哀しい夜の終わり
それからというもの、誠也は、月曜の夜になると里奈の家にやってきた。
美容室の予約がない週も突然「行く」とメールがあって、慌てて部屋を片付け終わった頃、ドアホンがなる。
部屋で簡単な食事を済ますと、誠也は儀式の様に里奈を抱きしめる。
キスも、勿論それ以上のことも、ない。
雪山で遭難したみたいに、ただひたすら温もりだけを分け合って。
そして、朝になる前に帰っていった。
抱きしめながら里奈が優しく背中を撫でると、誠也は自分の気持ちをスクロールされているかのように、様々な話をした。
普段何もやらない誠也だが、千春の作ったロイヤルミルクティが好きな順のために、それだけは母に習って上手く作れるようになったこと。月曜日の夜、通用口で待ち合わせるのは、順に見せつけようとしたのが始まりで、そのうち女性達のステイタスのようになり月曜恒例の行事になってしまったこと。百戦錬磨の恋愛の達人と思っていた彼が、まるで修学旅行の高校生みたいな打ち明け話をする。
疲れている時は猫のように里奈に身体を擦りつけ、そのまま眠ってしまうこともあった。そんな時は里奈も一緒に眠ってしまったふりをする。少しでも長い時間、彼と触れ合っていられるように。
ーーもっと近く、もっと深く。
そう願わない筈がない。
でも自分が欲を出せば、やっと落ち着いてきた彼を、また悩ませ不安定にする。彼を混乱させるくらいなら、このままでいたい。ううん、本当はこの関係が壊れることが何より怖い。
月曜だけ、この時間だけでいい。
ーーそばにいさせて。
里奈は誠也の胸に頬を寄せながら、溢れる涙を袖口でこっそり拭った。
順達の結婚式の計画は滞りなく進んでいた。
結局、順のヘアメイク担当は誠也のままらしい。
里奈は式には招待されなかったが、披露宴と二次会を兼ねたパーティーに誘われた。
「70’sパーティ?」
ブルームで休憩に入る時、店長の真也から里奈に招待状が渡された。
「そう。お袋たちと、順たちのお客が来て、両方楽しめる企画、何かないかって事で。立食のちょっとした仮装パーティだよ。ま、70’sテイストの格好ならOKってことで」
「なんか、智が張り切りそうな企画ですねえ」
里奈は仕事馬鹿の親友の楽しそうな姿が目に浮かんだ。
「そうなんだよ!」
真也は大きく頷いた。
「妊娠中毒症が心配だから、式だけでパーティーは出ないでいいって言ったんだけどねえ。当日は大人しく座ってるから参加するってきかないんだ。俺の格好とか、里奈ちゃんのも何か考えてるって言ってたよ」
「うわ、楽しみ」
「それから、招待客はパートナーがいるなら連れてきてもいいってことにしたんだ。連れてくる人がいたら、この返信用葉書に書いといて、いい男一名、とか」
そう言いながら、真也はにやっと笑った。
「でも、里奈ちゃんは誠也がいるもんな」
「え、そんなんじゃ……ないです」
思わず俯く里奈に、真也は意外そうな顔をした。
「そう? 結構手懐けてるみたいだけど?」
里奈は首を振った。この兄はどこまで知っているのだろう。誠也が月曜の夜のことを話しているとは思えないけど。
「お陰で大分ヤツも落ち着いてきてるみたいだよ。ありがとな、里奈ちゃん」
聞き返す暇も与えず、真也は手を振りながら休憩に入ってしまった。
式をさ来週に控えたその週の月曜日も、誠也は里奈の部屋に来ていた。
彼は床に座ってベッドに背を預けた後、足と腕の鳥籠の中に里奈を閉じ込める。
なぜただ抱きしめるだけのために、毎週ここにくるのだろう。こんな貧相な身体、抱き心地なんてちっともよくないと思うのに。いや、むしろ余計な欲望が芽生えないからいいのかな。そこそこ温かくて、背中を撫でたり、話を聞いてくれるーーちっぽけな付加価値つきの抱き枕。
彼は今夜も里奈を優しく後ろから抱きしめて、自分が艶やかに整えた長く滑らかな髪を幾度も撫でた。
「里奈ちゃんも、パーティーは出るんだろ?」
彼の口から順の結婚式の話が出るとは思わなかった。
「……うん」
間近に迫る挙式の日。智の時は誠也と事前に何回も打ち合わせがあったと聞く。順とも相談をしたりしているのだろうか。思いは巡るが、里奈の口からは何も訊けなかった。
「もう、さ来週だよなあ。当日は俺も兄貴も結構働かされるんだ。話す暇もないかも。でも一曲くらいは踊りたいな」
「踊る?」
「うん、会場を70年代のディスコみたいにするんだよ。だから里奈ちゃん、ラストのチーク・タイムくらいは俺と踊って?」
そんな誘い、なんだかアメリカの青春映画みたい。ときめきを隠して首を振る。
「私、ダンスなんて全然」
臆する里奈に、誠也はふふ、と笑った。笑い声が彼の胸から里奈の背骨に伝わる。こんなことに小さな幸せを感じて。
「チークなんてただくっついて揺れてればいいんだよ」
彼は持っていた自分のi podを操作して、ヘッドフォンの片耳を里奈の耳に入れた。
「これ、良く当時のラストソングだったってお袋が言ってた。”愛こそすべて”」
誠也は里奈を立たせ、そっと抱きしめるようにした。誠也の胸に顔が収まり、曲のビートを刻むように、彼の胸の鼓動を感じる。耳からは切なげな旋律を歌うファルセット・ボイス。
「ああ、この曲」
「知ってるの」
「お母さんが、お父さんと踊った思い出の曲だって。何度もくっついたり別れたりして、その度この曲を聴いたって。結局別れちゃったけど」
「そういう曲だもんな。忘れられない、君がすべてだって」
誠也はゆっくりと曲に合わせて里奈の身体を揺らした。
誠也も、順を想ってこの曲を聴いたのだろうか。
そして今も、私を抱きしめながら、順さんのことを。
ーー順さんが彼のすべて そして 今でも彼のすべては……
誠也が指で涙を拭うまで、泣いているなんて気がつかなかった。
「里奈ちゃん?」
「……何でもない」
首を振りながら両手で顔を覆った。誠也は心配そうに顔を覗き込みながら、里奈の両手を剥がした。涙でぐしょぐしょになった里奈の頬を、誠也は自分のシャツで拭ってしまう。
「里奈ちゃん、聞いて。俺ね……」
その時。
ピン、ポンーー。
ドアホンが鳴った。
こんな夜更けに? 心当たりがない里奈は思わずびくっとする。真也はヘッドフォンのリールを巻き取りながら、大丈夫、と言うように頷いた。
「……俺が出てやるよ」
誠也は里奈を背中の後ろに追いやって、玄関に歩いて行く。
「どなたですか」
ドアに向かって誠也が言うと、相手は黙っている。
「どなたですか」
もう一度言うと、今度は不機嫌そうな声が返ってきた。
「お前こそ……誰だ」
里奈ははっとした。良く響く低い声。まさか、こんな時間に。
がちゃがちゃ、と向こう側から鍵を開ける音。
「えっ」
誠也が思わず里奈を見た。開いたドアの向こうに立っていたのは、
「里奈」
兄の夏樹だった。
「夏樹。なんでこんな時間に」
里奈の言葉を手で遮って、夏樹はぐっと誠也を睨み付けた。
「里奈を弄んでるなら、止めてもらおうか」
「夏樹! そんなんじゃない、この人は」
そう言おうとして言葉が止まる。
彼は、私の、何。
どう言ったら、夏樹は納得するというのだろう。口ごもる里奈を制して、夏樹は玄関の靴箱をあけた。
「俺は、こいつと暮らしてる。ほら、ここに俺の靴があるし、タンスには俺の着替えも、下着もある」
「夏樹?!」
説明しようという里奈を制して、夏樹は目で黙れ、と言う。なぜわざと誤解させる様な言い方を?
誠也はしばらく唖然としていたが、やがて諦めたような笑みを浮かべた。
「なあんだ……里奈ちゃん。付き合ってる人、いるんじゃない」
どこかで見た表情。
ああ、これは。
月曜の夜。その時々の女性を連れて、街に消えて行く時の、あの、顔。
人慣れしない、野生の顔。
「早く言ってくれればよかったのに」
「違う、夏樹は……!」
慌てる里奈を、夏樹が抑える。その様子に頷きながら、誠也は微笑んだ。
「大丈夫。安心して? もう来ないから」
「誠也さん!」
「じゃあね、里奈ちゃん」
誠也は振り返りもせず出て行った。
ばたん。
音を立ててドアが閉まり、夏樹はきっちりと鍵を閉めた。
「夏樹! なんてことするのよ! 何で来たの!」
里奈は夏樹の腕をぽかぽかと叩いた。夏樹は、
「じゃあ、お前は、何してんだよ」
夏樹は哀しそうな目で里奈を見た。
「何もしてない! 彼は可哀想な人なのよ。ただ慰めて抱きしめてるだけ。それ以上はキスだってしてない! せっかく落ち着いてきてたのに、あんな言い方したら彼が壊れちゃう!」
必死に説明する里奈にも夏樹は動じず、
「ただ、抱き合ってるだけ、だ? 健全な成人男女がふたりきりで? 笑わせるな」
と軽蔑するように言い捨てた。
「ほんとよ! ほんとに何も」
「それがほんとなら、逆にひどいだろ」
夏樹は里奈の肩を揺さぶった。
「お前を何だと思ってるんだ。俺が乗り込んでもなぜ何も言い返さない? 何としてもお前が欲しい、ってどうして言わない?」
里奈は泣きながら首を振る。
「無理、無理だもん。彼は子供の頃から好きだった人に失恋したばかりで……私にはそんな価値ないし」
「……あいつが好きなんだろ?」
夏樹は苦々しい顔で里奈を覗き込む。
「そのままで、いいのかよ!」
いつも前向きな、兄の真っ直ぐな瞳。
そんな風に素直に、好きな人に思いを告げられたら、どんなにいいだろう。
狡くても、意気地なしでもいい。
ーーどうせ叶わぬ恋なら、少しでも長く側にいたかったのに。
里奈は鍵と携帯を握りしめると靴を履いた。
「おい、里奈!」
そのまま外に飛び出した。
辺りを見回しながら、誠也の姿を探したが、見つかるはずもない。
ふと、絶望的な考えが頭に浮かぶ。
ああ、もしかしたら。
今頃、別な誰かの腕の中なのか。
里奈は張り裂けそうな胸を抑えて携帯を開いた。
履歴をスクロールしながら、少し迷ったが、一つの番号を押す。
「……ごめんね、遅くに。今から行っていい?」