ヤマネの夢Ⅱ
「今夜は冷えますね」
そう言いながら、ラウィーザが暖炉に薪をくべた。勢いを増した炎に目をやり、今度の冬は厳しいぞと思った所へ、警護隊長が執務室に入ってくる。
「警備配置図ができました」
タニヤザールは差し出された書類に目を通した。
「いいだろう。例年に比べ、強化しているな」
「はい。今年来る外の者は、いつもの倍近いと聞きましたので」
この時期をイディンでは『喜捨の旬節』と呼び、街街で食料の無料配布が行われる。ティムリアでもそれを目当ての貧しい外の者が大勢集まるため、その混乱防止に、軍隊、警察が動員されるのだ。
「喜捨の集まり具合も、かなり良いそうですね」
ヴァーリックの言葉に、給仕長は笑って応えた。
「高額喜捨の者には王宮新年拝に参列できるというのが、金持ちの自尊心をくすぐったようだ。こちらの思惑通りさ」
「しかし、よろしいのですか? 竜法院の許可も得ずに……」
懸念するラウィーザに、軽く肩をすくませる。
「いずれの新年拝に出ようが自由だし、喜捨は集まるし、会場提供の陛下の許可は取ってあるし、どこにも問題は無い」形のいい鼻から漏れる息。「参列者が多いので、かえって一級祈祷師の気合いが入ると言うものだ」
祈祷師に対するには畏れ多い物言いに、警護隊長と給仕長補佐の青年は互いに顔を見交わした。
「今年は早い時期から準備にかかったので、私が最後までいなくとも何とかなりそうだな」そこで銀の目が細められる。「計らずも姫のお言いつけ通りに、明日には手配が終わりそうだ」
「姫と言えば、夕刻詰め所の湯たんぽが無くなっていました」
ヴァーリックが手を腰に当てて頷いた。
「やはり生き物ですな。この寒さはちときついですから」そこで眉を寄せ、昼からの心配を口にする。「ただ……どうも、姫の元気がありません。いえ、体調はよさそうですが」
言葉の途中でタニヤザールが口元に人差し指を立て、執務室の扉へ視線を向ける。気付いた警護隊長は足早にそちらに向かい、静かに外を窺った。と、これはと呟き、青い制服の体を開く。その陰から現れた白い小さな姿は、外套を着込んだエリダナ姫だ。毛布の塊を抱き、今にも泣きださんばかりの顔を向けてくる。
「……はあはあ言ってるのです」寒さか啜り泣きのせいか、鼻の頭を赤くさせ、唇が震えた。「昨日は、元気に食べたのに、今日はちっとも食べないのです」
タニヤザールは立ち上がると、姫の元へ歩み寄った。身を屈めて少女の顔を覗き込む。
「お水をあげても少ししか飲まなくて……ほっぺがふくらんで、泣いてばかり」銀の優しい眼差しを注がれ、姫の両目からぽろぽろと涙がこぼれ出す。「タニヤザール、助けてください……助けて」
泣き声と共に、姫は腕に抱いた塊を給仕長に渡した。毛布の間から現れたそれは、両手に乗る程の大きさで、、三人の男達が初めて見るものだった。
赤ん坊にしては小さすぎ、ヤマネにしては大きすぎる生き物が、苦しそうに体を丸めている。熱い息が漏れる口元からは、木の実をかじるのに似合いそうな前歯が覗いていた。
「……竜が連れてきた、大地の精霊なのです」
姫がしゃくりあげながら、言葉を継いだ。
姫を寝かしつけ、ヴァーリックは執務室に戻った。大欠伸をしながら王宮医師が隣の仮眠室から出てきた所で、ラウィーザが彼を見送りに行く。診察も終わったのだろうと覗いた隣室では、タニヤザールが仮眠用の寝台に寝かされた生き物を見下ろしていた。警護隊長に気づいて、組んだ腕を竦める。
「リス族の獣人の子どもだ」
ヴァーリックは隻眼の目を見張った。
その昔イディンには、多種多様な獣人達が数多くいた。しかし、この数百年の間に人間との混血が進んだためか、急速に数を減らしている。特にリス族など小柄な種族は姿を消し、絶滅したのではと思われていた。イディンを広く歩き回ったタニヤザールでさえも、初めてこの種族を目にしたのである。
「小さいが、人間でいうと四歳児にあたるらしい」
「いや――姫が大地の精霊と言うので、驚きました」
ヴァーリックは、寝る前の姫から聞いた裏山での経緯を伝えた。
「何でも、お腹一杯食べさせれば、ヤマネの所に行くだろうと思ったので、今まで連れてくるのをためらっていたそうです」小首を傾げる。「いったい何の事やら、サッパリですが」
「かなりヤマネにご執心だったからな」
タニヤザールは唸ると、丁度部屋に入ってきた給仕長補佐の青年に声をかけた。
「ラウィーザ、君はおたふく風邪は済んでいるな」
「あ、はい」
目を瞬かせて青年が頷くと、その肩を叩く。
「では悪いが、この子を看ながら書類の確認をしてくれないか。病状は落ち着いたものの、一応朝まで目を離すなと医者が言っていたのでね」
「承知いたしましたが――それは、つまり」
ラウィーザは、子どもの膨らんだ頬に目を落とした。
「つまりこの発熱は、おたふく風邪のせいなのさ」タニヤザールは、再び目を丸くした警護隊長に苦笑した。「姫に感染っている(※)のは間違いない。もう隠しようがないな。シャーリンから大目玉だ」
その言葉通り朝食が終わる頃、小太りの養育係が非常な剣幕で執務室を急襲した。覚悟を決めていた給仕長と警護隊長は、姿勢を正して彼女の怒りの舌鋒を受け止めた。この二人が陰で支えていたとは、姫には知る由もなかったが、毛布や湯たんぽの背後に潜んでいる者を、彼女はたちまち看破したのである。
「姫様はお熱がおありで、主治医がおたふく風邪だと申しました」遥かに背の高い二人の顔を交互に見上げながら、シャーリンは若い時から変わらない柳眉を逆立てた。「いったい何から感染ったんですの? ええ、大地の精霊などと、世迷い言は聞きたくありません」
そこで仮眠室へ案内すると、まあ、と一声上げて寝台に駆け寄った。リス族の子ですとの説明に、まあまあまあ、あらあらあらと表情を和らげて、ふわふわとした小さな顔に、そっと手を触れる。タニヤザールは養育係の怒りが解けて安堵した。シャーリンのような女性は、何より愛情が優先するのである。彼女は、たちまちこの子の保護者とばかりに、病状と行く末を案じた。
「ただ今、リス族を見かけなかったかと、ティムリア周辺を探らせています」
首に下げた迷子札が見つかり、両親の名も分かっている。養育係は警護隊長の言葉に大きく頷き、身内が来たら知らせるよう、また今後こんな事がないようにと釘を差して退出した。
幸い北街道沿いの駐屯所から捜索願いが出ていた。翌々日には訪ねてきた両親が、王宮奥深くに案内される。イディンの頂点である場所に、二人は小さな体をますます縮込ませたが、寝台上の子どもを見るなり歓声を上げた。子どもを抱き締め再会を喜んだ後、周囲に忙しく感謝の頭を下げる。
「ええもう、何と申してよいやら言葉もございません。助けていただいただけでなく、こんな柔らかい寝台に寝かされ、おまけに御医者様まで御世話してくださるとは」
父親の成人ながら円らで可愛いとしか言えない瞳を向けられると、誰もの心にほっこりしたモノが浮かんでくる。しかし子どもを抱き上げ、すぐにでも連れて行こうとするので、同席していた養育係は急いで言葉をかけた。
「せっかくですから、治るまでここにいらしたら良いでしょう」
「いえいえ、そんな畏れ多い事はできません。ここまでして頂いただけで充分でございます」
「でも……」
言い淀むシャーリンに、タニヤザールが助け船を出す。
「ですが、流行り病では宿屋が嫌がりますし、野宿では治るものも治りません。ここで落ち着かないのでしたら使用人の部屋に移しますが、いかがでしょう?」
それを聞くと獣人も素直に頷いたので、その場の面々は胸をなでおろした。これで姫にも申し訳が立つ。
早速、子どもは厨房裏庭の使用人棟の空き部屋に移され、両親ともども回復するまで滞在する事になった。伝染病でも使用人達が嫌がらなかったのは、殆どがおたふく風邪を罹患済みで、感染の恐れも無かったからである。
※おたふく風邪の潜伏期間は二週間ほどですが、この世界では一から三日の短期間のようです。ご了承ください。