彼の真意
2週毎の月曜日の夜、里奈は誠也と食事を共にするようになった。
ヘアケアやマッサージを終え、最後に髪を乾かす段になってから、
「そうだ、今日は何食べに行こうか」
と思いついたように言い出すのだ。
里奈が断ろうとすると、ドライヤーを止めて、
「行かないならこのままだよ」
と脅迫めいた台詞を吐く。
本当に嫌なら、濡れ髪のままでも逃げればいい。一階にあるブルームの控え室に降りて行けばドライヤーくらいおいてあるのだから。
しかし、里奈にはできなかった。
彼の美しい手さばきから生み出される、カットの素晴らしさ。スリリングなゲームのような会話。心地よいマッサージ。それもいい、悪くない。
でも何より心を惹き付けるのは、最後の最後、彼と同じ鏡の中に映り込む瞬間だった。
彼の手によって美しく磨き上げられた自分の背後から、満足気に微笑みかける誠也。
その時ばかりは、彼の隣にいても許されるような気がする。
私が、そして何より彼が、幸せそうに見えるから。
もう、否定は出来ない。
ーー彼が、好きだ。
人慣れしない寂しがり屋な、山猫のような彼が。
“本気の恋愛なんて、突き詰めたら絶望の連続だよ。”
誠也自身の言葉を、何度も噛みしめる。
彼もかつて、こんな思いをして、
そしてきっと今も、傷は癒えぬままなのだ。
今夜もふたりで、ただご飯を食べ、少しのお酒を飲む。からかう様なほめ言葉や、挑発的な口説き文句。本気でなくてもお酒より里奈を酔わせる。それを気付かれたくなくて、険のある台詞で冷たくあしらって。彼もただやんわりと受け止めて微笑むだけ。
でもそこまで、だった。
いつも駅まで送ってくれても、抱き寄せることもなく、キスのひとつもしない。
あんなに浮き名を流している彼なのに。
従業員だから、それとも真也への義理立てか。
いずれにせよ、それが彼なりの誠意なのかもしれなかった。
「ケーキ、買ってきたぞ」
3月の初め、里奈の誕生日の夜、兄の夏樹がアパートに訪ねてきた。
「それって絶対、夏樹が食べたいだけでしょ」
「ばれたか」
里奈は笑いながら甘党の兄からケーキを受け取る。ふたりきりの兄妹は未だ仲が良く、里奈は兄を名前で呼んでいた。
ふたりは高校生の時からここで一緒に暮らしていたが、去年の始め夏樹が、“会社に便がいい場所に部屋を見つけたから”といって出て行った。ふたりの母親は、お金が掛かる上に里奈のひとり暮らしも心配だと、未だに文句を言う。そもそも兄妹が実家を出たのは、その母が連れてくる恋人に気兼ねしての事だというのに、勝手な話だ。それでも頭のいい兄は、月に一度は抜き打ちで里奈の様子を見に来るなど、様々な条件をつけて母親を説き伏せ、保証人の欄に判を押させることに成功した。
引っ越しの手伝いに行ってみると、夏樹の新居は里奈の勤める神崎ビルのある笠倉町の隣駅にあった。
「ずるい! 私もこっちがいい!」
「そう言われると思ったんで、黙ってた」
夏樹はぺろりと舌を出し、“実は好きな人が出来て、その人の近くに住むためなんだ”と渋々里奈に告白した。 “そろそろ本気モードで行こうと思うんだけど、その人の指輪のサイズを調べるにはどうしたらいい?”なんて、実の兄から相談される日が来るとは思わなかった。
付き合ってもいないのにいきなり指輪は重いから、と釘を刺しつつ、いい手はないかと策を練った。結局里奈が思いついたのは、里奈の誕生日にかこつけてジュエリーショップに行き、ついでに薬指のサイズを計らせてもらう、という手口だった。真也に相談すると神崎ビルの近くに知り合いの宝飾店があるという。さっそく里奈は手を回した。夏樹はそこに彼女を連れて行き、「ついでだから」などと指輪をつけさせ、まんまとサイズを調べることに成功した。里奈への報酬は、その彼女が選んでくれたという薔薇を象った赤い珊瑚のピアス。珊瑚は里奈の誕生石だった。その方法にいたく感激した真也は、智へのプロポーズの際も里奈を刺客としてその店に送り込んだ。結果ふたりの幸せに一役買った上、ちゃっかり新しいリングも手にいれたのだった。
「はい、誕生日プレゼント」
夏樹は小さな包みを里奈に差し出した。開けてみると見覚えのある赤い珊瑚の薔薇。今度はペンダントヘッドだった。
「去年とお揃い! また由良さんが選んでくれたの?」
「まあな」
夏樹は嬉しそうに笑った。まだ指輪こそプレゼントしていないものの、彼の涙ぐましい努力の結果、今ではお互いの家を行き来する仲だ。
「もう一年になるんだねえ。そろそろ指輪、いいんじゃないの?」
「買おうと思ってたら震災になっちゃったからなあ。会社のダメージも結構大きくてさ。ここ一年は必死でなかなかそういう気になれなかったんだ。このプロジェクトが成功したら、このヤマが片付いたらなんて伸び伸びになっちゃってさ。ところで」
珊瑚の薔薇を眺めている里奈に、夏樹は珈琲を淹れながら話しかける。
「お前はどうなんだよ」
矛先が変わって里奈は慌てた。
「……付き合ってる人はいないよ」
「付き合ってる人“は”いない、ってことは、好きな人はいるのか。正直だな、お前」
そう言って夏樹は面白そうに笑った。本当にこの兄は侮れない。昔から過保護なくらい心配してくれる。
「お前の今までの男、ろくなもんじゃないからな。今度は必ず俺に会わせろよ」
「そんなんじゃないし」
低下した気持ちを気取られたくなくて、俯いてしまう。
夏樹はキッチンに立って、買ってきたホールケーキを、包丁で真っ二つに割った。
「こっち、お前の分」
「ええっ、こんなに食べるの!」
「ふたりしかいねえじゃん。俺は、食うぞ?」
大きなカレー皿二枚にケーキを分けて、夏樹は嬉しそうにむしゃむしゃと食べ始めた。
その日は水曜。3月14日だった。
「今日はホワイトデイだねえ。お返し、もらえそう?」
Juneでランチが来るのを待ちながら、智が里奈に訊く。今年のバレンタインはたまたま火曜日で仕事も休み。チョコは13日のうちに店で配ったり、店長の真也にあげたり。その月曜は美容室に行く日ではなかったし、誠也には迷っているうちに過ぎてしまった。そんなわけで、今日の収穫は真也にもらったクッキーと紅茶のセットだけ。
「残念ながら真也さんからだけでした! 智はどうせ今夜ラブく過ごすんでしょ」
「ううん、何もないよ。大体バレンタインが何も出来なくて。ほら、ちょうど妊娠がわかった頃でばたばたしてて。と思ったら今はこの通り、つわりがひどくなっちゃうし。お菓子もらっても匂いだけで気持ち悪くなるからいいよ、って真也にも言ったの」
先月智の妊娠が判明し、この神崎ビルは沸きに沸いた。勿論一番喜んだのは夫の真也で、その日のうちにビルの中のベビー用品売り場で、ベビー服を山ほど見繕って両手一杯に紙袋を持って帰って智に怒られていた。そのうち智のつわりがひどくなると、今度はあれこれと妻の世話を焼くようになった。今日も智は食欲がないが、あまり空腹でも吐き気がしてしまうといって、頼んだジュースをちびちび飲んでいる。里奈は心苦しいが食べないわけにもいかず、春野菜のバジル風味のパスタを静かに食べていた。
「智ちゃん、何か食べられそうなものあったら見繕ってあげるからね。おにぎりとか、駄目?」
キッチンから順が声を掛ける。
「え、おにぎりも出来るの?」
「真ちゃんや千春ママからしっかり頼まれてるから。ご飯炊いてあるわよ」
その時、Juneのドアが開いた。
「順、ごめん! これ!」
少ししゃがれたその声に、里奈の心臓が勝手に跳ねる。大きな衿の白いシャツに黒いスリムなパンツ、ヘアクリップを刺した黒いシザーズバック。仕事着のままの誠也だった。
「お袋から預かったんだ。もう智ちゃん来ちゃった?」
誠也は息を切らしながらそう言うと、順の手に小さいタッパを握らせた。
「なあに?」
「梅干し。昨日賢さんに渡したのに忘れたって」
マスターの賢は、智の後ろでしまった、という顔をした。昨日は火曜、賢は千春といつものデートを楽しんでいたはずだ。その時に頼まれていたらしい。
「あ、これもしかして噂の、千春ママの自家製梅干し?」
目を輝かせる智に気付いて、誠也は微笑んだ。
「よかった、智ちゃん! お昼これから? 順悪いけどこれでおにぎり作ってあげてってさ……おっと」
同じテ−ブルの里奈を認めると、にっと笑ってゆっくりと頭の先から視線を滑らせる。
今日は両サイドをひねって後ろで一つにバレッタで留めているだけ。彼の言うことを聞いた訳ではないけれど、彼の指示通りケアは怠らない里奈の髪はしっとりと輝いていた。
「里奈ちゃん、今日もちゃんと綺麗にしてるね。よろしい」
誠也は大袈裟に頷きながら満面の笑みになる。里奈はつい微笑み返したくなる自分を必死で戒めた。
「……どうも」
冷静にそう言って軽く頭を下げ、またパスタを頬張った。したり顔みたいな誠也の表情が疎ましい。
「俺も、ついでに食べてこっかな」
誠也は里奈の隣にどっかりと腰を下ろした。ふわっと彼のつけているフレグランスが漂う。爽やかで甘いだけでなく、どこかをくすぐられるような、気を許せない香り。
「誠ちゃんと千春ママの分、もう容器に入れていつも通りテイクアウトの用意しちゃったわよ?」
そんな順の文句に被るように、ばたばたと大きな足音がした。
「順さ〜ん。遅くなってごめんね。つい、寝坊しちゃって。よかった、ランチに間にあった!」
慌てて入ってきたのは、大学生の海。彼は順の年下の恋人だ。
「……別に、毎日来なくたって」
順は呆れたように呟く。本当はラブラブらしいが、仕事中はそんな素振りを見せないクールな順。女から見ても可愛いと思う。
「ひどいな、順さん……それが、婚約者に言う台詞?」
そう言って海は愛しそうに順を見つめる。その言葉にいち早く反応したのは、智だった。
「婚約者?! 順さんたち結婚決めたの?」
順は慌てて手で制するが、海は臆することなく堂々と微笑んだ。
「はい、おかげさまで」
「今朝OKもらったばかりなんだよな」
賢がからかう様に言うと、海は負けずに言い放った。
「何言ってるんですか。賢さんだってプロポーズしたんでしょ」
聞き捨てならない台詞に、周りにいた他の常連客もどよめく。
「えっ、じゃ賢さんと千春さんも……ついに結婚?」
賢は照れて首の後ろを掻いた。
「うん、まあな。面倒だから式は6月に合同にしようかってな」
「わあ、すてき!」
「おめでとうございます!」
Juneはにわかに活気付いた。
ふといつも明るい誠也が何も言わないのが気になり横を向くと、黙って俯いている。顔色が悪い。
「誠也さん?」
里奈の声に気付いて誠也は顔を上げ、一瞬のためらいの後画面が切り替わったように、ぱっと笑みを浮かべた。そして、賢に向かい、
「俺、聞いてないよ? 息子なのにさあ」
とぼやいた。
「何だ、母親の相手が俺じゃ不満か?」
怒ったような声を上げる賢に、誠也は首を振りながら、
「何言ってんの。俺、実の父親より賢さんとの付き合いの方が長いんだぜ? 音楽も、酒の飲み方も、悪い遊びも、ぜーんぶ賢さんの仕込みだから」
と微笑んだ。
「違いない」
賢も笑う。また辺りは笑顔で包まれたが、誠也の表情は今ひとつ晴れない。
嫌な予感がする。
ーー彼の表情の意味する所、それは。
その時、智が誠也に話しかけた。
「誠也さんも大変ですね! 当日は順さんと千春ママ、ふたり分のヘアメイクしなきゃ」
智はつわりも忘れて、浮き足立っている。
「順さんはどんな衣装がいいですか? やっぱりオーソドックスなのがいいかなあ! 上はクラシカルなレースでシルエットはタイトな感じ? トレーンは思い切り長ーくして、幸せ一杯の花嫁さん、って感じで。私の時は花びらを撒いたんだけど、ライスシャワーもいいですよね。順さんは美人だから何やっても似合いそう!」
智は夢中になって話し続ける。
一方で誠也の顔色はどんどん悪くなっていった。
予感が、確信に変わる。
誠也さんが愛していたのは、
この、順さん。
がたん、と誠也が席を立つ。
「ここで油売ってると怒られるな。やっぱ店の方で食べる。お袋の分も持ってくよ」
順が慌ててサンドイッチの包みと珈琲のポットをさしだす。
「ありがとう、誠ちゃん。悪いわね」
「じゃな」
すっと去っていった後ろ姿を見て、海と賢が目を見合わせる。ふたりの囁きは小さかったが、里奈の耳にははっきりと聞き取れた。
「……まずかったですかね」
「千春、話してなかったんだな。昨日の今日でそんな暇なかったか」
「すみません、俺、考え無しで」
「……どうせいつか知れることだ。気にすんな」
思わず息を飲んだ。
ふたりとも誠也の気持ちを知っている。
とても座っていられず、里奈は立ち上がった。
「……私も、店に戻らなきゃ」
「ああ、御免ね、里奈。私おにぎり作ってもらうから」
「うん、しっかり食べてね」
「はあい」
智の無邪気な笑顔を残して、Juneを出る。
まさか、そんな事が。
今までの誠也の言動が、頭の中でぐるぐると渦巻く。
ーー本気の恋愛なんて、突き詰めたら絶望の連続だよ。
彼の声が春雷のように遠く、響いた。