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愛という名の絶望

 順と海、千春と賢の結婚の噂は、瞬く間に広がった。

 Juneは気の早い常連客が届けた祝いの花で毎日一杯だった。

「まだ3ヶ月もあるんだぜ?」

 賢はまいったよ、と言いながらも、笑顔を隠せない。いつも冷静だった順でさえ、その喜びが匂い立つ様だった。彼女の美しさは瑞々しい果実のようで、婚約者の海もいつも以上に賞賛の眼差しを投げかける。

 家族との死別など、今まで様々な辛酸を舐めてきた順と賢、そして千春は、未だかつてない幸せに酔っているようだった。


 そしてやってきた2週ごとの月曜日。

 あれ以来誠也とは会っていなかった里奈は、予約の7時、恐る恐る美容室を覗く。店の中はJune同様、“御祝”と札の付いた花籠や鉢が、所狭しと溢れていた。

 誠也は花の中でいつも通りの笑顔を浮かべ、彼女を迎えた。

「いらっしゃい」

 それでも鏡越しで見ると、以前よりやつれた印象は隠せない。里奈は胸が詰まった。

「今日も、お任せでいい?」

 覇気のない台詞。いつもみたいにやり合う気力もないのか。

「あ、そうだ、先に言っとくね。今日この後、兄貴がここに来るんだ。ちょっと相談したいことがあって。今夜は夕ご飯一緒に食べられない。ごめんね」

 里奈は力無く首を振った。月曜の夕食に行くかどうかは、ふたりにとってはいつもゲームの様な駆け引き。こんな風に先に謝られるようなことではなかったのに。


 いつもの彼は、横暴で気ままな山猫。

 本心を隠し、人慣れしない風を装い、

 絶えず里奈を振り回した。

 なのに今は、

 寂しさを滲ませ、愛を乞うて鳴いている。

 こんな家猫の彼は見ていられない。

 

 里奈は泣きそうになった。


 ちょうど最後の仕上げにヘアオイルを馴染ませている頃、兄の真也が訪れた。

「ああ、里奈ちゃん。来てたんだ」

 鏡越しに微笑みかけながら、しみじみと里奈を見る。

「……ほんと、誠也のとこに通うようになってから、すごく綺麗になったよな」

 里奈は心の中で苦笑した。


 ーーわかってる。

 それは、彼の技術だけじゃない。

 せめて彼が望むようにと、髪や肌の手入れをしながら、

 ただじっと2週間を待つような、

 絶望的な恋に、堕ちてしまったから。


 「……はい、出来上がり」

 誠也の掠れた声がして、いつもの様に両肩に温かい手を置かれ、鏡越しに覗き込まれる。かつて挑むようだった眼差しは見る影もない。それでも鏡の中、ふたりで一枚の絵になる幸せを、里奈はしっかりと胸の中に刻み込む。

 誠也さん。

 あなたを哀しみの淵から引き上げてあげたいのに。

 私に、何が出来る? 

「ありがとう……ございました」

 何を言える筈もなく、兄弟ふたりに挨拶をして美容室を後にする。ふたりは手を振って里奈を見送った。相談と言っていた。結婚式のことかもしれない。自分の母親の式でもある以上、誠也は目を瞑ってやり過ごすことすら出来ないのだ。里奈はため息をついてロッカールームに入る。

「あ……」

 ロッカーを開けて思い出した。代金を払う為美容室に持って行ったバッグを忘れてしまい、あまつさえ代金も払いそびれてしまった。何やってるんだろ。里奈は急いで美容室に戻る。

 暗くなった店内。自動ドアは開いたままだった。奥から明かりが漏れて話し声が聞こえる。

「誠也さ……」

 声を掛けようとして覗き込んだ部屋から、苦痛に満ちた声が漏れた。


「無理だ! 順の結婚式なんて」


 今まで聞いたことのない、哀しげに掠れた誠也の声。

「何言ってる。俺がリタイアしてからは、順の担当はずっとお前だろう」

 真也の声は驚く程穏やかだった。

 彼もわかっているのだろう、弟が順を愛していたことを。

「頼むよ。兄貴がやってくれ。兄貴が是非に、って言えば順だって」

 誠也の声が震える。思わず里奈は自分の胸元をぎゅっと掴んだ。

「俺が順のヘアメイクを? 何言ってんだよ!」

 さすがの真也も声を荒げた。

「出来るよ。スタイリングとメイクだけだ。昔は兄貴が順の髪切ってたじゃないか」

 誠也の言い分はまるで子供の喧嘩だ。

「お前、プライドはないのか! 俺は美容師を辞めた人間だぞ!」

 そこまで言って真也は弟の胸倉を掴む。

「今更なんだよ! お前だって今まで海を認めてただろうが! 順の事、まだ諦めてなかったのかよ!」

 誠也は力なく首を振る。

「割り切ったつもりでいたんだ。順の人生を、俺は少なからず狂わせた。その分幸せになって欲しいって、心から思ってた。付き合う先に結婚があるのは当然かも知れないけど、こんなすぐに、順が結婚して、完全に手が届かなくなるなんて、考えもしなかったんだ! ウエディングドレス、長いトレーン、ライスシャワー……式の話を聞くと、どうしようもなく苦しくなる。他の奴の為に俺が順を綺麗にして差し出すなんて」

 残酷な、運命。

「そうだよ、仕方ない。お前は美容師だ」

 真也は諭すように誠也の肩を叩くと、誠也は首を振った。

「……式を台無しにしそうで怖いんだ。平気な顔して持ちこたえられるか、自信がない。こんなこと、兄貴以外に頼めるかよ」

 振り絞るような誠也の声な、里奈まで苦しくなる。

「ばっかやろ!」

 真也は掴みかかった弟の胸倉を突き放し、ため息をつく。そしてふと出入り口に目を遣り、里奈と目が合った。


「里奈ちゃん」


 誠也も振り返り、呆然と里奈を見る。目が、赤い。胸がつぶれそうになった。

「あの、バッグを忘れて……お代も払わなかったし、それで……」

 里奈は自分のカットソーを掴んでいた手を離し、下を向く。その様子を見て誠也は大きく息を吐きだした。

「……待ってて」

 部屋を出て美容室の照明をつける。荷物置き場を見に行ってくれるようだ。

 里奈は真也とふたり、黙って立ち尽くしていた。

「里奈ちゃん」

「はい」

 気まずくて、なかなか上げられない視線を真也に向けた時、意外にも真也は微笑んでいた。

「一番弟子の君に、誠也を……頼んでもいいかな」

 託すような眼差し。

「えっ?」

 その時、誠也の足音が聞こえた。

「ごめん、気がつかなくて」

 そういって里奈のバッグを差し出す。真也は弟の肩に手を置いた。

「誠也、この件は保留な?」

「兄貴……でも」

「俺は帰るよ、やっぱ智が心配だし。昨日もあんまり食べられてないんだ」

 真也は、里奈の肩を掴んで弟の方へ押し出した。

「……里奈ちゃんを送ってけよ」

 真也はそう言って後ろ手に手を振りながら去っていった。


 取り残されたふたりはため息をつきながら目を見合わせた。

「あの……」

 ひとりで帰れますから、と言おうとしたが、むしろ彼をひとりにしてはいけない気がしていた。どうしたら。

 誠也も黙ったままだったが、暫くして重い口を開いた。

「夕飯、どうする」

 ぽつりと誠也が漏らした言葉は、意外にも食事のことだった。

「は?」

「夕飯……食べなきゃいけないだろ」

 里奈は捨て猫みたいな誠也の様子を見て、切なくなる。月曜にひとりでご飯は嫌だと言ってたっけ。でもどこか外食と言っても、この彼の様子では……。里奈は思い悩んだが、ひとつの案が浮かんだ。そうだ。そうしよう。

「あの……ハンバーガーでもいいですか?」

「は?」

「ハミングバードのバーガー買って、うちで食べません? 安くて申し訳ないですけど、いつもご馳走になってるから、今日は私の奢りで」

 にっこりと笑って見せた。

「ハミングバード?」

 この雰囲気に合わない、楽しげな名前。

「知りませんか? 結構美味しいんですよ?」

 里奈は得意気に笑ってみせる。誠也はその様子に一瞬眩しそうに目を細め、弱々しく笑う。

「……じゃあ、ご馳走になろうかな」

 里奈は微笑んだまま力強く頷いた。



 ハミングバードは兄の夏樹が教えてくれた。深夜まで営業していて、チェーン店のものよりもバンズはしっかり、野菜も多め。ボリューム感はあるが、具もチキンや和風ポークソテーなどハンバーグよりあっさり系のものが多くマヨネーズも控えめで、夜でももたれにくい。里奈はおすすめのセット2種類を買い、途中のコンビニで飲み物やつまみまで買って、誠也を家に連れ帰った。


「結構広いんだな」

 誠也は部屋を見回した。以前は兄とふたりで暮らしていた部屋だ。

「でも古いんで、結構家賃は安いんです」

 高校時代から住んでいる部屋は、風呂場は懐かしいタイル張りだし、押し入れのふすまは穴が空いていた。それでも大家の許可を得て、凝り性の夏樹と様々な模様替えをして何とか人を呼べる程度の部屋にした。 

「落ち着くよ。俺んちもわりと古い家だから」

 そう言いながら絨毯の上に胡座をかく。里奈はテーブルにラテのカップとバーガーを置いて、どうぞ、と促した。包装紙を剥がして一口囓った誠也は、意外そうに里奈を見る。

「……たしかに美味い。よくこんなとこ知ってるなあ」

「仕事で遅くなると、つい外食になっちゃって。それだって少しでも身体の良さそうなものを選ぼうと思って。昼はいつもバランスばっちりだから、順さんには感謝してます」

 そう言って、あ、と思う。誠也は笑って、いいんだよ、と言い、又バーガーにかぶりつく。よかった、食欲はあるんだ。少しほっとする。


 バーガーを食べ終えた彼は、包装紙をくしゃくしゃと丸めた。

「……俺さあ、ガキん時から順のことばっか追いかけてたよ。だけど典型的ないじめっ子気質でさ。好きだから構い倒していじめちまう、みたいな。いっつも順を泣かせてた。泣いてる順を庇って俺のことを怒るのが兄貴の役目で。そりゃあ順だって、兄貴を好きになるよなあ」

「え?」

 順さんが、真也さんを? はっとした里奈を見て誠也は自嘲気味に笑う。

「青春ドラマみたいだろ。俺は、順が好き。順は、兄貴が好き。兄貴は俺の気持ちを知ってて、順には手を出さないって決めてたみたい。親父が死んでから、兄貴は俺の父親みたいなもんだったから」

 知らなかった、そんな報われないループがあったなんて。

「順が高校の時、順の母親の真弓さんが事故で亡くなってね。賢さんがショックで飲んだくれてどうしようもなくなったんで、見かねたお袋が順を引き取ったんだ。俺は順と一緒に住めるのを喜んだけど、実際は地獄だったよ。順は兄貴の事ばかり見てる。兄貴は順を諦めさせたい一心で、つまんない女を家に呼んだりして。順が可愛そうで、見ていられなかった」

 誠也はラテのコップをくいっと傾け中身を飲み押した。

「俺もおかしくなってたのかもしれない。順に言ったんだ。うちのお袋は、学生時代から順の父親の賢さんが好きだったって。勿論俺たちの父親にも愛情はあったらしいけど、結局はずっと賢さんのことを見てたんだって。そう言えば、順はお袋と気まずくなって、出てくんじゃないかと思ったんだ」

 誠也は目を手で覆うようにした。

「兄貴と、とっくみあいの喧嘩になったよ。『真弓さんが亡くなって、父親とも離れて暮らすことになったのに、どんなに不安定な状態か分かっててそんな事言うのか』って。でも思惑通り、順は住み込みの働き口を探して出て行った。だけどそれ以来お袋と順は何年も凝りを残したままになった。つい去年やっと仲直りしたらしい。俺は結局、家族や順を傷つけることしか出来なかったんだ。」

 最低だろ。そう言って誠也は何かを振り払うように首を振った。

「そんな時、兄貴が智ちゃんを好きになって。そんな資格ない癖に、今度は俺が順を守る番が来た、と思ってた。でも海が、順を見つけた。順がストレスで呼吸困難になって俺が慌てている所に奴は来て、見事な手際で順を助けた。俺との長い付き合いなんて、クソの訳にも立たなかった」

 空のラテのカップが誠也の手の中でくしゃりと潰れた。

「今まで俺が散々傷つけて暗くなっちまった順を、海は変えてくれた。兄貴の結婚式にも笑って参列して。そしてびっくりするほど、綺麗になった」

 誠也は天井を向いてふっと息を吐き出す。

「わかってるんだ。奴でなきゃ、順は羽ばたけない。奴でなきゃ順を守れない。俺は理解してるつもりだった。でもいざ結婚となると、どうしようもなく動揺してさ。馬鹿だよな、俺。頭ではわかってるんだけど」

 不器用な人。子供みたいに愛情を欲しがっているのに、自分の気持ちはこれっぽっちも相手に言わず、ずっと自分を追い込んで。

「里奈ちゃん」

 誠也は里奈を見つめた。その眼差しの、身を切るような哀しみの色。

「はい?」


「お願い。ハグ、させて」

 

 大きな目が今にも泣き出しそうに潤んで。


「……ハグだけでいいんだ」


 絞り出すような声に思わず里奈から手を差し出した。すぐさま大きな身体が、飛び込んでくる。

「ごめんね、里奈ちゃん」

 里奈は何度も首を振り、彼の背中に手を回してそっと撫でた。温かい身体。甘い香り。でも皮膚から伝わる感情は、身を引き千切られるほどの苦しさ。

「こんな男で、ごめん」

 ううん、狡いのは私の方だ。

 彼の弱みにつけこんで、彼をこうして抱きしめている。

 どんな理由でもいい。 

 どんな方法でもいい。

 彼から止めどなく溢れるこの哀しみを受け止めてあげたい。


 里奈は腕の力を強くした。

 誠也もまた、深く息をついて里奈を抱き返す。


 愛という名の絶望を、両手一杯にかき抱く。

 ふたり、一緒に。

 

 



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