新年拝:6.元旦
【語句説明7】
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『(竜法院)法務局』
竜法院の中枢部署。イディン内の事柄が、法に適って行われているか監視、管理し、時には秘密活動もする。
「間に合いました」
扉から出て来たエリダナ姫がすっきりした顔を向け、給仕長代行の青年は、ほうっと大きく息をした。青い長衣で姫をくるみ、抱き上げて回廊で待つ内に、駆け足の警護隊長と養育係が連絡通路から出て来る。
「お腹を緩くしたようです」
彼らに姫を渡しながら伝えると、ヴァーリックがすまなそうに頭を下げた。
「いや、申し訳ありません。高台の陰で用をなさっている時(どこでやらせたのかと青年は眉をひそめた)、突風が吹いて脱いでおいた姫の防寒用ブルーマーが飛ばされてしまいまして――」
崖際の枝に引っかかったのが見えたが、新年拝に遅れてはと、そのままにして戻ったそうだ。後で拾っておきますと付け足し、警護隊長が王宮奥の廊下を行きかけた所を、ラウィーザは抱かれた姫に声をかけた。
「その……素晴らしいお歌でした」
するとエリダナ姫は困ったように小首を傾げ、珍しく口の中でぼそぼそ言った。
「ホントは、お歌は嫌いなのです。なんだか気持ち悪くなるから……」そこで不思議そうに目を瞬かせる。「でも、お祈りを聞いていたら、祈祷師様がこちらを見て、お歌を歌うようにって言われたのです。気持ちも悪くなりませんでした」
祈祷師の若者の口からは、ただ祈りの言葉のみが紡がれていたのだが。
彼らを見送り執務室に戻ると、机の上に祈祷師の白衣が丁寧に畳まれて置かれていた。ラウィーザは歩み寄り、それを見下ろしながら、この衣が暁に映えた時のことを思い返した。
――こいつは『本物』だ。
カラックの言葉の真実が、胸の深くに落ちていく。既に知っているつもりだったが、その大きさは青年の思いを遥かに超えていた。
長衣を手に取ったラウィーザは、執務室を出、竜法院の老祈祷師の部屋へ向かった。
訪れて驚いたことに、白髭の祈祷師は寝台から降り、椅子に腰掛けて手持ちの法典を読んでいた。温厚な表情で迎えられ、早速新年拝の内容――王宮付の祈祷師が逐電したため、急遽最下級の祈祷師で執り行ったことなどを報告する。了承を得ない祈祷師の交代と、せっかく作成した祈祷文が用いられなかった事について謝罪すると、老祈祷師は微笑みながら首を振った。
「祈祷師であれば、誰に了解を求めるものではないよ。祈りについても、イディン法の規定通りであれば……」手元の書物に目を落とす。「暁と竜への呼びかけが二回、竜の来臨の宣言、暁と竜の祝福が一回、会衆の誓願の唱和が一回」
それがすべてだと祈祷師は顔を上げた。確かに先の新年拝は適っている。ラウィーザは軽く頭を下げると、手に持った長衣を差し出した。
「これをお返しいたします」
老祈祷師は暫くそれを見詰め、窺うような視線を向けた。
「ヤイロスの替わりとなった祈祷師に会いたいのだが、ここへ呼んでもらえないだろうか?」
ラウィーザは口を閉ざした。
昨年の初夏、アシェルの迎えた訪問者のことを報告すると、給仕長は眉を寄せた。特に細かい事は言われなかったが、近くにいる時には、若者の身辺に気を付けてほしいと頼まれている。良く見知った一級祈祷師とはいえ、迂闊に竜法院の重鎮である者には会わせられない。
青年がいつまでも無言でいるので、老祈祷師は苦笑した。
「法務局が妙な動きをしたようだね」仕方がないと溜息をもらしたが、再び微笑んで手で示す。「では、この長衣をその祈祷師に差し上げよう。王宮新年拝を立派に務め上げた者なら、この先出番は多かろうから」
安堵したラウィーザは深く頭を下げ、退出しかけてふと足を止めた。お腰の具合がよろしいようですねとの問いに、それなんだと、老祈祷師は不思議そうに頷いた。
「室内の新年拝の作法に従い、東の窓を開け祈りを一人唱えていたのだがね――」
彼方の会場の唱和が聞こえて間もなく、強い暖かい風が吹き込んできたのだと言う。部屋中の物が飛ばされて難儀したが。
「気付いたら、痛みが無くなっていたのだよ」
それは主任祈祷師も同様であった。昼過ぎにはすっかり発疹も治まり、逃げ出した祈祷師についての謝意を伝えに執務室を訪れる程に回復する。ヤイロスはいずれ竜法院の査問を受けるだろうと、主任は哀れんで呟いた。
また、国王の発熱も予想されたほど高くならず、コダネは無事らしいと漏れ聞いたエリダナ姫が、訳も分からず胸をなでおろした。
ただ王弟の骨折だけは目に見えた変化はない。強いて言えば、思ったより早く松葉杖に慣れそうだというくらいであった。
元日の祝夜会は盛大に執り行われ、国王を除く王族、祈祷師達、竜騎士に加え、大勢の貴族たちが華やかに列席した。
いるべき祈祷師が不在であることは、一部の者以外知らされず、多くの者に対しては主任祈祷師が高台に上ったとされていた。事前に身代わりを頼むと、ヤイロスの件もあって快く引き受けてくれたのだ。今回、人々の祈祷師に向ける関心は殊更高い。最後尾にいた者まで聞こえた祈りの力はたいしたものだとの称賛と、遠くでも曲がった杖先まではっきり見えたが、どんな術を使ったのかとの質問に、主任はただ複雑な笑みで応えていた。
一方正装できめたカラックも大鼾で伸びた姿はどこへやら、物腰も優雅に竜騎士然と振舞い、尊敬の眼差しを集める。特に竜の心臓を二つも持ち帰った事は、人々にどよめきをもたらした。
しかし歌をほめられたエリダナ姫は、また聞きたいですわとの貴族夫人の言葉に仏頂面を向ける。イヤですと即座に応じて、頭のウサギ耳がふるふると揺れた。
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