止まない音楽
誠也の新居は、閑静な佇まいの新築マンションだった。
「なんか、すごいとこですね」
磨き込まれたエントランスで、ついきょろきょろしてしまう。自分のアパートがさらにみすぼらしく思えた。古い家は落ち着く、なんて言ってたのに。
「そうでもないよ」
促すように背中が押された。
誠也はオートロックを解除する仕組みを里奈にも教えた。
「いいんですか、私なんかに」
つい言ってしまった言葉に、誠也の顔が歪む。
「『なんか』って何だよ。他の女に教えるとでも?」
「そんなつもりじゃ」
「だって、そう聞こえるぜ? ……ま、今までが今までだもんな」
傷ついたような誠也に、どう伝えればいいのか悩む。
誠也は悪くない、自分が信じられないだけ。
「あの、そうじゃなくて、私が幸せ慣れしてないんです」
「『幸せ慣れ』?」
「あんまりいい恋愛をしてこなかったので……いいことが起こりすぎると、後でまた辛いことが起きるんじゃないかって」
誠也は、そっか、と微笑んで里奈の髪を撫でた。
「幸せに慣れてないのは、お互い様だよ」
エレベーターを呼ぶボタンを押しながら手を引いた。
「慣れていこ……ふたりで。ほら、乗るよ」
エレベーターの扉が静かに閉じる。
「……んっ」
階数ボタンを押す間もなく、すぐに肩を抱き寄せて口づけてくる。抗議のためとんとんと胸を叩けば、片目を開いて里奈越しに、やっとボタンを押した。貪るようなキスは続き、エレベーターの中に水音が響く……目的階に着くまで、延々と。
——ポン。
到着の音と共にドアが開く。誠也はやっと唇を離すと、にやっと笑ってエレベーターの中の防犯カメラに向かって手を振った。
「……!」
「見せつけてやろ」
「誠也さん!」
彼はふふ、と笑うと、自分の部屋のドアを開けた。
玄関に入ると白い樹脂性の女性の手のオブジェが目に入る。しかもその手に引っかけるようにして飾ってあるのは、青い小花の付いた白いレースのガーターベルト。真也との結婚式で智がしていたものだった。誠也に受け取って欲しいと言ったのは智だ。『次の幸せのお裾分けだから』と。
「引っ越したばかりなのにちゃんと飾ってあるんですね」
「智ちゃんと兄貴に怒られるから。それに」
誠也はしみじみと微笑んだ。
「肖りたいじゃん? あんなに愛し合って、一緒にいられたらどんなにいいだろうって、兄貴んちに行く度思ってた」
誠也は、里奈を玄関に座らせ、時折キスを交えながら、靴のリボンを解いていった。足首に指が触れる度にぞくっとする。もどかしい時間が終わると、誠也は荷物と一緒に里奈を抱き上げた。
「きゃっ」
まさかお姫様抱っことは思わず、首筋にしがみつく。
「暴れないで?」
誠也は笑って、そのまま部屋に入っていった。
中はまだ段ボールが山積みだったが、ブラウンを基調とした落ち着いた部屋で、10畳以上はあるリビングダイニング、その他にもいくつか部屋はありそうだった。
そのリビングの大きなソファに、誠也は荷物ごと里奈を下ろした。
「わっ」
里奈は無事だったが、バランスを崩して白いスーツケースがテーブルに落ちる。留め金が緩かったのか、そのまま割れるように中が開いた。
「……!」
まるで花が開くように、ふわっと出てきたのは白いシフォン地のナイトウェア。誠也がぱあっと笑顔になった。
「『裏窓』だ」
里奈は意味がわからず彼を見上げた。
「ヒッチコックの映画だよ。カメラマンの恋人の所に訪ねたグレ−ス・ケリーがスーツケースを開くと、こんな風にナイトウェアが出てくるんだ、手品みたいに。うちの家族はみんな好きでね、あの映画が」
ナイトウェアの下には、バスローブ、下着や着替え、メイク落としや可愛い歯ブラシ、トラベル用の化粧品まで入っている。
「智だわ」
真也とふたり、こんなことまで。あの魔法使いの夫婦め、心憎いことを。微笑みと一緒に、じわっと涙が出てきた。
「……里奈、おいで」
誠也は里奈の涙を指で拭うと、閉めたスーツケースと一緒に里奈をバスルームに案内した。スーツケースを見ながら、少し残念そうに里奈の頬を撫でる。
「これはがっつくな、ってことなんだろうな」
「?」
ふかふかのタオルと一緒に耳元で囁かれた。
「その可愛いワンピース、ほんとは俺の手で脱がせたかった」
「!」
「あまり待たすと押し込んでいくからね? 髪は俺が乾かしてあげるから、まずはバスローブで出ておいで」
誠也が熱い視線を送りながらバスルームの扉を閉めた途端、里奈はその場に座り込んでしまった。
質が悪い! あんな恋愛上級者、太刀打ち出来っこない。
目の前の鏡には真っ赤になった自分の顔が映し出されていた。
それでも本気で押し込まれそうなので慌ててシャワーを浴び、髪を洗い、化粧水と乳液をつけるとバスローブを羽織る。
「……あの、出ました」
すっぴんにバスローブはさすがに恥ずかしくてうつむき加減で目の前に立つと、誠也は『可愛い』と抱きすくめて、すぐに髪を乾かしてくれた。
「じゃあ、俺もシャワー浴びてくるから待ってて。そこが、寝室だから」
「!」
スーツケースと一緒に案内されて、小さなベッドサイドの灯りだけが点される。シャワー浴びてくるから寝室で待ってろ、だなんて。その後の展開が明らかにわかる、大ヒント。ハードルが高すぎるよ。里奈はどきどきしながら部屋の中を見回した。
やはりブラウンを基調にした落ち着いた部屋。チョコレート色のカバーがかけられたベッドはクイーンサイズだろうか、明らかにダブルより大きい。オーディオセットと、CDや本を置く棚があって、奥には大きなクローゼットも見える。お洒落だ、ホテルみたい。
彼がいないうちに、と白いナイトウェアに着替える。フリルも付いているが甘すぎず、柔らかな生地は透けそうに薄くて、ふわっとしていながら身体の線が分かってしまう。なんか狙い過ぎじゃない? 智と真也のほくそ笑む顔が浮かんだ。着替えたものの、どうやって待ったらいいか悩む。ベッドに入っていたらすごく積極的みたいだし。
落ち着かずにうろうろしていたら、ベッドサイドに置いてある椅子に、誠也のシャツが掛けてあるのが目に入った。見覚えのあるそのシャツを手に取って、はっとする。胸の辺りにある染み。夏樹が乗り込んできたあの日、里奈の涙を拭いてくれたシャツだ。もう2週間以上になるのに、あの時のまま。
「里奈」
後ろから声を掛けられてはっとする。バスローブ姿の誠也が、ばつが悪そうに立っていた。
「それ、片付けるの忘れてた」
手から取り上げると、クローゼットを開けて、洗濯物を入れるらしい籠に放りこんだ。
「案外女々しいだろ、俺って」
そう言って里奈が座っているベッドの脇に腰を下ろした。
「……あの時、どうして泣いた?」
夜、このシャツを眺めながら、ずっと自問自答していたのだろうか、あの日のことを。
「”愛こそすべて”……誠也さんは順さんのことを思って聴いていたのかな、って」
正直に言うと、誠也は、そんな事か、と呟く。
「……泣くほど、好き? 俺が」
分かってる。からかうような口調は照れ隠しだ。
「うん、大好き」
躊躇いのない即答に、誠也は嬉しそうに笑う。
「俺は……愛してる」
静かに身体を倒された。じっとナイトウェアの肢体に視線が注がれる。
「それ、すごく色っぽい。脱がすの、もったいないけど」
髪を撫でながら、首筋から唇が這っていく。
「里奈、里奈……里奈」
愛しそうに、繰り返し囁く名前。
まるで里奈という鳴き声の猫になったみたいに。
唇は彷徨い、指はまた別の場所へ。身を捩っても、幾つもの快感を同時に仕掛けられて逃げ場がない。
「好きだよ……覚悟して」
並列する言葉が里奈を責める。
想いを告げられれば、幸せで息が出来ないほど。
そんな誠也が望むならなんだってあげたいのに、身体を駆け抜ける快感は耐えられそうになくて、覚悟は足りない。
ボタンにかかる彼の手を、無意識に退けようとしては外される。
「誠也さん、ねえ……誠也さんっ」
「なあに? もう降参?」
気付けばナイトウェアはもうベッドの下。
里奈の全身が甘いミルクであるかのように、誠也は舌で味わっていく。
「まだ何にもしてないよ。まだ、なあんにも」
子供をあやすように誠也は言って、自分のバスローブに手をかける。腰紐に手をやり、すっと引っ張る。はらりと胸がはだけた。すっと袖を後ろ手に抜くその姿が壮絶に色っぽくて、目が離せない。
「何て目でみるんだか」
誠也は苦笑しながらバスローブを放る。
「だって、夢見てるみたい」
こんな綺麗な男が、自分を欲しがる事実が。
「私で、いいの?」
やっぱり、この幸せにはなかなか慣れない。そんな里奈を諭すように誠也は妖艶に微笑んだ。
「誰と比べてるか知らないけど、俺にとって君は……極上。夢見てるみたいなのはこっちだ」
そう言いながら、獲物を追いつめるように里奈の足元からじりじりと這い上がってくる。端の上がった大きな瞳が薄闇にきらりと光って。
「だから俺のものだってわかるまで、隅々まで愛したい」
赤裸々な言葉とのしかかる身体の重みが、官能の炎を煽る。
「お喋りは……おしまいだ」
幾億もの波が、押し寄せては返す。
目を瞑れば、ミラーボールの光の洪水が戻ってくる。
赤、青、緑……きらきら、きらきら。
このパーティーに招待されたのはふたりだけ。
星の瞬きが消え、空が白むまで、
ロマンティックな音楽は、止まない。