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月曜日の夜

 月曜日の夜。


 いつもの通用口から帰ろうとした里奈は、また、見てしまった。


 茶色い短めの髪を耳の近くで山猫の様に立たせた、すらりとした男の後ろ姿。その首に巻き付く、派手なネイルアートを施した指。軽いリップ音が響いて、満足したように、女の指が離れる。里奈の足音に気づいて振り返る彼の、口元がぬらりと光るのは彼女のグロス? それとも……。

「里奈ちゃん、お疲れ。今、帰り?」

 男は何の屈託も無くにっこり微笑む。まるで食事でもしていたかのように。

「……お疲れさまです」

 里奈は俯き加減で彼の脇を通り過ぎる。彼に巻き付いていた爪の主が、けらけらと甲高い声で笑っていた。耳を塞ぎたくなる。里奈は猛然と歩き出した。


 月曜日の夜。

 それは火曜日が休みの里奈にとっての週末。そして同じビルの5階で美容師として働く彼、神崎誠也も。

 彼は本気の恋はしない。付き合うのは後腐れのない捌けた女性だけ。そして美容室の客と付き合うことはあっても、同じビルに勤める女性達には手を出さないのがルール。月曜の夜、その時々の女達がここで待ち、彼をピックアップして夜の町に消える。

 何度となく見た、彼に寄り添う美しい女達、絡めた腕、妖艶なキス。


 里奈は3年前、このビルにあるヘアアクセサリー店“ブルーム”に就職した。ブルームの店長は神崎真也。誠也の兄だ。彼らの死んだ父、そして美容室“スプリング”の店長でこのビルのオーナーである母親も美容師、という美容師一家。里奈のボスである真也も元美容師だからか、女性を美しくすることに長け、仕事にも馬鹿が付くほど熱心だった。

 里奈も尊敬する真也の下いつも仕事には全力投球だった。この仕事が好きだったし、早く独り立ちしたいという決意も固かった。

 離婚して里奈と兄を引き取った母は、ふたりに大きな愛情を注ぐ一方で、恋多き女だった。経済的に自立できないために、恋愛が泥沼化することも少なくなかった。母の苦労を見るにつけ“自力で稼げなければ男に依存せざるを得ないんだ”と呪文のように繰り返し、里奈は猛然と働いた。懸命に仕事をするうち、店長の真也に気に入られて、未だに周囲からは「店長の一番弟子」と呼ばれている。

 そのうち里奈は同じビルのショップ店員の智と知り合った。彼女も又仕事馬鹿で、ふたりはうまが合い、すぐに互いの家を行き来するほど仲良くなった。里奈を通じて智と真也は出会い、恋に落ちる。プロポーズには里奈も一役買って、ふたりは去年の5月に結婚した。


 その結婚式で、智のヘアメイクを担当したのが誠也だった。


 ”ブルーム”や”スプリング”が入ったビルのオーナー、神崎千春を母親に持つ人気美容師。彼の技術は勿論、容姿やバックグラウンド、人当たりの良さも手伝って、予約はいつも一杯だ。プライベートの女性関係も華やかで、火曜は“営業”と称していつも違う相手とデート。里奈が伝え聞いていた彼はそんな人物だった。

 式の受付を頼まれていた里奈が打ち合わせをしようと花嫁控え室に入ると、そこに誠也はいた。

「君がもうひとりの仕事馬鹿、里奈ちゃんだね。神崎真也の弟の誠也です。兄貴が公私ともに大分世話になったみたいで」

 そう言いながら、にっと三日月のように笑う。口元は兄にそっくり。長い睫毛に縁取られ端がくっと上がった大きな目、小さい顎、耳に近い所の髪が逆立っていて、まるで、山猫みたい。そっと観察しながらぺこりと挨拶すると、彼は突然近付いて来て無遠慮にじろじろと里奈を見た。

「ねえ、その髪、自分でやったの?」

「あ、はい、そうですけど?」

 ぐるり、と後ろに回り込む。まるで獲物を嗅ぎ回るような執拗さに里奈は唖然として立ちすくんだ。

「さすが、兄貴の一番弟子。とっても上手にできているけど、せっかくこれだけ長さがある綺麗な髪、全部アップにするの、もったいないよ」

 長い黒髪は里奈にとって自慢でもあり、コンプレックスでもある。幼い頃から大切に伸ばしてきて、なるべく染めず、パーマもかけずにきた。しかし色白でスレンダーな里奈は、時として“幽霊みたい”などと言われるので、なるべくただ垂らすだけの髪型は避けてきたのだ。今日はブルームのヘアアクセを使ってシニヨンに纏め、上から噴水のように余った髪を垂らしていた。

「すぐ済むから。解くよ?」

 里奈が念入りに施したヘアピンや飾り付きのコームが、あっという間に外される。元々癖の付きにくい里奈の髪はたちまちすとんと滑り落ちた。ブラシで解きながら、サイドを細い三つ編みに編んで行く。左2本右1本の三つ編みをサイドからアシンメトリーに這わせてたわませ、里奈の使っていたコームで耳の高さ程で留めた。コームには淡いグリーンの小花とビーズが施されている。カシュクール風の淡いグリーンのワンピースと揃えたのだ。

「どう? その服にも合ってるでしょ」

 誠也は里奈を鏡の前に押し出した。頭を左右に振ると艶やかな髪がさらりと胸のあたりで揺れる。手鏡を持たされて後ろやサイドも確認した。非対称な三つ編みのラインとカシュクール風のワンピースと相まって、里奈は神話の中の女神のようだ。さっきの髪型は服に合っていなかったのが今になればわかる。しかし彼は決して“合わない”とか“おかしい”とは言わなかった。自分が強引にやったと思わせて手直ししてしまうそのソフトなやり方と、確かな技術。さすがだ、と思った。

「里奈、綺麗! SF映画に出てくるお姫様みたい! すごーい、誠也さん」

 美しく着飾った花嫁から絶賛を受け、誠也は得意気に微笑んだ。はしゃぐ智の傍ら、里奈は冷静に鏡の中の自分を見つめていた。

「……気に入らなかった? ごめんね、勝手にしちゃって」

 誠也は里奈の反応が気になったのか、鏡越しに顔を覗き込む。

「いいえ、気に入ってますよ。びっくりしました、こんな短時間でここまで素敵にしてもらって。やっぱり、店長の弟さんだな、と思いました」

「え?」

「智もね、うちの店に来た時、真也さんに髪をあっという間に綺麗にまとめてもらって、それで恋に堕ちちゃったんですよ」

「やだ、里奈! そんなこと言わないで!」

 智は真っ赤になって里奈の腕を叩く。


「ふうん、じゃあ……君も?」


 少ししゃがれた誠也の声が降りてきた。

「はい?」

 里奈が振り返って誠也を見上ると、誠也は親指で自分を指差し、にやりと微笑んだ。


「恋に……堕ちちゃった?」


 端の上がった大きな目が一層強くきらめいて、狙うように里奈を射る。


 ——きっと皆、この目にやられるんだ。


 里奈はぐっと力を込めて誠也を見返した。


「私は、初めから実りのないような恋は、しません」


「ん?」

 誠也は綺麗な片眉を上げた。

「“その他大勢”はごめんです。大体、同じビルで働く女には手を出さない主義なんでしょう?」

 辛辣な里奈の口調に、噂に疎い智はぽかんとしている。

「はは、まいったね」

 誠也はそう言って肩をすくめたが、とてもまいっているようには見えなかった。

 私がいなくても、獲物は豊富にあり、彼は飢えることはない。限りなく家猫に近い野生。里奈はこれ以上彼と人生が交わることはない、と思った。

「……智に受付のことで確認したいことがあるんですけど、今話してても構いませんか?」

 確認をとると、誠也はにっこりして頷く。

「いいよ、もう殆ど仕上げだし。兄貴には焦らすだけ焦らして、式までは意地でも綺麗な花嫁さんを見せてやらないつもりだからね」 

 あらかた道具をしまうと、鏡越しに智に話しかけた。

「5分だけ、休憩してくる。そのうちに話しといて。あ、それから」

 里奈に向き直って、

「よかったら、今度指名して。早めに予約入れてあげるから」

 と、ぴっ、と名刺を出す。彼の名前の入った名刺には、店の番号の他に携帯のナンバーも記されている。

「営業なんて、必要ないでしょう?」

 その言葉に、誠也の口の端が上がる。

「それはどっちの意味の『営業』?」

 まだ言うか。里奈は呆れたようにため息をついた。

「……火曜日のデートじゃない方、です!」

 毅然とした里奈に、誠也は一瞬鼻白んだが、

「面白いね、君、気に入った」

 とすぐに乾いた声で笑った。 

「じゃあ、又後でね、綺麗なお嬢さん達」 

 彼は意味ありげな視線を里奈に残して去っていった。


「でさ、受付のことだけど」

 空気を変えたくて里奈がすぐに用件を話し出すと、智は里奈の手を握った。

「里奈、ちょっといい感じじゃない?」

「……何の話」

 つい声が不機嫌になる。

「またあ。誠也さんの事に決まってるじゃない!」

 智はにこにこと屈託のない笑顔を向けてくる。ため息が出た。

「あのねえ、知ってるでしょ。私は今まで散々ろくでもないのと恋愛してきたの! ああいう軽い男は御免だわ」

 何度となくお互いの家を行き来して、夜通し語った恋愛話。里奈はしっかりしているせいか、つい依頼心の強い甘え体質の男に好かれてしまう。その上、女性にだらしがなかったり、お金にルーズだったり。どうしようもない悪循環の果てに、メルアドや携帯の番号を何度変えたことか。まだ20代前半だというのに、里奈はかなりの修羅場を潜ってきたのだ。

「誠也さんは、ろくでもなくないよ?」

 智は邪気の無い瞳を里奈に向ける。

「あのねえ、あの人の女癖の悪さ、知らないの?」

「だって、ここずっと式の準備でお話してたでしょ、悪い人じゃないのはわかるよ?」

 この子は、人を疑うことを知らないのか。ここまで無事に真也と結婚まで辿り着けたのは、本当に幸運だと思う。

「あのさ、智。女癖が悪いっていうのは病気なの! 天才的に頭が良くてばりばり仕事が出来たって、どんなに優しくて思いやりがあったって、女癖はまた別物なんだってば! 一国の首相とかハリウッドスターだって、身を滅ぼすのを分かってて、何度も浮気したりするじゃん。あれだけは病気だからどうしようもないんだよ」

「……なんか、自分に言い聞かせてるみたい。誠也さんを好きにならないように」

「はあ?」

 里奈は智を見た。にこにこ笑う天使のような笑顔。でも侮れない、天性の鋭さ。ほんと智は接客に向いてる。感覚ですぐに人の気持ちを察し、つかみ取ってしまうんだから。

「あんたみたいに幸せ惚けしてる人の口車に乗らないわよ! さ、打ち合わせしよ!」

 里奈は招待者のリストを広げた。

 決めたんだ。もう大人なんだから。

 無駄な恋はしない。


 ——恋に、堕ちちゃった?

 

 彼の挑むような声が木霊する。


 誰が、堕ちるか!


 里奈はぐっと歯を食いしばった。


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