エリダナ・チェローミア姫の陰謀Ⅰ
エリダナ・チェローミア・マナ・フロザリン・アビガイーヌ・ヴィア・クランジット・サス・ラスタバン
そこまで書き上げた姫は、大きく息をついて顔を上げた。まったくどうして、自分の名はこんなに長たらしいのだろう。けれど、とうとうやり遂げたのだ。姫の顔は、満足に光り輝いた。
以前、外の者の名が一つしかないと聞いて羨ましがったら、とんでもないと養育係のシャーリンが怒った。どれもこれもクランジット家の由緒ある名前ですと、すごい鼻息でまくし立てられたが、シャーリンは三つしか名前がないから、それがどんなに迷惑か分からないのだ。
――もっと短かったら、タニヤザールにあんなコト言わせないのに!!
彼の仕打ちを思い出し、姫のはらわたは煮えくり返った。あの男は、たかが家来の分際で、王女に対して頭ごなしに命令し、非礼極まる言葉を遠慮も無く投げかける。
先日などは綴り方の時間に急に姿を現し、それまで必死に書いていた答案用紙を覗き込み、ぷっと小さく笑ったものだ。
「姫君は、おいくつになられたのですか? まだご自分のお名前が、満足に書けないとは……」
それを聞いた若い女教師の顔に苦笑が浮かび、あまりの屈辱に目がクラクラした。授業が終わるや否や、一仕事終えのんびり寛いでいる父王の所へ飛んで行った。
「お父様! あの男を死刑にしてください!」
「あの男?」
「タニヤザールです! あの無礼者の給仕長です!」
姫の剣幕に押され、眉を寄せた王はもごもご口を動かした。
「ああ、彼がいないと私が困るが……一体何があったのだ?」
そこで、一国の王女がいかに辱めを受けたかの一部始終を訴えると、父はいきなり怖い顔をして叱ったのである。
「お前はまだ名前も書けないのか!」
――お父様はダメだわ!
姫は王の無能を断じた。あんな男を頼っていてラスタバンはどうなるのかと、この国の行く末を案じ、やはり将来自分が女王になるしかないと、決意を新たにする。
だがさしあたっては、あの給仕長タニヤザールに一矢報いなければ気が済まない。姫の頭の中では、彼はすでに百回も死刑になっており、即位の暁に実行すべく『しけいちょう』には、いの一番に彼の名前が書かれている。
おまけに他の家来ときたら、タニヤザールには唯々諾々と従うくせに、王女である自分が命令しても、微苦笑を浮かべて、ちっとも言うことをきかないのだ。あのヴァーリックでさえ、給仕長のご命令ですからと、頑として動かない時がある。ここいらで、本当はどちらが偉いのか示しをつけなくてはならない。
かくて、エリダナ・チェローミア姫は、秘密計画を実行に移した。
父王レナルスード四世は、朝の九刻から執務室に籠もって仕事をする。公文書室の室長の持ってくる山のような書類に、ひたすら国王の玉璽を捺すのだ。時折、書類の文字を追うこともあるが、思いは殆ど昼食の献立に奪われているようである。
半月ほど前、仕事を終えた王の退出後、姫はこっそり執務室に入り込んだ。この部屋は姫にとって奥深い山の中で、大きな執務机の下は義賊の隠れ家なのである。玩具の剣を腰に、横暴極まりない王の圧政に怒りを覚えつつ潜り込むと、奥の方に何やら白い紙が落ちていた。拾い上げて書かれている文字に目を通す。が、さっぱり分からない。その内執務室に入って来た者達がいて、慌てて部屋のあちこちを探り出した。
「馬鹿者! 一枚足りないと何故気づかない!」
苛立った叱責に、若い情けない声が応える。
「申し訳ありません。ちゃんと確認したつもりなんですが……」
「お前は、いつも『つもり』ばかりでないか! 死刑執行書は再発行が面倒なのだぞ! 見つからなかったら、こちらも始末書を書かねばならん」
――死刑シッコーショ!
その言葉に姫は手元の紙に目を見張り、急いでエプロンの胸当ての中に押し込んだ。すぐに衣擦れが近づく気配がして、黒い影が机の下を覗き込む。
「悪の手先め!」
姫は叫び飛び出すなり、突き出された光る頭を玩具の剣で一撃した。警護隊長直伝の一刀は見事にきまり、公文書室長が目を回してひっくり返る。
「ああ! 室長殿!」
若い職員の悲鳴を背に、姫は執務室を飛び出した。
自室に駆け込み、寝室の窓辺のカーテンの陰に隠れる。高鳴る胸を押さえつつ、拾った紙を広げた。シッコーショの何たるかは分からないが、死刑に関するホンモノの書類らしい。もしかしたら、ここに名を書かれた人物は、王の印が捺されれば、死刑になるかもしれない。そんな姫の予想は、警護隊長のヴァーリックに『執行書』なる言葉の意味を訊いて、確定的になった。
それでは同じ書類を作り、タニヤザールの名を書けば、あの無礼な給仕長は死刑になるのだ。三日かかって出た結論に、姫は舞い上がった。父王はどうせ上の空で、印を捺すに決まっている。なんと素晴らしい思い付きだろう。
ただ問題があった。書類の文章の、どの部分が死刑囚の名か、まったく分からない。分からない単語は辞書で調べましょうとの教師の言葉を思い出し、四苦八苦して辞書を開いた。ところが、一つの単語を引くのに恐ろしく時間がかかる上、説明されている文が、これまた全然分からない。
姫の計画は頓挫しかかった。
しかし、思わぬ情報が耳に入る。
斥候ごっこをして柱の陰に潜んでいると、廊下の向こうからヴァーリックがやって来た。日ごろ大好きな隻眼の顔も、この時は油断ならない敵兵と身構える。そこへ、副隊長が彼を呼び止め、先日死刑が決まった事件が、実は冤罪だったそうですねと声をかけた。死刑執行書の発行が遅れているうちに、真犯人が捕まったらしい。ヴァーリックは強面をしかめて憤慨した。
「まったく我が国の警察は何をしているのか!」
「まあ、検察のメンツは潰れましたが――」
その死刑囚某は命拾いしましたなと、呑気に笑った副隊長から囚人の名が語られる。
エンザイは何だか分からないが、シッコーショが遅れたとは、先の書類に違いない。つまり死刑囚某は、書類に書かれた名前なのだ。綴りはよく分からないにせよ、似たような言葉を捜せば見つかるかもしれないと、急いで部屋へ戻った。書類に目を走らせ、一番下、行を新たに書かれた単語に見当をつける。横にヴァルドとあるので(これは何とか読めた)、名前がこれ一つだけと言うのも確実だ。この死刑囚の名の代わりに、タニヤザールの名を入れてしまえば、完璧な死刑執行書が完成する。
姫の計画は大きく前進した。
文箱をひっくり返して、書類の紙と似た白紙を探す。使用済みの反故紙でも貴重であると分かっているが、真っ赤な添削の入った綴り方の答案用紙が、次から次へと出てくるのには腹が立った。復習するようにと教師が渡したものを、召使が几帳面に入れておくらしい。姫としては二度と見たくない代物である。
幸いこの春、チェルキスの伯母から贈られた真新しい紙があった。綴り方の練習をせよと渡した紙が、まさか死刑執行書に使われるとは、さすがの伯母も思ってなかっただろう。だが紙面は、姫がこれまで書いた事もない単語で埋め尽くされ、確かに綴り方の練習にはなった。もちろん意味は分からなかったが、間違いなく写すべく、生まれて初めて書き取りに神経を集中したのである。
作業は秘密を守るため、就寝時間に行われた。夜間用のカーテンと窓の間には、柱の奥行き分の空間が空いており、そこに秘密の作業場所が設けられた。小さい机替わりの台を引き入れ、ランプを置いて、夜な夜な書き写し作業に没頭する。気を付けているのにも拘らず、あちこち間違えて、紙はどんどん少なくなっていく。おまけに連日寝不足に陥るが、こちらはその分昼寝で補い、姫の昼寝時間が最近長いとシャーリンは喜んだ。
やがて苦労の甲斐あって、満足のいく死刑執行書が完成した。ところどころインクの染みが出来てしまったが仕方ない。もう紙もない。最後の行替えに、タニヤザールの名を書く。
――たった、三つしか名前がないくせに! たかが侯爵のくせに!
姫は恨みをこめて一文字一文字を綴った。
被執行人の欄は完成した。問題は、更にその右下の欄だ。執行申請者。これまた意味が分からなかったので、ヴァーリックに訊いて確認した。ここには自分の名前を書かねばならない。この時のために、姫は懸命に自分の名の綴りを練習した。間違えてはならない。この執行書が、まさしく王女による自分の名によって申請されたものと、明らかにするためには。
そして、姫は書き上げたのである。長い長い自分の名を。ここに父王の印が押されれば、間違いなくタニヤザールは死刑である。
達成感に満ちた笑みを浮かべた姫は、ふと首を傾げた。我が国の死刑とは、どうやって為されるのだろうか。怖い昔話の首切りや首括り、磔などの言葉が思い浮かんだが、実際に想像すると、えらく気持ち悪かった。エルシャロンの騒動で怪我人をちらりと見た時など、血にまみれた姿が、痛そうで可哀そうで胸がどきどきした。
しばらく考えて頷く。
――タニヤザールが、ごめんなさいと謝ったらゆるしてあげよう。
明日はこの計画の仕上げをするが、今までの骨折りからすれば何の造作もない。
難行成就の余韻に浸りながらランプの灯を消し、窓の外へ目を移した時だった。星空を切り取った山陰の中に、小さな光がちらちらと瞬いている。方向からして果樹園に隣接したカボチャ畑で、確か農具置き場の小屋があったはずだ。
そういえば、と思い当たることがあった。秘密の作業を開始してこの一週間ほどの間に、二回ほど同じような瞬きを見たのだ。その時は執行書を書き写すのに頭が一杯で、気にする余裕もなかったのだが、こうも続くとは、さすがにおかしい。好奇心がむくむくと湧き上がる。明日の午後の行き先は決まったと、姫は台の上を片付けた。
エリダナ・チェローミア姫の毎日は、かくも忙しいのである。
<語句説明>
●外の者
国や領主の支配を受けてない民・ヴァルド(森の民)、シーリア(海の民)、ローティ(路上の民)がいる
●イディン
この架空世界。獣人・竜がいる。
●ラスタバン王国
イディンの中でも、裕福な大国。首都ティムリア。