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生け贄の子鹿

 里奈達の職場のロッカールームは、美容室“スプリング”と同じ5階にあった。

 美容室の前を通らなければ、ロッカールームには行けない。

 美容室の店長だった先代のオーナーが従業員の様子をみるためにした配慮らしいが、今は里奈を苦しめていた。


 忙しい筈の誠也が、里奈を認める度に鏡越しに微笑みかけたり、手が空いている時はわざわざ店を出てきて話しかけてくる。


「その服、よく似合ってるよ」


「ねえ、そろそろ店に来ない?」


 壁にもたれて腕を組み、

 口の端にうっすらと笑みを浮かべながら。


 気にしない。

 彼に遊ばれるほど暇じゃないんだから。

 里奈は彼を無視し、受け流していた。


「はーい、里奈ちゃん。今日もご機嫌斜めかな?」

 会う度苦虫を噛み潰したような顔をする里奈を見て、誠也は苦笑した。今日彼は新しいヘアアクセサリーを求めて、ブルームに足を運んでいた。

「いつになったらうちの店に来てくれる?」

「誠也、俺の一番弟子をいじめないでくれるか」

 真也は店のディスプレイをいじりながら弟をいましめる。ウェーブのかかった黒い肩までの髪をシュシュでまとめて、片耳にシルバーのピアス。一見派手に見えるが左手薬指には永遠を誓った控えめな指輪が輝いている。誠也は兄が絡んできたのをこれ幸いと話しかけた。

「なあ、兄貴。今日これから里奈ちゃんちょっと貸してよ」

 ぎょっとして振り返る里奈に、誠也は目線を合わせ口の端を上げた。

「ちょうどキャンセルが出てさ。カットとトリートメントしたいんだ。ヘアアクセの店なんだから、髪はきちんとメンテしなきゃだろ?」

 真也はほぼ伸ばしっぱなしの里奈の髪を見ながら、うう、と唸った。

「確かに、綺麗な髪なのに勿体ないなあ、と思ってはいた」

「えっ!」

 真也までそんな事を。まずい。里奈は救いを求めるように真也を見上げるが、願いは届かなかった。

「お前がいいなら是非頼むわ。但し、うちの大事な店員だからな。毒牙にだけはかけないように!」

 びしっと指さす兄の手を払いのけて、誠也は里奈に微笑んだ。

「ラジャ。じゃ里奈ちゃん、7時ね」

「はあ」

 気がつけば兄弟の口車に乗せられて、彼の美容室に行くことになってしまった。


 5階にある美容室“スプリング”にはもう”Closed”の札が下げられていた。下働きの若い男性が床掃除をしている他は誰もいない。

「ああ、来たね」

 誠也はいらっしゃい、と顔を綻ばせた。

「キャンセルが出たなんて嘘でしょう?」

 こんな時間に、予約を取るわけがない。

「いや、この時間は俺の親しいお客様限定の予約時間なの。他の従業員がいないとお互いリラックスできるでしょう。ほんとにキャンセルだったんだよ?」

 予約ノートを見せて微笑む彼にピンと来た。この時間に来るのは、彼を取り巻く美しい女性達。ふたりきり、耳元で甘い言葉を囁きながら髪を切ってもらうなんて、この上ない贅沢だ。女だったらすぐまいってしまうだろう。

 うっかり彼のテリトリーに足を踏み入れてしまったことを、今更ながら悔やんだ。


 彼は力なく椅子に座った里奈にぱさりとクロスを掛けた。

「少しシャギー入れてもいい?」

 首の所で留める時に彼の指が首に触れてぞくっとする。冷たい指。

「ヘアアクセ使うのに影響が出ない程度なら」

「了解」

 彼は里奈の髪をするりと束ねるようにして持った。それだけで、背筋にざわりと痺れが走る。そうか、髪を切られると言うことは、至近距離で触られるということなんだ。鏡の中から覗き込まれると、まるで喉笛に噛みつこうとしている山猫に見つめられているよう。里奈は首筋をぴんと伸ばした。しゃきしゃき、と鋏が耳の側で鳴る。時折耳の後ろや首筋に触れる冷たい指。押しつけられる身体は温かくて。何か試されているみたい。そう思う自分にはっとして、里奈は心の中で首を振る。

「……誠也さんて、刺されたりしないんですか」

 彼への警戒がつい言葉となる。

「は?」

 突然の質問に理解出来ない様子だ。

「女性に、刺されたりはしないんですか?」

 意味がわかって誠也は、ははっ! と仰け反った。

「何いきなり。物騒だねえ。俺は少なくとも二股はかけないし、付き合ってる時は大切にしてるつもりだけど?」   

 彼の明るい調子に里奈はため息をついた。

 こういう男は寂しさに耐えられず、すぐ次の女性に流れるんだ。

 女たらしは皆、そう。

 気が回って優しくて女を喜ばせる術を沢山持っているけど、だらしない。

 すぐ男を振りかざして威張るくせに、寂しがり屋で甘えるのが得意。

 そのギャップに母性本能をくすぐられて、つい絆される。

 今になればわかる、そんなの、愛じゃない。

「里奈ちゃんは、恋人いないの?」

 彼の言葉は歌うように、あくまで軽く。

「いません。そんなに気軽にほいほい付き合えるような、器用な性格じゃないんで」

 嫌みに聞こえるだろうか。しかし彼は意に介さず、

「里奈ちゃん、今時純情ラブ一直線? 硬いねえ」

 と、からかった。

「そんなんじゃありません。これでも苦労してるんです。身近に反面教師がいるもんで」

 里奈は鏡の中から答えた。

「反面教師?」

「親が離婚してるんです。引き取ってくれた母親は子育てはちゃんとしてくれましたけど、どうしようもない恋愛体質で。常に恋をしてないと駄目な人なんですよ。連れてくる恋人に気を使うのが嫌で、高校時代から兄とふたりで暮らしてました。今はふたりとも就職したんで、別々に住んでますけど」

 そう、と誠也は言うだけで、慰めも言わない。彼も早くに父親を亡くしている。へたな言葉は不要であることをよく知っているのかもしれなかった。

「本気の恋愛なんて、突き詰めたら絶望の連続だよ。結婚してるわけじゃないんだから、今のうちは楽しく、恋のおいしいとこ取りしてればいいんじゃない?」

 刹那を生きる彼には、何かを諦めたような匂いがする。何が彼をそうさせたのだろう。

「私は、そういう終わりの見えてる恋愛の方が、絶望的だと思いますけど」

「里奈ちゃん、若いのに達観してるね」

 彼は話は終わった、と言うように、里奈のクロスを外した。

「だいぶ髪が散っちゃったから、シャンプーしようか」

 改めて綺麗に払ったクロスを掛け、シャンプー台に乗せられる。かたんと後ろに身体が倒された。なんて無防備な姿だろう。生け贄のように胸を差し出し、全てを彼の視線の下に預けて。さあっ、とスコールのように温かいシャワーがかかり、心地よい加減で地肌を洗われる。うっとりしてつい緊張の糸が緩んだ。念入りに洗われ、丁寧にトリートメントを施されて、椅子が起こされる。温かい蒸しタオルを首筋に宛がわれた。

「えっ」

 思わず声が出たのは、手を取られたから。先程まで冷たかった筈の誠也の指が、香りのいいオイルを塗した温かな指に代わり、掌や指の間をじっくりと這う。肩をすくめて、赤くなりそうな自分を必死で堪えた。

「里奈ちゃん、くすぐったがり?」

 誠也は顔を覗き込む。大きな瞳に吸い込まれそう。思わずこくこくと頷く。くすぐったいのとは本当は違うけれど。彼は、ふふっ、と微笑むと、首の蒸しタオルを取って肩を揉み始めた。

「凝ってるねえ。兄貴にこき使われてるんでしょう」

「そんなこと。良くして頂いてます」

「まあ、そうだろうけどね」

 智から聞いていた。この人は自らブラコンだと言って憚らないらしい。誠也が山猫なら、兄の真也はしなやかな黒豹。聡明で美しく気配りに長け、歌やダンスも上手い。早くに父親を亡くした誠也は、そんな兄を心から慕っていた。その間も里奈の肩や首筋を、彼の手が絶妙な加減で揉みほぐす。

「緊張してると痛くなるよ、リラックスして」

 諭すように囁かれて、鎧のような里奈の警戒が解ける。やっぱりプロだ。敵わない。

「そう、そんな感じ」

 彼はマッサージを終えるとドライヤーをかけ始めた。地肌を隈無く這い上がり、ぱらぱらと髪を掻き分ける指。否応なしに触れられてしまう、この異空間。ヘアサロンが、こんな官能的な場所だなんて。官能的? 何考えてるの、しっかりしなきゃ。繰り返し唱えて目を瞑る。

「また、肩に力入った」

 誠也は笑って、ドライヤーを操る。

「本当にいい髪だね。ずっと下ろしてたらいいのに」

 誠也は仕上げのヘアオイルを手に付けて撫でつける。

「そうもいきませんよ。ヘアアクセの店ですよ?」

「やり方はあるでしょ」

 誠也はにっこりする。

「里奈ちゃんだって、自分の髪が好きだからこうして大事に伸ばしてるんでしょう?」

 そんなこと、初めて言われた。

「見たとこ、パーマもヘアダイもしたことないみたいだ。きっと小さい頃からお母さんが大事に手入れしてくれてたんだね」

 確かに、そうだった。いろいろと問題のある母親ではあるけれど、『髪は女の命だから』といつも髪を丁寧に梳かしてくれた。ポニーテールにして可愛いリボンをつけてくれたり、三つ編みを編み込んだり。思えば就職にヘアアクセサリーの店を選んだのも、そんな愛情の籠もった記憶からなのかもしれない。

「でも、私昔から顔色悪くてやせっぽちだから、長くしたまま髪下ろしてるとよく『幽霊』とか『蝋人形』とか言われて、いじめられたんですよ。それが少しトラウマになっているのかも」

 そう言うと、誠也は、ははあ、と言って頷いた。

「それ言ったの、男の子でしょ」

「……そうですけど?」

 誠也はやっぱりね、と笑う。きょとんとして彼を見ると、


「わかんない? 彼は君が気になって仕様がなかったんだよ……色白で、触ると折れちゃいそうに細くて、綺麗な髪の君がね」


 鏡越しでさえ力を失わない眼差しに、じっくりとあぶられる。

 愛撫するように髪をゆっくりと撫でられて。

 おかしくならない方が、どうかしてる。

 ーーなんて、卑怯な。


「いかがですか?」

 クロスを取って、肩にぽんと両手を置かれた。


 金色に縁取られた鏡の中には、

 見たことがないような上等の私。

 とろりと艶めく髪が胸まで零れる。

 頬の線は少し入ったシャギーのせいで柔らかみを帯び、マッサージのせいか血色もいい。

 瞳まで、なぜか潤んでいて。

 その後ろには、肩に手を置いたまま、満足そうに微笑む誠也がいる。


 ーーまるで、一枚の絵の様に。


「見違えたでしょう」

 彼は得意気に微笑んで、小さなカードに何かを書き込んだ。

「次回、2週間後ね」

「え?」

「予約、入れといたから。お得意様は次回まで決めとくの」

 渡されたカードを見れば、予約時間はまた7時。

「沢山の方が待ってるんじゃ」

「いいんだよ、俺が入れたんだから」

 仕上げにさらりと髪を撫でて。

「また、来てね? 君との舌戦は楽しいよ」

 きらりと光る片耳のピアス、そして端のつり上がった大きな瞳が里奈を捕らえる。

「じゃあね、里奈ちゃん」

 その言葉にはっとして、罠から解き放たれた子鹿のように、里奈は挨拶もそこそこに駆け出した。

 

 まずい、まずい……!


 目を瞑っても、浮かんでくる顔、掠れ気味の声。


 絶対に、まずいって!


 触れる指先、どこか淋しげな微笑み。


 堕ちるもんか、何が何でも!


 里奈はかつかつとヒールを鳴らして家路を急いだ。


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