ヤマネの夢Ⅲ
着替えた給仕長が控え室から出てきたので、ラウィーザは顔を上げた。
「もう、出発なさいますか?」
この年末年始に上の姫が隣国からの招待を受け、タニヤザールはその供をする。この日が出立であったが、その支度が一刻程早かったのだ。
「最後にやり残しを片付けなければな」
タニヤザールは棚から取り出した絵本を青年に渡すと、付いて来るように言った。
彼らが向かった先はエリダナ姫の部屋である。丁度姉姫が出てきた所で、出発のご挨拶ですかと給仕長が問うと、細い首がコクリと頷いて顔が伏せられた。
「……かわいそうなエリィ」
姉姫の妹思いは有名である。しばらくして肩が震えだしたので、下の姫の病状はそんなに悪いのかと、ラウィーザは眉を寄せた。が、手の当てられた口元から漏れ出たのは、まさかの忍び笑いだ。隠しようがなくなり、どうにも押さえきれなくなった笑い顔を二人に向ける。
「笑ってはいけないのですが……エリィのあの顔ったら」うふふと、ついに声が上がり、とろけそうな目配せを二人の男に送る。「私が笑ったなんて、エリィには内緒よ」
優雅にスカートを翻して上の姫は去っていったが、ラスタバンは間もなく、この掌中の玉を隣国の王子に奪われる事になっている。一発ぐらい相手を殴っても良い気がしたラウィーザの横で、給仕長が扉を叩いて入室の許可を伺った。
室内には赤々とした暖炉が静かに燃える。寝台の羽根布団の陰から金髪のお下げがはみ出しているが、新参者の気配を覚えてもピクリともしない。タニヤザールは枕元に歩み寄ると、姫君、と声をかけた。
「お加減はいかがですか? 先程姉姫様がいらしたように、私も間もなく出発いたしますので、ご挨拶に参りました」
布団の端がもそもそ動いて、眉間に皺を寄せた目が覗く。くぐもった声が発せられて、どうやらタニヤザールのバカと聞こえた。
「それは心外ですな。一日遅れましたが、お約束を果たそうと思いましたのに」些か意地悪な銀の笑みを浮かべ、小首を傾げる。「ヤマネをご覧になりたいのではないですか?」
「ホントですか!?」
給仕長の言葉に、姫は叫んで上半身を起こしたが、たちまち情けない悲鳴を上げて布団に突っ伏した。
「姫様! 大口を開けてはいけません!」
慌てて差し伸べられたシャーリンの腕にすがり、上げられる苦悶の顔。思わず吹き出しそうになったラウィーザは、奥歯をいっぱいに噛み締めた。薄桃色の頬が耳下から見事に腫れ上がり、つやつやと光るばかりである。いつもの細い首がなくなって、膨らんだ輪郭がそのままデンと肩につながっていた。
「……見せてくれるのですか?」
目尻に涙を浮かべて、姫は囁くように訊ねた。顎を動かすと耳下の患部を圧迫し、痛みのためそろそろとしか話せないようだ。
「ここにお持ちいたします」
タニヤザールの答えに、青年は手元の絵本に目を落としたが、給仕長が向かったのは窓辺である。カーテンを引き開き、ガラス窓を開けると、冬の冷気が部屋へ侵入した。養育係が止めようとする前に、窓枠にかけた長い脚でひらりと外壁の縁へ出る。その姿が窓端に消えたので、ラウィーザは急いで駆け寄り外を覗いた。タニヤザールは壁石の出っ張りを伝って、少し先の雨樋の覆いの陰を探っている。やがて何かを手にすると、するすると軽い身のこなしで部屋に戻ってきた。
大股で再び寝台へ歩み寄り、姫の上に身を折る。
「お約束のものです」少女の見開かれた緑の目の前に、手にしたものが差し出される。「ヤマネです」
大きな掌には、小さな茶色の毛玉が乗っていた。姫の両手に移されても、黒い線の入った柔らかい玉の形はそのままで、密生した毛の中に眠った目が埋まっている。時折細いヒゲがピクピクと震えた。
「春の夢を見ているのかもしれません」
タニヤザールの言葉に、姫は輝いた瞳を上げた。銀の目が優しく微笑む。
「大地の精霊は、きっと姫に感謝していますよ」
養育係が何か言いたそうだったが、口は閉じられたままだった。姫の方は、満面の笑みの所を嬉しさと痛さに微妙な表情を浮かべ、しみじみとヤマネを見つめている。
やがて、小さな溜め息をついて、両の手に乗る毛玉を差し出した。
「元に戻しますか?」少女が不自由な首で頷いたので、タニヤザールはそれを受け取った。「では、姫君をお慰めするために……この本を差し上げましょう」
振り返った給仕長の視線が向けられたので、ラウィーザは手にした絵本を恭しく差し出した。驚いた姫が、もごもごと口を動かす。
「でも……これはタニヤザールの子どものものでしょう?」
すると給仕長は口端を上げ、軽く頷いた。
「もう二人とも大人になり、ヤマネの居場所も心得ておりますので」
再び姫の顔に頼りない笑みが浮かぶ。
「私……この本が大好きです」
目を潤ませ絵本を抱きしめる姫に、タニヤザールは優雅な美しい礼をした。
「光栄です。それを描いた亡き妻も喜んでいる事でしょう」
彼女が嫁いで迎えた最初の冬に、この絵本は描かれた。生さぬ仲の子のために色筆を動かしている姿を、タニヤザールは今でもよく覚えている。丁寧に綴じられた本は、長く子ども達の愛読書であったが、この数年本棚の奥にしまい込まれていた。
ヤマネを元の巣に戻し別れを告げると、彼らは姫の部屋を辞した。水場で手を洗った給仕長に手拭きを渡しながら、ラウィーザが声をかける。
「よくあそこに、ヤマネが冬眠していると分かりましたね」
タニヤザールは、丹念に手を拭いながら答えた。
「もう何年も、あそこは彼らの冬眠場所だよ。毎回、王宮周辺の見回りついでに、あちこち見つけてあるのさ」青年に手拭きを戻し、さて、と言って襟元を整える。「姫は十日は寝込む事になるから、王宮もさぞ静かになることだろう。後を頼むぞ、ラウィーザ」
給仕長の留守の間、彼が代行を務めることになっていた。
高速空中船が上昇を始め、見送りに来た国王や近習達の姿が、みるみる小さくなっていく。たちまち王宮の建物が視野に入り、厨房裏庭の使用人棟の屋根が見えてきた。その一室にリス族の一家がいる不思議を、タニヤザールは思う。
彼らの言うには、北街道へ出る支道の峠で強盗に襲われ、子どもがさらわれたとのことだった。珍しい種族は、人買いに良い値で売れるのだ。
その子がどうして王宮裏山の林にいたのか、依然大きな謎だった。姫は直前に竜の翼の音を聞いたとして、子どもを大地の精霊と信じきっている。
しかし絵本は、亡き妻の完全な創作であった。廃れる一方のイディン法の戒めを、今一度幼い魂に教えようとしたのだとタニヤザールは聞いている。あの頃は喜捨の旬節も名ばかりとなり、多くの者が空腹のまま新年を迎えても、富んだ家々は見向きもしなかった。近年ようやく国の主導で、この習慣が蘇りつつあるのだが、それはイディン法本来の姿ではない。
誰によっても強いられない人々の自発的な行為こそが、イディンの祝福であり竜の守りであると彼女は考えていた。
そして満たされた者が揃って新年拝に集い、共に新たな祝福と竜の守りを受ける幸いを、強く心から望み願ったのだ。
「魂よ、望み願え……望み願え、魂よ」
タニヤザールの口から、『新しい竜の歌』の一節が呟かれた。
空中船が西へ進むほどに、ティムリアの都は後方へ流れて行く。いっぱいに広がっていた青海も、間もなく見えなくなるだろう。
彼女の魂は望み願ったのだ――と、彼は思う。
そして、竜は確かにあの子を運んできたのだ。
「それに……」
呟いた喉奥がくつくつ鳴り、一旦丸められた背が激しく震え出す。と、タニヤザールは身を仰け反らせ、今まで抑えてきた大哄笑を思い切り放った。
「あの顔!!」
* * *
イディン法――喜捨の旬節についての規定
年の終わり、大つごもりが近づいた日、山や道、海から来た者が、あなたの家の扉を叩いたなら、あなたはその者にパンを与えなければならない。もし手元になければ、隣家に行って借り、必ず与えなければならない。
そして年が改まった日には、すべてが満ち足りた者となって共に拝し、イディンの祝福と竜の守りの元に互いに笑いが満ちる。……
エリダナ・チェローミア姫の周囲は、間違いなく笑いで満ちたのである。
(了)
姫の年末は散々でした。
しかし、これで収まるはずの無いラスタバン王宮の年末年始。
イディンでは元旦に新年拝という行事がもたれます。
一年の来福を願う重要なこの時、給仕長代行が取り仕切りますが、果たして無事に行うことができるのか。
三が日を過ぎてからアップいたします。
皆様、よいお年を。