エリダナ・チェローミア姫の陰謀Ⅳ
「ニイルの方は逃げられたようです」報告したヴァーリックは、憤慨に堪えない面持ちで言い放った。「全く馬鹿な奴です。誘惑しているつもりが、手玉に取られているとは露知らず、易々と警備情報を漏らすとは!!」
「それだけ相手が強かだったというわけだ。指名手配を受けている大密輸団の首領が本気でかかれば、警護隊の副隊長を操るなぞ手の上に乗せる様なものだろう」執務室の机の向こうに座るタニヤザールは、そこで肩をすくめた。「私達も彼の事は云えんよ。なにしろ、姫君の教師として雇ってしまったのだからな。デブアの紹介状を偽造するとは、考えたものだ」
「まったく女は見かけによりません」
清楚で純情そうな佇まいを思い出し、警護隊長は低く唸った。
この犯罪組織は、どの国の王宮や城内にも必ず一人か二人の間者を忍ばせ、いざという時の活動に備えていた。例の召使も勤続八年にはなる中堅で、王宮内の家来衆の受けも良かったのである。彼は時間をかけて宮内を探り、厨房裏庭の野菜倉庫の中からカボチャ畑の小屋に通じる抜け道を発見していた。
「しかし考えましたな。姫の綴り方の答案用紙を利用して、情報を伝えるとは……」
警護隊長の言葉に、タニヤザールはくすくす笑った。
「私も偶然見つけたのだがね。あまりに姫の学業成績が、特に綴り方が壊滅的なので、覗きに行った矢先、妙な言葉が目に付いたのだ」
覗いた角度からか、それは『悪戯』と読めた。最初は偶然だと思った。
その頃、裏のカボチャ畑での光について内偵を進めていたが、光る日が不定期な上、小屋に誰かが入る形跡も認められず、なかなか正体が知れない。光った所を踏み込んでみても、いつも中はもぬけの殻である。気掛かりのまま、姫の学力不振にも対処しなければと思っていたタニヤザールは、添削済み答案用紙に目を通すことにした。
何気に先日の言葉を思い出し、意識して見ると、果して数枚にそれが認められる。更に別の紙には、もう一つの言葉も。
――『悪戯』と『お菓子』。
その書かれた日付が、光の瞬く日と一致した。また『悪戯』の日は、とある沿岸場所の警備が強化される日でもあった。湾岸警備隊は、密輸団がティムリア近郊で取引を狙っているとの情報を受け、王宮警護隊へ助力を求めていたが、その責任者が浮名の多い副隊長である。そこから考えるに、『お菓子』は『悪戯』の逆と思われた。
この答案を目にすることのできる人物はといえば、限られてくる。そこで浮かんだのが、女教師と姫の文具を運ぶ召使だった。二人は繋がりが悟られないよう極力接触を避け、姫の答案用紙を利用し、遥かな海上からでも見渡せる王宮の裏山から、沖合の船に合図を送っていたのである。
そしてこの日、答案には『お菓子』との言葉が記され、まさしく警備の薄くなる日だった。タニヤザールから連絡を受けた湾岸警備隊は、薄い警備と見せかけ、上陸した密輸団を一網打尽にしたが、肝心の首領は取り逃がしたのとの報告が先程もたらされたのである。
「姫も無事だったし、召使も確保したし、今回はこれで良しとしよう」
タニヤザールは椅子から立ち上がると、窓の外に広がりだした朝焼けに目を向けた。
「姫には今回はまた、特に驚かされましたな」大きな溜息をついた警護隊長が、そこで給仕長の顔を上目遣いに窺う。「しかし……あの最後は、やり過ぎでは? 助けられた後に、まさか放り投げられるとは思わなかったと、べそをかいておられましたよ?」
ふん、とタニヤザールは彼には似つかわしくない鼻息を、景気良く鳴らした。
「少しは身に染みていただかなくてはな。あの案山子の所で追い詰められたものを、とんだ手間がかかった」残念そうに口の中で呟く。「もっと、泣き叫ぶかと思ったが……」
ヴァーリックは気付かれないよう、隻眼をくるりと回した。落ちてきた姫を受け止めた際、腕に滲みて来た生暖かな感触に驚いていると、ふくよかな口が耳元で囁いたのだ。
――内緒にしてください……お願いします。
警護隊長は、姫の名誉を守った。
エリダナ・チェローミア姫は、学習室の机の前でかしこまっていた。
昨日は目覚めたのが昼近くであったが、事情を知っているのか、シャーリンは何も言わず、授業も行われなかった。未明の混乱が嘘のように穏やかな一日が過ぎ、日が改まる。
学習室の扉を開けて入ってきた人物を見て驚いた。タニヤザールが大股で教師用の机に着き、おはようございますと挨拶した。
「先日までの女教師は解雇いたしましたので、次が決まるまで私が指導いたすことになりました」
優しげな笑顔を思い出し、がっかりしながら、何故ですかと訊くと、給仕長は軽く頭を下げて答えた。
「姫君の学業成績が少しも上がらず、指導力がないと判断されたためです」
あの答案の束を覗いていたのは、そのためかと合点がいく。しかし、この給仕長に習うとは何やら不吉な予感がした。
「でも、お前も忙しいのですから、他の者が良いのでは?」
表面は気遣う様な口調に、銀の目が不敵な笑みを浮かべた。
「いえ、彼女を雇った責任もありますし、なにより、私と姫との間には会話が不足していると思われますので、これを機にいろいろ話し合いとうございます」
目を瞬かせる姫へ小首を傾げ、何かご質問は、と訊いて来る。しばらくの沈黙の後、姫は机に手をつき身を乗り出した。
「あの曲者は何をしたのですか?」
興味津々に向けられた子猫のような緑の瞳を、給仕長は一瞬驚きの眼で見返した。と、口の両端を上げ、細い体を折り曲げて姫の顔を覗き込み、声を潜ませる。
「あの者は我がラスタバンの秘密を探りに来たのです」
ファステリアのチャイ麦のように、ラスタバン農業会は最高級カボチャの品種改良に取り掛かっており、これが成功すればラスタバンに莫大な利益をもたらすとタニヤザールは言った。
「これは極秘中の極秘です」
どうぞこの事は絶対に口外なさらぬようにと、最後は重々しく告げられたので、姫は緊張に喉を固まらせ頷いた。国の命運を握る秘密を明かされ、責任の重大さを覚えて身震いがする。これこそ王女が知るにふさわしい情報である。
では、と給仕長は体を伸ばした。
「とりあえず今日は綴り方の練習をいたします」
懐から出し、学習机の上に置いた紙片を見て、姫の眼と口が驚愕に真ん丸になった。間違う方無き、例の死刑執行書である。
「多少は汚れておりますが、まことに素晴らしい出来でございます」
姫が書かれたのですね、と訊くので、口の中ではいと答えた。
「綴りの間違いもなく、またそのお年とは思えない手跡で、ほとほと感心致しました。ただ一つ誤りがありましたので、書類不備として受け付けられませんでした」長い指が、文章の最後を示す。「この名の者が実在しないためです」
そこには給仕長の名が書かれている――はずなのだが。
「『ねべど・あしたる・たにゃざる』なる人物は、ラスタバンにおりません」タニヤザールは、そこでぱんと手を打ち鳴らした。「かく書類を見て私は確信いたしました。わが姫君は、やる気を出せば、素晴らしい成果を上げられる事が。しかるに厳しくご指導した暁には、類稀なる才能を発揮されるでありましょう」
というわけで、本日はこれを練習していただきたい、と書類をひっくり返した裏面の上段に、見事な手跡で給仕長の名がある。家来の名も満足に書けなくては死刑にはできませんよとの言葉に、姫は頬を引きつらせて給仕長を見上げた。
「その紙面一杯に書き終えましたら、この書類をどのようにお造りになったか、おっしゃっていただきます。ええ、きっちりと。隅から隅まで。全て些細洩らさず」
決然とした声が上から降ってくる中、姫は震える手でペンを握った。
そして、恨み重なる家来の名を書き始める。丁寧に、丁寧に、それは何度も繰り返される。
『ネヴィド・アシュタル・タニヤザール』
竜の慈しむ銀の眼差しが注がれていたが、今の姫には知る由もない。
(了)
エリダナ姫のデビュー編をお読みくださり、ありがとうございました。
姫の四季をめぐるお話が、これからいくつか続きます。
次回は年末のお話です。
また本編は「ラスタバン王の給仕」という長編です。同じくここで載せておりますので、よろしかったらこちらもお読みいただけたらと思います。とても長いお話ですが、イディンの世界が詳しく描かれていますので、この短編の背景が分かりやすくなると思います。