新年拝:1.王
【語句説明1】
※読むのが面倒くさいと思われる方は、すぐ本文へ。
『イディン』
この物語の世界の名。
『イディン法』
世界を支配するイディンの大地に宿る意志の、教えと戒めが書かれた法典。人々は、これに従って生を営んでる。法を逸脱する者は、大きな呪いを発し、また受ける者となる。
『祈祷師』
呪いに陥らないよう人々を教え導き、大地に滞った呪いを解き、イディンからの祝福を伝える者。イディン法に書かれた教えと戒めとによって、これらは為される。階級には、一級、準一級、二級、三級があるが、その中でも役職によって細かな差異がある。
「陛下のお熱が下がらん!」
大つごもりの朝遅く、初老の執事長が血相を変えて給仕長執務室へ飛び込んできた。
「姫のおたふく風邪が感染ったようだ!」
給仕長代行のラウィーザは、驚いて立ち上がった。
「姫との接触は避けていたのではないのですか?」
「それが、我々が目を離した隙に姫の部屋へいらしたようで……」
上の姫が隣国へ行き、下の姫とは面会謝絶となって、子煩悩の国王はこの所、毎日が非常に寂しかった。そこへ注文していた下の姫の帽子が出来上がり、どうしても早く娘の喜ぶ顔が見たいと、家来の目を盗んで病床に忍び込んだのである。王宮では、国王だけがおたふく風邪に罹患していなかった。
浅黒い異国の顔立ちの青年は、心内で舌打ちしたものの、落ち着きを払って言った。
「では、新年拝は王弟陛下にお願いするしかありません。お知らせ願えますか?」
「ああ……ああ、そうだったな。王弟陛下がいらっしゃるのだった」
執事長は些かほっとして頷き、扉へ向かった。が、取っ手に手がかかる寸前、それが勢い良く開き、エリダナ・チェローミア姫の甲高い声が響いた。
「ラウィーザ! ラウィーザ! 雪です! 雪が積もりました! ラウィーザも見なさい!」
父王が寝込んだのと入れ違いに、この朝完全に寝台から解放された姫だった。ウサギの耳の付いた白い毛皮帽子を被ったその後ろから、隻眼の警備隊長ヴァーリックが、金盥に乗せた一抱えほどの雪人形を持って入ってくる。本来の強面が喜々としているのを見、給仕長代行は呆れて口を半開きにさせた。そんな彼を、姫の妖精のような瞳が興奮して見上げる。
「そら、お前は南の国の人間だから、雪が珍しいでしょう!」
青年は片眉を上げ、軽く首を振った。
「姫君、私はラスタバンに来て十年以上になりますので、雪はもう珍しくないのです」そして、盥を抱えている警護隊長に非難の眼差しを向ける。「ヴァーリック隊長。警護隊は新年拝会場の雪掻きを行っているはずだが?」
「ええまあ、すっかり天気も晴れたので、そこは順調に進んでます。昼過ぎまでには、予定の広さは確保できるでしょう」警護隊長は呑気な笑顔で応え、盥を上げた。「……で、これをどこに置きますかね?」
そんなものは持ってくるなと言いかけ、ラウィーザは気落ちしている少女に気付いた。小さく咳払いをし、腕を伸ばして雪景色を映している窓辺を示す。それで姫の表情はいくらか持ち直して、帽子のウサギ耳を引っ張った。
「この帽子はお父様から頂いたのです」
「よくお似合でございます」
この耳付き帽のせいで国王はおたふく風邪になったのかと思いながら、青年はにこやかに頷いた。と、姫が言葉を継ぐ。
「そうだ、ラウィーザ。コダネってなんですか?」男達の体が硬直する。「雪掻きをしていた兵士が言っていました。お父様のコダネが無くなるかもしれないって……それは、無くなると困るのですか?」
窓際に雪人形を置いたヴァーリックは、弾かれたように立ち上がった。急いで姫を抱き抱え、では、と叫んで扉に向かい、腕の中で姫が叫ぶ。
「あ! ヴァーリック! 何をするのです!?」
青年は固い笑みのまま、二人を見送った。
姫の教育は現在給仕長の仕事だが、給仕長代行の職務外と自身の内に確認をする。ただ引き継ぎに当たり、給仕長から受けた注意を思い出した。
――姫には十分気を付けるように。
確かに彼女の周囲は、教育上よろしくないとは思えるものの、給仕長の言葉の真意は測りかねている。振り返った先の窓辺の雪人形には、木の実と小枝で目鼻と口が付いていた。
それから一刻も経たないうちに、再び執事長が飛び込んできた。
「王弟陛下が姫の作った落とし穴に落ちて、足を骨折なさった!」
給仕頭のセヴェリと夕食の打ち合わせをしていたラウィーザは、驚愕に目を見開いた。
「落とし穴……? 姫君の……?」
あ、と金髪の給仕頭が声を上げる。
「それはきっと、姫君が夏に作ったものです。とても上手に出来たので、埋めてはならないと……」
「いや、そうは言っても危ないだろう!」
事実王弟が転落した。だが給仕頭は首を振った。
「いえ、埋めてはならないと書かれた看板を側に立てられて。これで嵌ればラスタバン一の間抜けが分かるから、放っておくようにと給仕長が……ええ」
この看板が雪の重みで倒れた。そこへやって来たのが、中庭を散策中の王弟である。新年拝で唱える祝詞のおさらいをしていたのだが、直に真新しい雪上に足跡を付けることに夢中になり、落とし穴の場所を失念したのだ。
これでラスタバン一の間抜けが分かった訳だが、今日に限り、それだけでは済まない。
「ど、どうしたものだろう……ラウィーザ」
執事長が主人に縋る犬のような目を向けたので、給仕長代行は内心溜息をついた。本来そういうことに対処するのが執事長の仕事である。しかしここ数年、内務は給仕長に任せ切りの状態が続いており、彼の隙のない指示に従うことに慣れ切っていた。
「新年拝での王族は三親等内の血族と決められていますが、今成人の方は他にいらっしゃいません。この際仕方ありませんから、王宮付の祈祷師を代役とするしかないでしょう」
新年拝の台上に上る祈祷師は竜法院から招いているので、王宮付の二名の祈祷師達は丸々身が空いている。給仕長代行の言葉に、執事長は諦めたように頷いた。
「……そうだな。間もなく竜法院から祈祷師がおいでなさるから、そのことを伝えておこう」
「お願いします」
執事長が退出してラウィーザは眉を寄せた。新年拝で一人が欠け、祈祷師が代役を務めることはよくあることだった。だが、例年になく町の者の出席が多いと見込まれる今回だけは、できれば三人共揃ってほしかったのが本音である。
とにかく祈祷師は三人いるのだからと思いかけ、ラウィーザは強く首を振った。それは考えたくもない程に、ギリギリの場合である。
だが、と懸念はあった。
今この時、新年拝のために手配している竜騎士が、王都ティムリアにいないのである。秋口から長旅に出、年末までに戻るはずであったが、十日ほど前に隣国を発ったと連絡が来たきり、今日という日が来ても何の音沙汰もない。
「……何をやっているのか、あの元締は!」
思わず独りごちた彼を、給仕頭の青年が心配そうに見守っていた。