エリダナ・チェローミア姫の陰謀Ⅱ
翌朝、あまりの喜びで寝付けなかったせいか、朝食の席で大きく舟を漕ぎ、料理に少し手を付けただけで、時間が無くなってしまった。もういらないと言って家族を驚かせ、急いで席を立った。計画の仕上げ時が、迫っていたからである。
自室から執行書を手に廊下を疾走するが、いつものことなので、誰も気に止めることはない。公文書室前まで来ると、丁度室長と室員が書類の入った文箱を持ち、部屋を出た所だった。歩調を合わせて、一列に王の執務室へ向かう。
「てきしゅうぅぅぅ!」
飛び出した姫は、叫びながら彼らの足元をつむじ風のようにくるくる回った。慌てて足をもつれさせた室長の背に、後ろの室員がどんとばかりぶつかる。勢い手から放たれる文箱。その拍子に蓋がぱっくり開いて、中の書類が景気よく宙に舞い散った。
「あああああ!!」
室長を押しつぶし倒れた室員が悲鳴を上げる。その隙に姫は散らばった書類の間に執行書を紛れこませ、脱兎のごとく駆け去った。
廊下の端で様子を窺うと、起き上がった二人があたふたと書類を拾い上げ、文箱に収めている。やがて、拾い忘れがないか見回した彼らは、先程のように列になって廊下を進んで行った。
為すべきことは、全て終わった。
しかし、ゆっくり喜んでいる暇はない。始業時刻がせまっている。多少の遅刻で怒るような教師ではないが、授業時間に廊下にいる所をタニヤザールや他の面々にでも見つかったら面倒なので、近道をとる事にした。
ティムリアの王宮は城塞の例に漏れず、あちこちに秘密の通路があり、長い歴史の間に忘れ去られた抜け道も少なくない。姫の飽くなき探求心は、その幾つかを突き止め、父王の執務室に忍び込めたのも成果の一つである。
最近見つけた学習室への抜け道は、公文書室に近い階段の踊場の陰にある。あまり使われてない場所なので、人影を認めた時には驚いてしまった。急いで備えつけの花台の陰に隠れたが、これがただの人影ではない。
なんと接吻中の男女。姫の目は皿のようになった。こちらに背を向けている警護隊の制服に、一瞬ヴァーリックだと思ったら茶髪の副隊長だ。相手は、と思って目を凝らした時、頬を赤くした女教師が脇をすり抜けて、階段を上って行く。振り返った副隊長が、警護隊一男前という顔を締まりなくニヤつかせたので、姫は無性に腹が立った。将来、死刑とは言わないが、鞭打ちぐらいは与えた方が良いかもしれない。だが、今はそんな事に気を取られていられなかった。
――早く、退きなさい!
甘い余情にのんびり浸かっている色男に呪わんばかりの念を送ると、ようやく踊るような足取りでその場を立ち去った。
学習室の造り付けの戸棚から飛び出し、机に向かった途端扉が開いた。入ってきたにこやかな女教師へ、姫は息を整えながら素知らぬ顔で、おはようございます、先生、と挨拶した。
この日も綴り方の練習から始まる。最近多いなと思いつつ、もう自分の名前は淀みなく書けるので、姫は軽々とペンを走らせた。あら、と教師が小さく呟くのを聞き、得意の鼻息が漏れる。
しかし、膨らんだ自信もそこまでだった。教師の口から次から次へと出てくる単語が頭をぐるぐる回り、果ては答案の文字が踊り出したのだ。しかも朝食を殆ど食べなかったせいか無性に空腹を覚え、それもお菓子ばかりが食べたくなった。
苦労した答案用紙が、教師の添削で真っ赤になる。午後にでもおさらいをしてくださいね、と女教師はいつもの言葉を掛けながら、優しく微笑んだ。この甘さに全面的に寄りかかっている姫も、この教師は怒る事があるのかと思う時がある。だが、年中養育係のシャーリンやタニヤザールにお小言を貰っているので、これ以上何か言われてもたまらないと、余計な心配をすることは止めた。
この日続いては算数と読書。算数は割と得意な上、本も好きな物を読んで良かったので、後の時間はまずまず楽だった。これもいつもの通り早めに授業は終わり、挨拶の後、片付けた机の上の答案や文具を、召使がまとめて姫の部屋へと持って行く。どうせ、おさらいなどしないから、真っ赤な答案は捨てるように、後で言おうと思いながら学習室を出た。
昼食までの時間は兵隊の訓練の様子を見ようと、例によって駆け出そうとしたら足に力が入らない。お腹が空き過ぎたためと分かって、行き先を食事室に変更した。ふらふらと歩を運んでいる姿が家来たちの目を引いたようだ。御加減が悪いのですか、と心配そうに訊いて来る者へ、なんでもありませんと勢一杯王女らしい笑顔を向け、やっと食事室の椅子に座ってへたり込んだ。この日、誰よりも先に席に付いている姫を見て、シャーリンが目を丸くしたのは言うまでもない。
物凄い食欲振りに一同注視の中、デザートのかぼちゃプリンを一口した途端、姫はテーブルに突っ伏した。姉姫の悲鳴を聞きヴァーリックが駆けつる。伏せられた顔の下から気持ちよさそうな寝息が立っているを認めると、警護隊長は養育係と顔を見合わせた。小さな体は抱き上げられ、寝室へと運ばれていった。
死刑台で命乞いをするタニヤザールに、尊大な笑顔で許してしんぜようと言った所で、エリダナ姫は目が覚めた。
体を起こして、いい気分のぼんやりした目で部屋を見回す。と、カーテンの引かれた窓際に背の高い影。驚いたものの、間違えるはずの無いその形から聞き慣れた声が掛けられた。
「おや、御目覚めですか?」
「何をしているのです」
当たり前な様子に憮然と返した所で、タニヤザールがカーテンを開けた。急に射し込む陽に一瞬視界が眩む。やがて慣れた目が給仕長の手にある物を捉え、喉奥がきゅっと締まった。文箱から取り出した、朱入り添削済み答案の束ではないか。
「まことに、凄い成果の積み重ねでいらっしゃる」パラパラと目を通し、一番上の紙を掲げる。「これは今日の答案ですか? お名前が間違いなく書かれていますが」
「お前が馬鹿にしたので練習したのです。もう、一綴りだって間違えません」
「それは良い努力をなさいました」
勢一杯見返してやろうと顎を反らせたが、なんだか向こうの方が偉そうなので、褒められてもちっとも嬉しくない。では失礼いたしますと、さっさと退出しかけた背がまた気に障った。
「タニヤザール! 無断で部屋に入り、王女の持ち物を勝手に開けるとは無礼であろう!」
足を止めて、こちらを振り返った顔がにやりと笑う。
「大口開けて涎をこいているお方に、無くして困る礼など無いと思われましたので」
その言い様に更にむかっ腹が立ち、姫は思い切り険悪な眼差しで睨み据えた。
「寝ている時の顔なんて知りません!」
すると小首を傾げた後、左様でございますなと、あっさり頷く。
「これは、まことに御無礼をいたしました。お許しください、姫君」
黒い礼装の丈高い姿がすらりと伸び、白銀の頭が優雅に下がって、惚れ惚れする程の礼が送られる。そのあまりに美しさに姫はしばし茫然とし、思わずかまいませんと呟いてしまった。腹立ちがぶり返したのは、扉が閉じてからしばらく後である。
しかし直ぐに文箱が気になり、寝台を飛び降りて駆け寄った。執行書の跡を残す様なものはないと思ったが、念のために一枚一枚確かめていく。案の定あるのは添削答案ばかりで、他の悪戯の証拠になるものなども一つもない。安堵したものの、そこで首をひねった。もとより悪戯など仕掛けた覚えもないのに、どうしてそう思ったのであろうか。
窓の外に目を向けた所で、いけないと呟く。どのくらい寝ていたか分らないが、大分に陽が傾いているではないか。カボチャ畑への遠征予定を思い出して、姫は部屋を飛び出していった。
見つけた抜け道の中でも、城外へ出るこの経路は大発見中の大発見だった。父王専用のトイレの棚奥から入り、薄暗い狭い通路をうねうねと進むのだが、この通路自体がまた迷路になっていて、いくつもの脇道があちこちへと延びている。逆からの侵入者を防ぐためか、帰路は慎重に辿らないと一生出られない危険もあるが、城外へは一本道に等しい。警護詰所から失敬して私物化したカンテラを片手に、姫は通路をひた走った。
出口はカボチャ畑に建つ小屋である。その床板を外して這い出た姫は、あれ、と首を傾げた。隙間だらけの羽目板から洩れるぼんやりとした光の中に、以前はごたごたと置かれていた農具が、今はきれいに片づけられ整然と並んでいる。その中で、窓際の台と側に立てかけてある鏡が目を引いた。木枠だけの窓には、カーテン代わりのボロ覆いが掛けられている。
外を覗くと、山の斜面に下るカボチャ畑と王宮の白い城壁や塔、更に向こうには海が広がり、湾を行く船が手に取るように見えた。
そこへ、畑のあぜ道を上ってくる者がいる。一人は丸々とした小男、もう一人はノッポの若者で、二人とも畑のカボチャに負けないくらいの赤毛だった。長い大きな物を二人して担ぎ、小屋から少し離れた所に着くと、手にしたシャベルで地面を掘り返す。やがてその穴に据え付けられたものは、大きな案山子だった。
「これで、カボチャ泥棒が逃げるんでやすかね?」
「さあ? でも、カボチャ泥棒の心配もしなくちゃならないなんて、給仕長って大変な仕事なんだね」
男達は言葉を交わして汗を拭い、もと来た道を下って行った。彼らの姿が見えなくなり、そろりと小屋を出た姫は、案山子の傍に駆け寄った。近づくと思った以上に大きく、擦り切れてはいるものの礼服を着ている所など、まるで磔になったあの給仕長のようだ。麦わら帽子の下の顔がにやりと笑う。一瞬背中がゾクリとしたが、良く見ると人の顔にくり抜かれたカボチャだった。
――カボチャ泥棒?
あの光は、泥棒の仕業なのだろうか。姫は首を捻りつつ、案山子をぐるりと一周した。どうやらこれはタニヤザールが作らせた物らしいが、こんなものが役に立つのだろうか。
再び見上げた案山子の向こうは、色づく西の空。小屋に戻った所で振り返ると、茜色の中に黒々浮き上がった案山子が、カボチャ畑に長い影を投げ掛けていた。