不思議な魔法
「嫌がってるだろ! 分かんないのか!」
誠也の迫力に夏樹が思わず後退る。
一方、真也は、気色ばむ弟と腕の中の里奈を見てにやりとした。
「……遅いよ、誠也」
「何考えてんだ、兄貴も! こんな見世物が楽しいか!」
誠也は片手で里奈を抱えながら、兄と夏樹に向けぐっと拳を握りしめる。
「おおっと。俺、殴られるのはごめんだなあ。真也さん、もういいでしょ?」
両手を降参するように上げながら夏樹が言った。
「そうですね、殺されかねない」
真也も頷き、マイクを取った。
「皆、騙してごめんね! この夏樹くんは……里奈ちゃんの実のお兄さんでした!」
「ええ〜っ!」
場内のブーイングと共に、誠也がずるっと倒れ込みそうになる。今度は里奈が誠也を支えた。
「なっ……」
誠也は信じられない様子で、里奈、夏樹、真也と代わる代わる3人の顔を見た。得意満面で微笑む、兄ふたり。
「ほんと、に?」
最後に再び里奈を見つめて、情けない声で言うから、腕の中で里奈もこくこくと必死で頷く。それを見た誠也は、また怒りを露わにした。
「……こんな手の混んだことを! ふざけんのもいい加減にしろよ、兄貴!」
里奈を抱えたまま、兄に掴みかかろうとすると、真也は身体を翻して大きく腕を振り上げ、DJブースに向かって、ぱちん!と指を鳴らした。
「ゲームオーバー!」
ぱっと照明が落ち、ミラーボールが回り始めた。切なげなギターのイントロが流れる。
「さあ、皆さん、お待ちかねのチークタイムです! 昔を思い出して浸るのもよし、この機に乗じて告白するもよし! カップルの人も、そうでない人も、今日は大いに楽しんで下さい! 初めの曲はELOのStrange Magic!」
いつの間にか真也はいなくなっていた。フロアに次々とカップルが歩み出る。何色ものスポットがミラーボールに当たり、きらきらと跳ね返った。赤、青、緑……ドロップスを撒き散らしたような光の中、片手で抱き寄せられたまま誠也を見上げる。彼の頬に、肩に、きらきらと雨粒のような光が零れる。降りかかる光を追うように、誠也は里奈の頬に指を滑らせた。
「里奈」
名前を初めて呼び捨てられて、心臓がどくん、と跳ねた。
返事をしようと口を開いたが……出来なかった。すぐに、きつく抱きしめられてしまったから。
「……会いたかった」
苦しいくらい力をこめられる。
この腕、この胸。
ああ、誠也さんだ。
もう一度、この温もりの中に戻ることができるなんて。
誠也は切なげに息をつき、耳元で囁く。
「もう、離してあげない……いいね?」
胸がつぶれそう。信じられない。流れる曲はStrange Magic——不思議な魔法。ああ本当に、私は魔法を使えたの?
「綺麗だ」
誠也は少し身体を離して、里奈の姿を上から下まで眺めた。
「今日会場に入ってからずっと、目で追ってた」
もう一度優しく抱きしめて里奈の髪を梳き、頭に顔を埋めた。
「いい匂い」
「……誠也さん」
誠也は潤んだ瞳で里奈を見つめる。
「……何?」
何でもない言葉なのに、その声が甘すぎて震える。
でも聞かなければ、あなたの気持ちを。
「もう、いいんですか?」
「ん?」
「……順さんのこと」
誠也はああ、と呟いて、里奈の髪を撫でた。
「ここずっと、式のことなんて吹っ飛んでた。今日よく仕事出来たと思うよ。ろくに寝てないんだ……君の事ばかり考えてたから」
指で髪を梳くようにされて、ぞくぞくと背中に快感が走る。
「順の事は本当に好きだったけど、所詮奪う所まではいかなかった。でもさっきは君を誰にも渡したくなくて、身体が勝手に動いたよ。それが、答えだ」
本当に? 熱い眼差しでショコラのように溶けそう。
その時、曲が変わった。
それは里奈の部屋でヘッドホンを分け合って聴いた、”愛こそすべて”。
「……よかった。約束通り、君と踊れる」
誠也は嬉しそうに微笑み、里奈を抱いたままフロアへ滑り込んだ。あの時の言葉を、覚えていたなんて。光の水玉が降る中で、誠也がゆっくりと里奈の身体を揺らす。
里奈は胸が一杯になり、ただ誠也を見上げるだけ。
フロアはカップルで溢れていた。
千春はうっとりと賢の胸に頬をつけている。海が順に何かを囁き、順の頬にキスをした。いつのまにか真也も智を大事そうに抱えて踊っている。誠也は彼らを一瞥して、また里奈に向き直った。
「ほら、もう皆自分の相手に夢中で、誰も見てない」
彼は里奈の片手をぎゅっと握って、もう一方の手で背中を引き寄せる。
「ふたり……きりだ」
耳から、そして彼の胸に触れている頬から、空気と骨を伝って声は響く。
曲に合わせて揺らされる、身も心も。
今日の彼の身体は覚えていたよりずっと熱かった。
「里奈……のど、渇いた」
苦しそうに言うから。
「じゃ、何か飲み物を」
フロアから離れようとする里奈の手を誠也は強く引き寄せる。
「……違うよ」
彼はそう言って、里奈の顎を片手で上げる。燃えるような眼差し。もう一方の手はしっかりと身体を抱き寄せた。
「分からない?」
額をつけるようにして、吐息が掛かる。
「『のど、乾いた』」
はっとした。さっきのゲーム。
『甘い』は嫌い。
『熱い』は欲しい。
『のど乾いた』は……愛してる。
「乾いて、乾いて……もう、からから」
胸がきゅうっ、と絞られる。
「君でなきゃ、駄目なんだよ。どうしても……『熱い』」
『熱い』は……欲しい。唇は、あと1センチも離れていない。かかる吐息に身体が震える。
「誠也さ……」
言おうとした言葉は、誠也の唇に飲み込まれた。
皆に聞こえるかと思うほど音をたてて啄まれた後、口づけはどんどん深くなる。
食べられてしまいそう。
始め戸惑っていた里奈も、いつしかそれに応えうっとりと背中に手を這わせていた。体中が、彼を求めて触れた所から流れ込む。
唇を名残惜しげに離すと、誠也は耳元で囁いた。
「おかしくなる。初めてだ……こんなキス」
色っぽい声に、膝が崩れそうになる。
「そんな……だっていつも月曜の夜、色んな人と」
「あんなの。皆向こうからだもん」
そうか。ずっと順さんが好きだったから、本当に好きな人とキスをしたことがなかったんだ。
——本当に、好きな人。
それが自分の事だと、まだ理解出来ない。
「里奈……俺のこと、嫌い?」
好きでなくて、嫌い。怯えるように訊く誠也に、自分の言葉が彼を力づけられることを知る。
望まれるなら望まれた分だけ、あなたにあげたい。
「ずっと、好きだった」
誠也の目が見開かれる。彼の頬に指を這わせて、付け加えた。
「もう、きっと最初から」
誠也は感じ入ったように長い息を吐いて下を向いた。そして又顔を上げて目を瞬かせ、里奈を見る。
その眼差しの強さ。
「……『恋に、堕ちちゃった?』」
初めて、誠也らしく、にやっと笑う。
「……うん。堕ちちゃった」
素直に答える里奈に、誠也はたまらない、と言うようにきつく抱きしめた。
「里奈、ここを抜けだそう」
「えっ」
「うちに来て? ここからそう遠くない」
「だって、まだパーティーが」
「パーティーは抜け出すもんだって相場が決まってる」
そう言って、しっかりと里奈を抱えたまま、フロアを移動する。
外はまだ雨だった。誠也がふたり分の荷物を持ち、里奈を抱え込むように自分の傘に入れる。駐車場に着くと、誠也は車の助手席を空け、手を取って里奈が乗り込むのを助ける。ドアを閉める直前、傘を差し掛けながら手の甲にうやうやしくキスをした。
後ろの座席に自分と里奈の荷物を放ろうとして、誠也の動きが止まる。
「どうしたの?」
「見覚えのない荷物が」
里奈が振り返ると、白いスーツケースがひとつ置かれていて、メモが貼り付けられている。
「うちの店員をお持ち帰りの際は、彼女にこのスーツケースを渡されたし。
ーー真也」
「……!」
ふたりで読んで、目が点になる。そこまで折り込み済み? 誠也は、はあっとため息をついた。
「何か俺、兄貴の手の上で踊らされてるような気がするわ」
そう言いながら、運転席に乗り込み、助手席の里奈に素早くキスをする。
「この際、手段は選ばないけどね」
里奈の手を握りしめる。
「俺は……狡い男だから」
端のつり上がった大きな瞳が輝き、口の端が上がる。
山猫、復活。
里奈の身体がぶるり、と震えると同時に、エンジンがかかった。里奈の身体に覆い被さるようにシートベルトを嵌め、戻り際にまたキスをする。
「飛ばすよ?」
サイドブレーキが外される。
強くアクセルが踏み込まれた。