新年拝:5.新年拝
語句説明6】
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『竜の歌』
昔からイディンで歌い継がれてきた、大地の戒めと希望の歌。イディン法を知らない無学な者も、この歌によってイディンでの生き方を学び、希望を与えられてきた。後半の調子が良いので、酒盛りに際には度々歌われる。ここでは、祈りの前半(夜明け直前)部分。
最近、『新しい竜の歌』が流行り出している。祈りの後半(祝福)部分にあたる。
ラウィーザは石階段の中途に腰を落とした。今更何を焦るべきかさえ分からず、ぼんやり脇を見ると、王の杖が倒れるでもなく立っている。不思議に思ったが何の事はない。段石の隙間に先が挟まり突き刺さっているだけである。片手で掴み引き抜こうとして眉を寄せた。抜けない。力を入れても動かないので、立ち上がって両手で掴んだ。やはり抜けない。これは冗談では済まないぞと思った矢先、警護隊長に抱かれたエリダナ姫が戻ってきた。王の杖に向かっている青年に気づいて駆け寄る。
「ラウィーザ、申し訳ありません。抜けなくなってしまいました」
心のこもった謝罪の眼差しを向けられたが、打つ手が無いのは変わらない。
「姫様が戻ったのなら、そろそろ始めるか」
後ろから声がして、伸びてきた手が杖を掴んだ。
「こりゃ、えらく堅くはまり込んだもんだな」カラックが、ふんと力を入れると、杖は耳障りな音を立てて抜けた。「ほれ、位置につけ。東の際が見えてきたぞ」
杖を受け取りながら、ラウィーザは驚いて竜騎士を見上げた。先程までの酩酊状態が嘘のように、びしりと真っ直ぐに背は伸び、青い長衣を翻しているではないか。いよいよ始まるとあって、執事長と警護隊長が急いで高台の段を降りて行った。
「元締……」
追い詰められたアシェルが半泣きの顔を向けると、カラックはその頬をつまんで引っ張った。
「何をびびってるんだ。『望み願え』、だろ?」
その言葉を聞き、祈祷師の若者の表情が目の覚めたように引き締まる。
ゆっくり頷いて東の彼方に臨み、大きく深呼吸をすると、俄かに瞳の青が鮮やかになった。やがて掌を上にして、両腕が前に差し出される。
「そら、始まった」
カラックは、すらりと抜いた長剣を高く掲げた。この剣と王の杖とを交差させ、祈祷師の頭上に蒼穹を表すアーチを作るのだが、思った以上に竜騎士の剣先が高く、杖が届かない。ラウィーザは慌てて姫を抱き上げた。ふと見た杖先が、妙な具合に曲がっているのに気付いた所で、会場の照明が消える。それを合図に、一万の群集は一斉に跪いた。
静寂の中で凍り瞬く星明かり。その光を祈祷師の双眸が返した時、祈りの一声が放たれた。
「イディンは叫びに満ちている――」
一瞬、ラウィーザの頬は震えた。見えない空間の石板に、声が文字を刻んだような感覚に襲われたのだ。
イディンは叫びに満ちている。
喜び、悲しみ、そして怒り。
人よ、決して怒ってはならない。
イディンの報いは、その身に及ぶ。
怒りは火のように焼き尽くし、
憤りは返る万本の刃となる。
そこには永劫の滅びだけがある。
祈祷師の言葉に、群衆から戸惑いの囁きが漏れる。酒席で高唱されることもある、誰もが知る歌の歌詞だった。ラウィーザも、若者がどういうつもりなのかと怪訝な視線を向けた。
その時。
目の端を煌めく何かが走った。それと気づく前に、更なる煌めきが続く。
見上げて息を呑む。
頭上に広がる満天の銀砂から、星々が流れ出していた。初めは目で追えるほどの間隔だったが、やがて絶え間も無くなり、あふれこぼれる光の雨となった。時折、明けゆく帳を閃光が切り裂く。
人々の呟きは一切絶えた。
ただ、祈祷師の声だけが立ち上がる。
しかし人よ、怯んではならない。
栄光はイディンの内にある。
誉れは勇者に与えられる。
帯を締めよ、剣を取れ。
今こそ、イディンに名乗りを上げる時。
頭を上げて、心を静めよ。
見よ、暁は玉座、蒼天は大路。
最初、それは星の流れる音だと思った。透き通る銀の音が、大気に刻まれた祈祷師の言葉を一層に輝かせる。流星雨の瞬きから我に返ったラウィーザは、その正体を知った。抱き上げたエリダナ姫の口から、人の声とも思えない響きが奏でられていたのだ。それは決して大きくはなかったが、まるでどこまでも広がる網のように群衆を覆い、更に暁に染まろうとする海原へと伸びていく。
燐光を放つような旋律を纏い、再び祈りが繰り返された。
イディンは叫びに満ちている。
喜び、悲しみ、そして怒り。
人よ、決して怒ってはならない。
イディンの報いは、その身に及ぶ。
怒りは火のように焼き尽くし、
憤りは返る万本の刃となる。
そこには永劫の滅びだけがある。
しかし人よ、怯んではならない。
栄光はイディンの内にある。
誉れは勇者に与えられる。
帯を締めよ、剣を取れ。
今こそ、イディンに名乗りを上げる時。
頭を上げて、心を静めよ。
見よ、暁は玉座、蒼天は大路。
「竜が来た――!」
祈祷師のひと際高い声が上がり、前に差し出される一万の人々の両の腕。
と同時に大海の際に曙光が上り、東を臨む全ての者の顔を照らした。
その髪を暁色に染めた祈祷師の若者は、剣と杖の穹をくぐり、会場の群衆に向き直った。これからが新年拝の真髄――祝福の祈りである。差し出された腕は、これを受けるためのものだ。
祈祷師の両腕が高く上がる。白い衣が暁を帯びて金色に輝く。もはや姫の歌も無く、覆うのは暁光の静けさだけだ。
「魂よ、聞け――!」
新たな祈りが、その唇から降り注いだ。
魂よ、聞け。
今、イディンが応える。
竜がお前のもとにやってくる。
光の竜。
その栄光はお前のもの。
その誉れもお前のもの。
竜が知っている。
この地に満ちているものは何か。
それはイディンと同じもの。
もはや流離う者はいない。
すべてが帰るその先を
竜が知っている。
魂よ、望み願え。
望み願え、魂よ。
「竜の守りを――!」
『――竜の守りを!』
祈祷師の言葉に続いて、群衆の唱和が大波のように湧き立ち、一同は地に伏した。
新年拝の思わぬ展開に、ラウィーザは興奮を抑えきれなかった。喜びの顔をカラックに向けると、彼が東の陽に目を細めているのに気付く。朝日の他に何があるのかと同じ方を振り返った時。
目の前に迫る眩い光に身が竦む。
巨大な光の円環。
青年は思わずウサギ耳の頭を抱えて身を伏せた。衝撃が来るかと思った瞬間、光は無数の細かい粒となり、代わりに凄まじい大風となって大地を吹き薙いだ。しかし、それは先の冷酷な凍てついた風ではなく、寒さに固まった体を解放する、暖かい息のような大きな一吹きだった。大気の奔流は壇上の三人の長衣を翻させ、はためく音を響かせる。祈祷師の若者も、勢いに押し倒されそうになって身を屈めたが、その向こうの竜騎士は微動だもしなかった。
腕を伸ばし、剣を掲げた姿そのままに、広がり大きく波打つ蒼碧の長衣。胸元で、ひと際燦然と光を放つ竜石。長い刃と銀の胸当てが陽の黄金に映える。万人の先に立ち、彼は暁の輝きに高く立ち臨んでいる。祈りに竜騎士は口を開かなかったが、必要がなかったからだ。
正に、その姿、存在が、竜の臨在を示していた。
と、身を丸めていたアシェルが、転がるように高台の階段を降りていく。止めようとしたラウィーザの耳に、エリダナ姫が何事かを囁き、唖然となった青年は慌てて祈祷師の後を追った。
山々の彼方、大地の果てへと風の音が消えていき、静寂が戻る。通常ならば祈祷師の一声が終わりを告げるのだが、いつまでもかからない合図に、人々は不審の囁きを交わしながら恐る恐る頭を上げた。
東の高台の立つ者は、一人もいない。ただ高台の階段に、伸びた竜騎士が長閑に鼾をかいていた。