魔法使いの弟子
里奈がドアホンを押すと、開けてくれたのは真也だった。
「申し訳ありません、こんな遅くに」
里奈が頭を下げると、真也はわかってる、というように頷いた。
「いいよ。月曜の夜って事は、どうせ、誠也のことだろ」
真也は上がってて、とスリッパを出した。財布を持って外に出ると、待っていたタクシーに料金を払って戻ってきた。
「すみません。明日返しますから」
「いいよ、そんなの」
居間に入ると、智がソファに足を投げ出して座っていた。
「ごめんね、こんな時間に妊婦さんを起こしちゃって」
「ううん、さっき足がつっちゃって、真也にマッサージしてもらってたとこなんだ」
智はそう言いながら里奈の泣き顔を見ると、手を伸ばしてくる。里奈は隣に座り、彼女にされるがまま抱きしめられた。
「……誠也さんね?」
ぽろり、と頷く代わりに涙が頬を伝う。どうしてこのふたりは、すぐわかってしまうのだろう。
「悪い、里奈ちゃん。それ、俺のせいだ」
里奈の話をひとしきり聞いた真也は、がばっと頭を下げた。
「こないだの金曜日の夕方、里奈ちゃんに早退してもらって、智の診察に付き合ってもらった時があったでしょう。実はあの日、店に君のお兄さんが来たんだよ」
先週の金曜日、急に智の体調が悪くなり、忙しい真也の代わりに里奈が付き添って行ったのだ。
「店に?」
夏樹は母親との約束もあり、月に一度は抜き打ちで里奈の部屋にやってくる。先週も、確か火曜日に訪ねてきたばかりだった。
「そう。ここんとこ、どうも君がつらそうにしてたから、心配だっていってさ。心当たりないかっていうから、つい、誠也のこと話しちゃった。ほんとにごめん」
仕事場に乗り込んでくるほど、私は弱り切って見えたのか。もう一度深々と頭を下げる真也に、里奈は首を振る。
「いえ、兄がご迷惑お掛けして、かえってすみませんでした。それで、あの、過ぎたことはしょうがないですけど……誠也さんがうちに来てるって、どうして知ってるんですか」
ああ、と真也は頷く。
「うちではお袋が気を揉んでてね。誠也のヤツ、以前ならしょっちゅう外泊してたのに、ここのとこの月曜日は必ず夜中か明け方に腑抜けみたいになって帰ってくるって。式の準備や引っ越しで、馬鹿みたいに忙しい筈なのにさ」
「引っ越し?」
「聞いてない? アイツ新しく部屋借りたんだよ。賢さんと順の家は、調理師だった順の母親の真弓さんが改造した家でね。Juneの下ごしらえするのにキッチンがやたら広いんだ。だからそこを順達に譲って、賢さんはうちの実家に来ることになったわけ。やっと結婚するふたりの邪魔したくないだろ。誠也も来週には実家から出て行くことになってる」
それなら尚更、うちに来てる暇なんて無かったはずなのに。そんな素振り、全然見せずに。
「ともかく俺とお袋は、ヤツが順のことでやけになって、何かやらかしてるんじゃないかと思ってさ。ふたりで問い詰めたの。そしたら君んちに行ってるって。俺が『手出すなって言ったろ』って詰め寄ったら『ハグしてるだけ、まだ寝てない』なんてほざきやがった」
真也はくしゃっと顔を歪めた。
「わかる? 里奈ちゃん。かんたんに女をとっかえひっかえしてたような男が何ヵ月もハグしてるだけなんて。挙げ句の果てに“まだ”寝てないと来た」
里奈は首を振った。わからない、わかる筈もない。
「私は、今までの女の人みたいに色っぽくないし……神崎ビルで働く真也さんの店の店員で、智の友達だから?」
一生懸命答えを出そうとする里奈に、真也は、はあ、とため息をついた。
「俺が言う事じゃないし、そう思ってるなら、それでもいいけど。君のお兄さんだって、わざと試したんだろ? 期せずしてなかなかいい仕事してくれたよ」
いい仕事? 里奈は真也の言うことの半分もわからず、ぽかんとする。
「里奈」
それまで黙っていた智が身を乗り出した。
「誠也さんが好きなのよね?」
「智」
「そうよね?」
智の気迫に押され、里奈は正直に頷いた。
「なら、大丈夫」
智はにっこりして里奈を抱きしめた。
「真也って魔法使いなんだよ? 里奈はその一番弟子。きっといろんな魔法が使えるようにしてくれるから」
なんとも荒唐無稽な励まし。でも天使みたいな智の微笑みを見ていたら、信じてしまいそうになる。
幸せそうなふたり。ペアのマグカップ、結婚式の写真、赤い薔薇のドライフラワー、積み上げられたベビー用品。ああ、あの誠也さんもこんな風に幸せになれたら。私でなくてもいい。あのはぐれた淋しい山猫のような男が、幸せになれるのなら。
「とにかく君の兄さんに電話だ。血眼になって君を探してるだろうから
真也は携帯を取りだしてボタンを押す。
「もしもし。あ、すみません、神崎真也です。妹さんは僕のうちにお預かりしてます。はい、大丈夫ですよ。今日は遅いんでうちに泊めますから。はい? あ、いやいや、ヤツにはいい薬ですよ。なかなかいい布石になったし。ええ、それは予定通りで、はい、お願いします。じゃあ、おやすみなさい」
ぱたん、と携帯を畳むと真也はにっこりした。
「お兄さん、かなりへこんでたよ。相当なシスコンなんだなあ。後でちゃんとフォローしてあげてね? じゃ、寝よっか」
「あ、あの、なんで兄の番号を。予定通りっていったい……」
「智が言ったでしょ? 俺、魔法使いなんだ」
笑ってはぐらかされる。
「真也さんっ」
「……一番弟子を悪いようにはしないよ」
真也は人差し指をたてて、魔法の杖の様に里奈に向けて振って笑った。
順と海、千春と賢の合同結婚式は6月の雨降る火曜日、ちょうど順の母真弓の命日だった。6月に縁があるJuneの親子は、他界した真弓がこの晴れの日を祝福して雨を降らせたのだと喜んだ。真弓は雨が好きだった。そして皆がそんな真弓を愛していた。Juneの常連客も、ライバルであったはずの千春も、真也や誠也も。
その雨の日の朝早く、里奈は智と真也の家にいた。
あれから誠也は里奈を避け続け、披露パーティーのためのヘアメイクを頼める状態ではなかった。見かねた真也が朝早くでも良ければ家においで、と言ってくれた。
服は前もって智が選んでくれた。
「アクセサリー、何かいいのある? ワンピースが淡い色だからはっきりした色がいいかな、赤とか」
「ああ、ある!夏樹にもらった、赤い珊瑚の。薔薇の形のペンダントヘッド。お揃いのピアスもあるの」
あれから夏樹は悪かった、と謝ったが、あいつには何かもう一泡吹かしてやらないと気がすまない、と息巻いていた。もう夏樹が会うことはないよ、と言うと、そうか? と寂しげに笑った。
智が見立てたのは、フォークロア調のワンピースだった。
淡い杏色の膝上丈で、大きめのVに開いた胸元には細かな刺繍が施されている。袖は7分で手首までたっぷりと豪華なフリルがつき、ウエスト部分はリボンの編み上げ。スカートの下にはペチコートを幾重にも重ねた。動くとふわっと広がって綺麗なんだよ、と智が言った。靴は長いリボンがついていて足首で結ぶトウシューズのような形だ。
「ここまでフォークロアだったら、徹底して、センター分けのおでこにヘアバンド?」
智が言うと、真也は首を振る。
「いいや。あれは男受けしません、却下」
そう言って、ただブラシで念入りに梳かし、ヘアオイルをつける。ふんわりとグレープフルーツみたいな香りがする。
「君の髪は、それだけでいいから」
そこへ夏樹がくれた珊瑚の薔薇のピアスとネックレスをつける。
珊瑚の薔薇は、燃えるような朱赤。
「それ、お兄さんがくれたんだって?」
里奈が頷くと、
「ちょうどいい。使えるな、それ」
と微笑んだ。
全てを身につけ、姿見の前で最後のチェックをする。真也の施したメイクは大人ガーリー。色白の里奈の頬をふんわりとピンクで丸く彩り、リップもふっくら。
「それでも目力だけはアップの方向で」
真也は嫌みにならないくらいにアイラインをしっかりと加えた。昨日から念入りに磨き込んだ蜜のように艶やかな髪は、宝石となって里奈の顔を輝かせている。
「綺麗だよ、里奈ちゃん。君は、素敵だ」
智の前だというのに、真也は恥ずかしげもなく褒めてくれる。仕上げに智がきゅっと抱きしめてくれた。
パーティーの会場は、浅葱町にあるイタリア料理店「Pomodoro」だった。普段は予約で一杯の高級リストランテ、とても貸し切りになど出来ない店だが、順が料理教室のアシスタントをしていた為、オーナーの杏子が快くOKしてくれた。
白亜の城のような美しい建物の入り口に、立てられたボードには、
「Welcome to our 70’s Wedding Party!」
と書かれていて、受付にはふたりの男女が座っていた。オレンジ色のティアードのキャミソールトップを来た美人が大きなサングラスを頭に挿している。一方の男性は作り物のもみあげと髭を付けて、衿の大きなウエスタン調のシャツを纏っていた。
「ようこそ、って、ああ!」
ノートに名前を書くと、サングラスを挿した女性が微笑んだ。
「あなたが里奈ちゃんね。そのワンピースとっても似合うわ! 私、海の姉の美砂です。こっちは主人の良介、って髭取れかかってる!」
付け髭の良介は、ぺこり、と挨拶すると髭を抑えた。
「何で俺だけ付け髭にもみ上げなんだよ。完全仮装じゃん」
「いいじゃないの。ワイルドで素敵よ?」
ねえ? と美砂は里奈に同意を求めた。素敵、と言われた良介はまんざらでも無いらしくにこにこして立ち上がった。
「君のパートナーはこちらでお待ちかねだよ」
控え室の様な部屋に通される。
パートナー? 真也達の企んだような表情を思い出す。
まさか、誠也さん?
どきどきして部屋を覗いて、唖然とする。
フリルがついた白いサテンのシャツに、きらきらしたバックルの付いた太いベルト、ベルボトムのパンツ。一昔前のアイドル歌手みたいな男が立っていた。
「よお、里奈」
と彼は不敵に笑う。
「……どうして?」
そこにいたのは、兄の夏樹だった。