ヤマネの夢Ⅰ
お日様が弱くなり、木の葉が全部なくなると、大つごもりが近づいたしるし。
大地の精霊たちは、暖かな穴にこもるヤマネ達を探します。ヤマネがみる、夢の春の中で過ごすためです。
でも、お腹がいっぱいでないと、夢の中に入れません。精霊たちは竜にたのんで、道の近く、里の近くに運んでもらいます。そして、優しい人が来るのをじっと待つのです。
ですから大つごもりが近づいた日、あなたをじっと見つめているものは、それはきっと精霊ですよ。お腹が一杯になるように、食べ物をあげましょう。
精霊はきっと喜んで、ヤマネの夢の中で、あなたのことを何度も思い出すでしょう。
* * *
「タニヤザール! ヤマネが見たいです!」
エリダナ・チェローミア姫が叫びながら、執務室へ飛び込んできた。そら来たと思いながら、給仕長は食事の手を休めず片眉を上げた。
「家来の部屋とはいえ、取り次ぎを通すのが礼儀ですよ」
「それは失礼しました! さあ、ヤマネはどこです!?」
注意など意に介さず、姫は執務机にかじりつくと身を乗り出し、矢継ぎ早に言葉を放った。
「見せてくれるといいましたよね! ヤマネがどこにいるか知っているのでしょう! さあ、教えなさい! そこへ連れて行きなさい!」
「姫君、私は昼食の最中なのです。しかも食べながらも仕事をしなければならないほど、忙しい身です。察していただきたい」
タニヤザールが脇の書類の山を示したが、姫はふんと鼻を鳴らした。
「お前は私の先生です。これもお仕事です。それに忙しいので、お手伝いが来ているのでしょう? 私は知っているのです」そこで、カップに黒茶を注いでいる異国顔の青年を指さす。「そら、紙のお仕事など、この者にやらせれば良いのです。さあ、ヤマネです!」
午前の学習時、家から持ってきた絵本を姫に渡すと食い入るように読みふけり、終業も気づかないほどだった。そこで、いずれヤマネをお見せしましょうと言ったのだが、その実行を姫は早速迫ってきたのだ。タニヤザールは小さく溜息をもらすと、白銀の頭を傾げて頷いた。
「今はいけません。が、二刻ほど後に手が空きますので、その時お連れいたしましょう」
「それはダメです」
姫がきっぱりと断じたので、給仕長は、なぜですかと返した。
「二刻もしたら暗くなって森は歩けません。今は暗くなるのが早いのです」
銀の目が驚いて、脇の青年と顔を見合わせた。
「先日お教えいたしたことを覚えていらしたとは、喜ばしい限りです」
「私はオロカモノではありません」姫は顎を反らした。「ですから、お前が忙しいことは分かりました。今日がダメなら、明日行きましょう!」
「明日もちょっと……」
給仕長が言いかけると、姫の幼いながらも形の良い眉が上がった。
「では、あさってです! もう待てません! あさって行けるように、夜も寝ないでお仕事をしなさい!」
姫は勢一杯威厳をもって命令すると、くるりと背を向け、では、と部屋を飛び出して行った。
例によって秘密の通路を通り、裏山の農具置き場の小屋に出た。小屋の外は穫り入れの済んだカボチャ畑が斜面を下って広がり、幾つか取り残しの実が転がっている。こんな所にまで外の者が来るとは思えないが、収穫は必ず取り残すのがイディンの習慣であった。畑に目を巡らせた姫は、カボチャの品種改良は進んだのかと思いつつ、小屋の裏の林に足を向けた。
洞を探して、木々の上を目で追う。葉を落としたブナやナラが雲の多い寒空に枝を伸ばし、常緑樹の茂みが暗い影を投げかけていた。地は落ち葉で厚く覆われ、歩を進ませるごとに、枯れた音を立てて柔らかく足が沈む。時折、冷たい空気を裂いてモズの甲高い鳴き声が上がり、微かな羽ばたきがそれに続いた。
間もなく一本のカエデに、小動物が籠りそうな穴を見つけた。大抵は鳥の巣だが、ヤマネかもしれないと思うと、いても立ってもいられない。靴と靴下、ついでに外套も邪魔とばかりに脱ぎ捨て、太い幹に取り付いた。木登りは大好きな警護隊長直伝である。やがて到達した小さな洞を覗いてみたが、弱い光に中は暗く何も見えない。突っ込んだ指先に枯れ枝らしい感触。その途端、激しい鳥の鳴き声と共に黒い羽ばたきが襲ってきた。突かれる頭を庇った拍子に足が滑り、景気よく真下へ落ちる。幸い落ち葉の吹き溜まりだったが、あまりの柔らかさに体が沈み込み、もがく羽目となった。
不意に周囲が暮れたように陰る。空気を打つ力強い翼の音が一つ上がり、ざあっと林の中を吹き抜ける風。やっとのことで起き上がった時には、舞いあがった枯葉が木間一面に散っていた。目を瞬かせた姫は首を傾げ、裸足のまま歩み出した。
そして、暫く行った先の樅の木の影で見つけたのである。
「動物を拾った? 姫が?」
翌朝、隻眼の警護隊長から報告を受けたタニヤザールは訊き返した。
「警護兵詰所の棚から、毛布と水筒が無くなっています」ヴァーリックが笑いを噛み殺しながら頷く。「朝食時にはパンとハムをエプロンのポケットに忍ばせておいででした」
ふむ、と給仕長は呟いた。
「ヤマネにしては大きいな」
「どこで何を飼っているかわかりませんが、お言いつけならば探ります」
警護隊長の言葉に、タニヤザールは首を振った。
「いや、その必要もないだろう。まあ……ばれたらシャーリンが煩いだろうが、子どもには秘密がつきものだ」
養育係の意向を立てつつも、給仕長が姫の自由を尊重している事に、ヴァーリックは嬉しく思う。しかし、エリダナ・チェローミア姫相手では、それがどんなに覚悟のいる事か、この心優しい男にはまだ分かっていなかった。秋の終わりに発覚した姫の秘密計画は、タニヤザールと父王の胸の内にだけにある。
「予定の日課には、ちゃんと時間通りに来ているので、遠出ではあるまい。王宮の敷地内ならば、そんなに危険はないからな」敷地と言っても広大だが、七歳の子どもの徒歩圏内は想像がつく。「まあ、これから授業なので、気を付けて様子を見ておこう」
姫の教師代理であるもタニヤザールは、棚から算数のテキストと手作りの絵本を取り出すと、学習室へ向かった。
机に向かうエリダナ姫が秘密持ちであることは、一目瞭然だった。陶器のような頬をバラ色に染め、波打つ胸は全速力で走ってきたことを物語っている。朝食からの間に、どこかに行っていたに違いない。タニヤザールは気付かないふりをして、手持ちの絵本を姫に渡した。
「今日は音読をいたします」
「はい」
少女は元気よく返事をすると、エクボを浮かべて読み始めた。しばしば言葉が途切れるのは、どうやら描かれているヤマネに見入っているせいらしい。ようやく読み終えて、深くもれる溜息。本から上げられた夢見る眼差しに、これはますますこの絵本と関係がある事柄だとタニヤザールには察せられた。第一、昨日あれほど執念をみせた「ヤマネ」の「ヤ」の字も向けてこない。終業後、名残惜しそうに絵本を返したものの、学習室から出るなり、姫はたちまち姿を消した。
昼食時には駆けつけたテーブルで、再びポケットに隠されるパンとチーズ。これが養育係の目に止まらなかったのは、ひとえに警護隊長の陰の協力による。ただ少女の瞳に走る陰を、ヴァーリックは見逃さなかった。
おやつと夕食時も同様に食料調達が為されたが、次第に沈む姫の表情が、警護隊長の心に屈託となって膨らんでいった。