ。」

「はい、カール主任。カメラでも持ってくればよかった。」

「ああ、うっかりしてたな、申し訳ないな、ベーカー少尉。」

「いえ、いいんです、あまりに星がきれいだからアル少尉やカール主任や皆に見せてあげたかっただけです。」

「そうか、」

「アル少尉はそこにいますか?」

「いや、飛行士はここには入れない決まりだ。」

「そうでしたね。」

 カールは時計を睨んで言う。

「そろそろ昼に出るぞ。気をつけろ。」

「大丈夫、コックピットはうまい具合に回転してます。」


 モニターに映し出された室温が次第に上がり、三十五度を超えた。

「ああ、神よ、ベーカーをお守り下さい。」

 カールは時計の針を見つめて手を組んだ。

 室温は四十度に近づく。ベーカーの体温も上昇してゆく。

「大丈夫か、ベーカー。」

「なんとか。もういいですか?」

「何がだ?」

「ボスに聞いて下さい。目的のデータは取れましたか?」

「目的!?」

「最初から私を帰還させる予定はなかったんでしょ?」

「ああ、ベーカー、お前はなんてやつなんだ。」

「カール主任、貴方だけは私のことを本気で考えてくれた。感謝します。」

「しかし、助けられないんだ。」

「どうか御自分を責めないで下さい。

 私は予定された任務は果たしたようですから、後は自分の好きな方角に飛びます。」

「なんだって?」

 室温は四十五度となり、ベーカーの体温も四十度に近づいた。

「カール主任、見えました!」

「何が?」

「地球です、さっき青いボタンで方向転換したんです。

 ああ、青くて美しい、

 あまり美しくて失神しそう。

 アル少尉にも地球は青くて美しいと伝えてください、」

「わかった、ベーカー、もう無茶するな。」

「さて、これから、百八十度、回転し、宇宙の果てに、向かいます。

 後から誰がぁ追いかけようが、最初にぃ、宇宙の果てにぃ着くのは、

 わ、私、ですよねぇ?」

 室温は五十度に近づき、ベーカーの体温も四十三度に近づいた。

「ベーカー、うんうん、そうとも、お前は偉大な先駆者だ。

 もう誰もお前に追いつけないぞ。

 もういい、赤いボタンを押せ。もういいぞ。」

 カールの目から涙が流れ落ちた。

「ありがとぅ、でももう少しぃ、宇宙の果てがぁ、見たぃ、」

「少尉、もう立派に任務をやり遂げたんだ。

 もう、ボタンを押して、ゆっくり、や、休むん、あ」

 カールは声が震えて出なくなった。

「真っ黒、いや、光がぁ、見えたぁ、光が、ぐるぐる、きれい。

 お母さんに伝えてぇ、光がきれい、天使が来たょ、神様ぁ」

「おお、ベーカー、」

 カールはこらえきれずに声を上げて泣いた。その声に管制室の皆が振り返った。

 

「カール主任、どうした?」

 大佐が聞くとカールは言った。

「ベーカー少尉が、たった今、死にました。殉職です。」

 大佐はにやにやして言う。

「それより敵国に勝利できたんだぞ。もっと喜べ。」

「ベーカーが殉職したのに笑うなんて、不謹慎だ。」

「何も泣くことないだろう。」

「あなただって、打ち上げ前はベーカーの肩を抱いて誉めてたじゃありませんか?」

「ただ犬を撫でてやっただけだぞ。犬が一匹、人間の進歩の犠牲になった。それだけのことじゃな……」

「なんだとお、」

 言葉が終わらぬうちに、カール主任は大佐に殴りかかっていた。

 大佐は頬を押さえて座り込み、そばにいた下士官たちが主任を押し倒した。

 大佐が罵倒する。

「貴様っ、逮捕だ、裁判で強制収容所送りにして、永久追放してやる。」

 護衛官がカール主任に手錠をかける。

「くそくらえ、お前なんかにはわかるもんか。

 ベーカーいや、クドリャフカは地球で最初に宇宙へ飛び出し、宇宙の果てを目指した英雄だ。次にどこの人間が飛ぼうが、最初に宇宙に飛び出した宇宙飛行士はライカ犬のクドリャフカだ。この歴史はもう誰にも消せないぞ。」

 叫び続けるカール主任は外に引きずり出された。



 30年後、ソ連崩壊と共に強制収容所から解放された老人は、うわごとのようにスプートニク2号の帰還について語ったという。


「スプートニクはうまくすると、地球の上空にある宇宙ステーションの真近に現れるかもしれません。いえ、彼女がまだ生きてるなどと言うつもりはないのです。

 しかし、死んでいるとしても、彼女が示した勇気、果たした功績はもっと賞賛されなければ、ならんのですよ、絶対に。」


 老人は、今も、夜空を見上げては小さな船の光を探しているという。  《了》



 注 「ライトスタッフ」とは「正しい資質」、トム・ウルフの同名小説、そして同名映画で、宇宙飛行士としての正しい資質の意で使われました。



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― 新着の感想 ―
[一言] あらすじを読んで、全くの創作の物語かと思えば、ライカ犬の話でしたか。 いわゆる人物誤認のトリックもよく出来ていたと思います。 個人的に好きな題材でした。
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