エリダナ・チェローミア姫の陰謀Ⅲ
東の海から上った満月が中天を過ぎ、西へ落ち始めている。エリダナ・チェローミナ姫は暗闇の小屋で盛大な欠伸をした。
あれから王宮に戻り、いつものスケジュールをこなして床に付いたのだが、どうにも気になって眠れない。身の回りにもどこか不穏な空気があって、ヴァーリックの姿も見えない。もっとも、外回りの仕事が急に入ることはいつもの事なので、カボチャ泥棒に関係しているかどうかは分からないのだが。
枕の上で暫く悶々とした後、結局自分で事の真相を突き止める事にした。
真夜中の暗がりを怖がった事のない姫にとって、夜行は容易いことである。お化けや妖怪がいるのなら会ってみたいと考えながら、二度目の大欠伸をして、ハテ、と首を傾げた。光が見えたのが昨夜の事で、果たして連夜で現れるか疑問を持ったのだ。考えている内に今夜はハズレではと思われ、引き上げようと立ち上がった時である。抜け穴の出口である小屋の床板が、ごとごとと音を立てて外れた。思わぬ所からの侵入者に、姫は驚いて壁に立てかけてある農具の陰に隠れた。
穴から現れた人影は、大きなランプを手にしながら窓辺へ寄ると、ボロ覆いをめくって外を窺った。台の上に置かれた灯りが照らした顔に、姫は息を呑む。学習室から、文具と綴り方の答案用紙を律儀に運んでいた召使である。カボチャ泥棒と言うからには、空腹の外の者かと思っていたので、これはどういう訳かと新たな疑問が浮かんだ。
自身が食道楽の父王は、家来達に与える食べ物にも結構気前がいい。もちろんカボチャ料理も出るが、もっと美味しい物を口にすることができるはずである。それとも、外の畑にあるカボチャには、他の者がほしがる何かがあるのだろうか。
召使は、ランプを挟んで窓と反対側に鏡を立て掛け、ボロ覆いの端を掴んで上げ下げを始めた。光がチラチラ瞬いたのは、このせいかと合点がいき、引き続き観察していると、破調での動作に区切りがあることに気が付いた。少し長めの休みをとって、同じ間隔で二度三度と繰り返される。間違いなく、これは何かの合図だ。いったい外の何に送っているのかと気になって、羽目板の隙間へ首を伸ばす。
その途端、立て掛けてあった鍬が倒れた。しまったと思い、振り向いた召使を見て一層の衝撃が走る。つり上がった目がギラギラと異様に輝き、学習室を行き来していた生真面目な人物とはまるで別人だ。顔面に現れた妙な筋は光の加減とも思えず、尖りだした鼻がひくつき、笑いに歪んだ口元から牙が覗いた。
「これは……」小屋の中を見回し呟く召使。「……思いもよらぬお方がいるようだ」
姿は見つかっていないはずだが、一歩一歩確実にこちらへ近づいてくる。ランプの灯を背にした黒い影がだんだんに大きくなり、視界いっぱい広がっていく。恐怖で固まりつつも武器はと見回し、倒れた鍬に手を伸ばそうとした、その時。
「動くな!!」
小屋の扉が叩き壊され、数人の兵がばらばらと入ってきた。先頭でサーベルを抜いているのは、あの警護隊長だ。
「大人しく投降しろ!!」
だが、召使は覆いのかかった窓の外に身を投げ、照明の取り巻く真中へ飛び込んで行った。
「外に出たぞ!!」
警笛の響きと共に、警護兵たちが一斉に外へ向かう。残された姫は、農具の陰でほっと息をついた。良くは分からないが、大捕物の準備はすでに整っていたらしい。木枠だけになった窓から覗くと、眩しい光の中で、召使と警護兵の激しい剣戟が繰り広げられている。多勢に無勢と思いきや、この召使の反撃に兵士達は苦戦を強いられていた。彼の重い一撃をくらうと、まるで人形のように飛ばされてしまい、屈強のはずの警護兵が圧倒的な力の差に手も足も出ない。
賊が逃走路を求めて次第に小屋から離れて行くので、首を伸ばしてもなかなか様子が知れなくなる。かと言って表は危険なので、どうしたものかと小屋の中を見回すと、隅に立てかけてある梯子の先が、屋根の空いた穴に届いていた。
小屋の上は思った以上の景観である。兵士が手に持つ灯りが幾筋も畑や夜空に交錯し、金属音が耳に響くたびに暗がりに白い光が瞬いた。逃げる曲者に兵士達は必死に追い縋ったが、次第にその数が減っていき、今にも包囲網を突破されそうである。何をしているのです、と姫が口の中で呟いた時、行く手に黒い影が立ち塞がっていた。しかし期待したのも束の間、それが例の案山子だと気付くと、たちまち力が抜け気が萎える。
だが――その案山子が動いた――ように見えた。
案山子の側から現れた丈高い影に、逃亡者が飛びかかる。その剣先を、大剣が月夜を裂くような音を立てて薙ぎ払った。それまで誰をも寄せ付けない強力を誇っていた曲者の体が、初めて後ろへ跳ね返されたのだ。照明が地に倒れた召使に集まり、彼の驚きと恐怖にひきつった顔を照らした。月を背にした影がゆっくりと歩を進ませ、射す灯りの中で、その胸当てと髪が白銀に煌めく。
「タニヤザール!!」
姫の口から思わず出た叫びが、そこにいた者達の視線を一斉に集めた。ヴァーリックの一つ目はもちろん、タニヤザールでさえ銀の目を固まらせる。まさかの顔を屋根の上に見つけた兵士達の虚を突き、曲者がいきなり跳躍した。誰もがよもやと思う一跳びに、降り立ったのは姫の目前。驚く間もなく強い力で抱え込まれ、気付いた時には白刃が鼻先に突きつけられていた。
「近寄るな!!」
召使が必死の声を上げた先は、早くも屋根の上にまで追ってきた給仕長である。
「離せ」タニヤザール低い声が響く。「どの道逃げ切れん」
深く長い唸り声が耳元で上がり、姫はごくりと喉を鳴らした。彼女を抱え込んでいる腕が妙に毛深い。いや、毛深いを通り越して、まるで獣の――犬の様な――狼の様な……
――獣人……!?
しかし、先程まで召使は確かに人間だったはずだ。人間から獣に変わる事など、あるのだろうか。タニヤザール達はこれの正体を知っているのだろうか。
およそ目の前の危機よりも、疑問に頭が一杯になった姫は、いきなり宙に浮いた体に目を丸くした。逃亡者が人質を抱えたまま再び跳躍し、小屋の裏の林の中へ跳び降りたのである。月の光も届かない濃い影の中を、まるで陽の下の様に、凄まじい速さで苦も無く走り抜ける。空を切る風と共に、下生えの葉や枝が次々と顔を打つので、痛くて目を開けていられない。それでも時折窺う薄目越しに、木の間から追っ手の明かりが見えるたび、曲者が舌打ちをして進路を変えるのが分かった。
どのくらい経ったのか。激しい息遣いと共に、逃亡者は走るのを止めた。姫がそっと目を開けると、足元は林を抜けた崖の上で、赤みがかった月が低い空に懸かっている。その影に浮かんだ召使の顔を見上げ、姫は思わずうわあと口を開いた。目の前にあるのは完全な狼の首で、姫を抱えた腕だけが、どうにか人間の面影を僅かに留めている。走っている最中に服も脱げたらしく、全身を覆う豊かな毛が灰色に波打っていた。
警護兵の包囲網を破って逃げ切れたのだろうか、人質の自分はどうなるのだろうかと思った矢先、再び逃亡者の目に凶暴な光が浮かんだ。体中が総毛立ち、攻撃に備えて筋肉が緊張する。
「言ったはずだ」
急に掛けられた言葉に、姫も驚いて振り返った。崖際に張り出した岩の上から、大剣を手にしたタニヤザールが見下ろしていた。
「逃げ切れないと」銀の目が不気味に細められる。「……殺せまい」
この給仕長も、王宮で見せる姿とは全く違う。全身から何かが立ち上り、周辺の大気が揺らめいて見える。
獣の強くなった唸りと共に、血走った燃える目を向けられ、姫は固唾を呑んだ。給仕長は余計な事を言ったのではないだろうか、ほら、捲れた口から牙があんな……
と、いきなり強い力で押し出され、体から重さが消える。一瞬、駆け去る獣の後ろ姿が見え、くるりとひっくり返る天地。月がゆっくりと足元へ落ちて行く。
いや、自分が落ちているのだ。どこを?――崖を――下へ――
――これで、死ぬ……?
月を見ながらそう思った瞬間、銀に輝くものが突然宙に現れた。翼が大気を打つ鋭い音が響いて、溢れる煌めきが眼前を横切る。
――竜だ!!
長い尾を引く竜が身を翻し、姫をその背に乗せようと傍らに寄ってきた。
虹色に透ける翼、白光の瞳、光の粒子を飛ばす細かな鱗の一つ一つまで、手に取るように迫ってくる。
――竜だ! 竜だ! 竜だ!!
姫は歓喜に叫んだ。
「竜が来た!!」
「もう少し、お小さい声で」
日常で聞き慣れた声が囁き、姫は目を瞬かせた。竜の光を見詰めていると思っていたら、月の光を映すタニヤザールの銀の瞳である。
あれ、と呟いて、目の前の給仕長の腕に抱えられているのに気が付いた。彼はと見れば、もう片方の手で何やらの綱につかまり、共に崖に宙吊りになっている。
「お前が助けたのですか?」
「左様にございます」
例によって慇懃な答え。では、あの竜は何だったのだろうと思いながら、姫はタニヤザールの顔をまじまじと見つめた。
「何でしょう?」
片眉を上げて視線を返してくる。
「タニヤザール」
「はい?」
「ありがたく思います」
給仕長は目を細め、どういたしましてと小さく口端を上げた。
「あれは、獣人ですか?」
頭に引っ掛かっていた疑問には、人間から獣に変身する獣人がいるとの答えがあった。彼らは変身した際、常人離れした恐ろしいまでの力を発揮するそうだ。
「私のせいで、曲者に逃げられてしまいました。申し訳ありません」
「いえ、御懸念には及びません。抜かりはございませんので」
でも、と言いかける姫に、にっこり微笑む。
「ラスタバンには、竜も虎もおりますれば」そこで顔を上げ、大声を張り上げた。「イルグ!! そこにいるか!?」
月光のぼんやりとした崖の縁から、灯りを手にした人影が手を振って、ここにおりますとの警護隊長の声が返ってきた。では姫、とタニヤザール。
「腕を組んでください……そう、そのままで」
再び顔を上げて叫ぶ。
「イルグ! 姫だ! いくぞ!!」
抱えていた腕が力強く振られ、エリダナ・チェローミア姫の体が、今度は上に向かって落下する。たちまち遠のく竜の銀。
金の髪を、エプロンのフリルを、スカートの裾をふんわり広げ、目も口もまん丸にした姫の姿は、妖しげな赤い月影の中を浮遊した。
周囲には竜の発する細かい光の粒が、ちらちらと瞬いている。
<語句説明>
●「竜」と「虎」
本編および続編の登場人物