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捕まる

「さすが、誠也さん! あんまり切ってないように見えて、すっごく垢抜けた感じ。つやっつやだし! わ〜ん、手触りもいい!」


 昼休み、同じビルの2階にある喫茶Juneでランチが来るのを待ちながら、智は里奈の髪を絶賛した。今日は前髪を白い花モチーフのヘアピンで留めているだけ。彼の言うことを聞いた訳じゃないけど、せっかくケアしてもらったから。

「でも誠也さんから声を掛けてもらえて、よかったね。また2週間後? 普通だったらこんなすぐに予約なんて取れないよ?」

 智の無邪気な微笑みが眩しい。

「真也さんの部下だからでしょ」

 そう言い捨てる里奈に、智はずい、と身を乗り出した。

「結婚式の時から思ってたけど、誠也さんて、やっぱり里奈のこと気に入ってるよね!」

 飲んでいた珈琲を吹きそうになる。

「やめてよ」

「ええっ、どうして?」

 智はわざとらしく首をかしげる。

「どうしても!」

 まいったな、と思っていると、

「お待たせしました」

 里奈の前にランチのプレートが置かれた。ここのランチは絶品。いつもサンドイッチかパスタのチョイスだが、今日里奈が頼んだのは茸とオリーブのペペロンチーノ。ごろりとオリーブの実や茸が入っていて、接客業を考慮して無臭にんにくが使われているのが心憎い。智は、サモサ風とタンドリーチキンの二種のピタパンのサンドイッチ。サモサ風は、中の具はゆでたじゃがいもにレーズン、カシューナッツなどをスパイスと混ぜ込んである。タンドリーチキンは自家製ヨーグルトに漬けたためジューシーで柔らかだ。どちらのプレートにもトマトサラダが付いている。

「今日もおいひいでふ、順さん」

 里奈が熱々のパスタを頬張りながら親指を立てると、栗色の髪をひとつに纏めた美しい女性が控えめに微笑んだ。順はこの喫茶店のマスターである賢の一人娘。人気のイタリアンレストランで修行したので料理の腕は折り紙付きだ。マスターの美味しい珈琲とのタッグは最強で、しかもこのビルの従業員は格安で食べられる。それだけでもここに就職して良かったと思うくらいだった。


 その時軽やかな足音がして、すとん、と当たり前のように智の脇に座る。

「順、今日のランチ何?」

 やってきたのは、里奈のボスであり智の夫、真也だ。

「パスタがペペロンチーノ。サンドイッチはサモサ風とタンドリーチキンのコンボ」

 順の言葉に真也はうんうんと頷く。

「サモサ風、いいねえ。久しぶりだな。それいこうか」

 順はわかったというように頷く。彼女は真也の幼なじみだ。順の母が亡くなった頃、順は短い間だが真也たちの住む神崎家に居候していたこともある。今でも真也、誠也と順は兄妹のように仲が良かった。

「サンドイッチ、美味しい?」 

 彼は妻を見つめて愛しそうに微笑む。

「あっと、お邪魔ですかね」

 里奈が腰を浮かすと、

「何言ってんの、結婚してもう半年にもなるのに。今更、ねえ」

 智が照れてそう言ってみるが、真也の方は意に介さず。智の手を憚ることなく握りしめる。ランチの時、智はサンドイッチしか頼まない。それは真也がずっと片手を握っているからだ、というのはJuneでは有名な話だった。

「ところで里奈ちゃん」

 真也はにやりとして里奈を見る。

「どうも朝から俺のこと避けてた気がするんだけど? 綺麗になったね、髪」

 昨日の今日で彼にからかわれるのが嫌で、店で忙しい振りをしていたのがお見通しだったとは。

「はあ、お陰様で」

 里奈はうつむき気味にパスタを啜る。

「里奈ちゃん、髪下ろしてる方が断然いいよ。誠也にもそういわれたでしょ?」

 え。思わず顔を上げた。

「誠也さんと話したんですか?」

「いいや。今日、髪下ろしてるし、あいつならそう言うんじゃないかと……当たった?」

 得意そうに笑う。この兄にしてあの弟あり、だ。ほんと、侮れない。傍らでにこにこしている智の視線も気になった。

「……言われたからじゃないんですけど」

「まあ、いいじゃない。あいつの美容師としての腕は確かだから。使ってやってよ」

「はあ」

 “また来て”とは言われたけれど。


 2週間後の予約の日。

 どうしたものかと迷いつつも、黙ってキャンセルも出来ず、里奈は階段で5階まで上がり、美容室へ向かった。最後の一段で息を整え、手鏡を見て化粧や髪をチェックする。本当はロッカールームで直したいけど、そこまで行くには美容室の前を通らざるを得ないから。大きく深呼吸して足を踏み出す。

 果たして、彼は待っていた。

「いらっしゃい……逃げずによく来たね?」

 微笑むながら歩み寄るその姿に、思わず一歩後退りそうになる。しかし彼の方が一瞬早く里奈の腕を捕らえ、席に案内した。

「ふふ、今更?」

 その視線に晒されて、後悔と期待がせめぎ合う。クロスが巻かれれば、もう彼のひとり舞台だ。

 鮮やかなカットとシャンプー、とろけるようなマッサージ。

 からかわれてはやり込める、刺激的な会話。

 彼は美容の技術同様、話術も巧みだった。どんな話題でも付いてくるし、最後は一歩引いて里奈に譲り、気を使わせない。そういう所は兄の真也そっくりだった。

 結局里奈はいつの間にか彼の美容室に通うことになり、毎回カードには次の予約が書き込まれた。


 しかし彼のプライベートは変わらない。

 月曜の夜、彼は通用口から美しい女性を侍らせ去って行く。時間帯が合うのか里奈は彼の逢瀬によく遭遇した。どうしてあんな目につく場所で待ち合わせるのだろう。自分が勤務する店の店長の弟、しかも親友である智の義理の兄弟である彼。何か言える立場じゃない、言う気もない。


 その夜も女性と消えて行く彼を苦々しく見送っていると、

「相変わらずなのね、誠ちゃん」

 とため息混じりの声がした。

 かちゃん、と開いた扉を固定して、台車を押しながら順が入ってくる。彼女はJuneのランチが終わると、休憩と仕込みのために自宅へ戻り、また夜のバー・タイムのために帰って来るのだ。里奈は順と目を見合わせて苦笑した。彼女はもう何年こんな光景を見ているのだろう。


 病気なのだ、あれは。

 私とは別な人種だから。


 冷たい風が吹いて、ばたん、と通用口が閉まった。




 2012年が明けて、初めての予約は月曜だった。

 いつも女性と待ち合わせる様子を知っていたから、カードの日時を見て思わず聞いてしまった。

「月曜なのに、いいんですか」

「何の心配? 大丈夫だよ」

 と誠也は笑う。   

 月曜7時、そこにはいつもと同じ、店の従業員がほぼいない状況。彼は前の客の分の片付けをしていた。

「ちょっとこれ飲んで待ってて」

 ポットから珈琲を注いでくれる。入れてくれたポットを見るとJuneと書いてあった。

「Juneて珈琲の出前もしてくれるんですか」

「まあ、ランチと珈琲は言わなくても届けてくれるよ。お袋が賢さんの珈琲飲まないとエンジンかからないから」

 順の父であるJuneのマスター賢と、真也と誠也の母千春。ふたりはお互いの伴侶を亡くした後、紆余曲折あって現在は恋人同士だ。お互いを信頼し合っている大人の関係は、里奈や智の憧れだった。

「そういえばマスターとお母様は、結婚しないんですか?」

 つい余計な事を聞いてしまう。

「う〜ん、何だろう、いろいろ考えることがあるのかな。火曜はデートしてるみたいだけど、月曜の夜は家にいるよなあ。部屋でも借りて一緒に住めばいいのに。こんな大きなコブ付きじゃあねえ」

 里奈が飲み終わった珈琲を置くと、誠也はするりとクロスを掛ける。

「今日は、どうする?」

「あ、どうしましょう」

 いつもこの調子。ここに来ることが精一杯で、ヘアスタイルの事まで考えが回らない。髪は商売道具でもあるのに。

「何だよ、張り合いないな。仕事の鬼なんだろ? どういう風にしたいとかないの?」

 そう言われても。誠也の手にかかれば、いつも極上の仕上がりなのだから。

「ごめんなさい、いつも通り、お任せで」

「まあ、綺麗な髪はそれだけでいいんだけどね。シャンプー、先にしようか」

 彼はそのままシャンプー台に案内した。

「掛けるよ」

 顔にガーゼがかかると、少し安心する。困ったり赤くなったりしても、彼に見えないから。誠也のハスキーな声は耳障りが良く、でも時々どきっとさせられて、気が抜けない。


 その時、彼の携帯が低く振動し始めた。

「あ、出て頂いていいですよ?」

「いや、一応接客中ですから」

 意に介さず,シャワーが掛けられる。

「でも」

 本来なら仕事は終わっている時間だ。自分の為かと思うと気が引ける。振動は途絶えてはまた繰り返す。

「……待ち合わせとかしてるんじゃないんですか」

 こんなにしつこいのは女性、と相場が決まってる。

「してるけど、まだ時間には早い」

 してるんだ。なんだか拍子抜けしてしまった。

「がっかりした?」

 見透かされたような声が降ってきて、どきっとする。

「いいえ!」

 即座に答えると、

「いい返事」

 とくすくす笑いが返って来る。


 とそこへ、自動ドアが開く音がして、つかつかとヒールの足音が近づいた。

「誠也! いるなら電話出てよ!」

 女の声だ。待ち合わせの相手だろうか。

「見て分かるとおり、仕事中なんだけど」

「今は、もう閉店時間の筈よ?」

「……仕事中だ」

 ガーゼの下でどきどきして息を潜める。誠也は手を止めることなくシャンプーを流し、トリートメントをつけ始めた。

「何よ!」

 その声の主が、不意に里奈の顔の上のガーゼを取った。

「……!」

 急に視界が開け、眩しくて目を瞑る。

「やっぱり! この子、ブルームの」

「おや、面が割れたよ、里奈ちゃん」

 面白そうに、誠也が笑った。里奈は濡れた髪で仰向けになったまま、起きることすら出来ない。誠也を睨むと、彼はトリートメントを流し、タオルで髪を包んで起こしてくれた。

「どうしたのさ。まだ約束には1時間以上あるじゃない。『9時でもいいから会いたい』って言ったのは君だよ?」

 猫でもあやすような、穏やかな声だ。

「この子のせいで待たされるならごめんよ! 最近ずっとこの子に夜の予約入れてるらしいじゃない。大体、従業員は相手にしないんじゃなかった?」

「だーから、お客さんだ、って。兄貴の店の子だよ? つきあってるわけじゃない」

 誠也はゆっくりと言葉を継ぐ。その声は甘いようでいて残酷なくらい冷静だった。里奈でも分かる。誠也は、この女性を全く愛していないと言うことが。

「今まで真也さんの店の子に、そこまでした?!夜の予約はつきあってる子限定でしょ!」

「そんな決め事はないけどなあ」

「皆言ってるわよ! ルール違反じゃない!」

「だからあ、そんなルールはないってば」

 里奈の髪をタオルで拭きながらのらりくらりかわす誠也。非礼を里奈に詫びもせずまくし立てる女。里奈の我慢の糸がぷつりと切れた。

「いい加減にして!」

 濡れ髪でクロスに包まれたまま、シャンプー台から飛び降りた。

「私は、2週間前、この男がこの時間に予約をしてくれたから、今ここにいるの! 頼まれたってこんな軽い男、こっちから願い下げよ! 男としての興味なんてこれっぽっちもないわ!」

 荒くなる息を整え、出口を指さす。

「分かったら出てって!」

 言われた女は、里奈の剣幕に押され、後ろに下がる。

「何よ、生意気な女! 誠也、今日はもういいわ! 出掛ける気になれない! また今度にして!」

 啖呵を切った彼女に、誠也は静かに微笑んだ。

「……“また”は、ないよ?」

 身体が震えるような、冷え切った声。

「えっ」

「俺のお客に乱暴を働いておいて、“また”はないでしょ」

 じっと彼女を見据える瞳はあまりにも無機質で。

「ルール違反をしたのはむしろ君だ。もう会わない」

 彼は携帯番号をスクロールし、彼女に向けて画面を見せた。はっとした表情を見ると、そこには彼女の番号があるようだった。


“電話帳を一件削除しますか?”


 彼はもう一度その画面を見せながら、しっかりと“はい”のボタンを押す。


“電話帳を削除しました”


「……はい、さようなら」


 ひらひらと手を振りながら微笑む彼の口調は、どこまでも穏やかで。ぞっとする。

 ばたばたと走り去る足音。

 自動ドアが閉まる音で幕は下ろされた。


 里奈は思わず、その場に座り込んでしまっていた。

「ごめんね、嫌な思いさせて」

 誠也は里奈の腕を取って引き起こした。

「……本当に刺されたこと、ないの?」

 里奈は誠也の顔を見たが、彼はいつも通り微笑んでいる。

「ないよ。でも今回はちょっと人を見る目がなかったかな?」

 他人事のように。

「それより、里奈ちゃん……あれは傷ついたなあ」

 声の質が変わった気がした。思わず見上げれば、彼はしっかりと目線を合わせてくる。

「ねえ、俺に男としての興味、本当にこれっぽっちも……ないの?」

 まるで鎌を掛けるような視線。彼の捕食の対象は、もはや里奈に向けられている。嫌だ、捕まりたくない!

「ありません!」

 声が上擦る。

「里奈ちゃん、必死だねえ。俺が怖い?」

 彼は手を掴んだまま、面白そうに笑う。

「やめて下さい!」

「でもさ、ほら、俺、たった今フリーになったから」

 がんがんと警鐘がなる。誰が、こんな男にひっかかるものか!

「とにかく、髪を何とかして下さい。これじゃ帰れない!」

 里奈は手を引きながら叫んだ。

「じゃあ、これから夕飯につきあってくれたらやったげる」

 えっ。里奈は動きを止めた。

「俺、月曜にひとりでご飯食べるの、嫌いなんだよねえ」

 まるで歌でも歌うようなその調子に、苛立ちが募る。

「美容師なんだから、髪を乾かすのは当たり前でしょう!」

 憤る里奈の指の間を、マッサージするように優しく擦る。

「夕飯だけだって」

 身体が熱を帯びる。無理、本当にこれ以上は、絶対無理!

「ねえ……里奈ちゃん」

 頭の中に、ぱっ、と白旗が揚がる。

「もう、分かったから! 離して下さい」 

「いいんだね?」

 彼は心底嬉しそうに笑うと、里奈を席に座らせて、ドライヤーをかけはじめた。

 椅子に預けた背筋が震える。

 この人は、私の手に負えるような男じゃない。

 鼻歌を歌いながらドライヤー操る彼を、里奈は鏡越しにずっと見つめていた。


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