「本当に結婚できると思っていたのか」と笑われたので、あなたの義手はもう直しません
アルベルトの右手から、紅茶の雫が落ちていた。
白い手袋の人差し指を伝った雫が、今夜の舞踏会のために仕立てられた上着へ落ちそうになる。
リタは工具鞄を足元へ置き、反射的に手を伸ばした。
「待ってください。親指の戻りが遅いので、カップは左手で持ってください」
「油くさい手で触るな」
差し伸べた手を乱暴に払いのけられ、リタは指を引いた。アルベルトは不快そうに眉を寄せ、カップを受け皿へ戻す。
リタは自分の手を見下ろした。爪のキワには、先ほど彼の義手の歯車へ差した油がわずかに残っている。作業を終えてから石鹸で二度洗ったが、染みついた匂いまでは落ちなかったらしい。
「これから大切な方に会うんだ。君も少しは気をつけてくれ」
アルベルトは手袋を外し、控えていた使用人へ渡した。露わになった真鍮の指が、かすかな音を立てて開く。手首の小さな圧力計は正常な値を示している。動作の遅れは、昨日交換したばかりの革の弁が馴染んでいないためだろう。
もう一度だけ調整すれば、彼は気にせずカップを持てる。いつもの癖で手を伸ばしかけ、リタは思いとどまった。
「大切な方、というのは」
「エヴリン・ロズウェル伯爵令嬢だ。来月、婚約を発表する」
応接室の壁で蒸気時計が時を告げ、細い管を通った蒸気が笛を三度鳴らした。窓の外では、飛行船の影が向かいの屋敷を横切っていく。何もかも、いつもの午後と変わらない。
リタは足元の工具鞄に目を落とした。中には、アルベルトの手首に合わせて削った部品が入っている。昨夜、工房を閉めてから二時間かけて仕上げたものだ。今日の調整で取り付ければ、彼もずいぶん楽になるはずだった。
「私と、結婚するのではなかったのですか」
アルベルトは眉を寄せた。彼が聞き間違えたときにする顔によく似ていて、リタは同じことを言い直しそうになった。
「まさか、本当に結婚できると思っていたのか?」
彼が短く笑ったので、聞き違いではないのだと分かった。
「ですが、あなたが言いました。私を妻に迎えたいと」
「事故のあとだぞ。あのころの僕が、まともな気持ちでいられたと思うか?」
アルベルトは面倒そうに息を吐き、左手で上着の襟元を整える。
三年前の病室を、リタは今も覚えている。飛行船の墜落事故で右腕を失ったアルベルトは、食事の皿さえ払い落としていた。
父が営む修理工房へ義手の相談を持ち込んだのは、彼の父親である伯爵だった。跡取り息子に再び不自由のない暮らしをさせたいと、何度も頼まれたことを覚えている。
リタは父を手伝って設計をし、何度も屋敷へ通った。やがて彼が自分で匙を持てるようになった日のことだ。練習に付き添っていたリタも、勧められるまま一緒に冷めたスープを飲んだ。
『君を妻に迎えたい』
冗談にしてはたちが悪すぎます、と笑ったリタの手を、彼は左手で握った。
『本気だ。君がいてくれれば、僕はもう一度外へ出られる』
義手の調整を重ねるうちに、アルベルトは少しずつ以前の暮らしを取り戻していった。屋敷の外へ出られるようになり、やがて夜会にも顔を出すようになったが、結婚の話になると、彼は決まってもう少し待ってほしいと言った。
伯爵である父親を説得するまで待ってほしい。社交界へ復帰するまで、家の事業が落ち着くまで。そのたびに理由は変わったが、結婚の約束を取り消されたことは一度もなかった。昨年リタの父が亡くなり、一人で工房を継いでからも、アルベルトの義手を整えながら、彼が約束を果たしてくれる日を待っていた。
いつか彼と家庭を築くのだから、もう一人ぼっちではない。そう何度も自分に言い聞かせ、父の死を静かに過去に送った。
「先月も、お父様にお話ししてくださると」
「そうでも言わなければ、君は納得しなかっただろう」
彼は壁の時計を見た。
「リタ。君には感謝している。だが、僕にも家の立場があるんだ。商家の娘ならまだしも、修理屋の娘を妻にはできない。君だって分かっていたはずだ」
分かっていたから、何度も確かめたのだ。身分が違うと口にしたのも、父親に相談しなくてよいのかと尋ねたのも、リタのほうだ。そのたびに返ってくるのは、君は僕の言葉を信じないのか、という言葉だった。
「まさか、本当に妻になるつもりだったのか? 愛人ではなく?」
仕事で厚くなった皮膚に爪が食い込み、握り込んだ指の関節が痛む。
「とりあえず、手を見てくれ。今夜はエヴリン嬢に指輪を渡すんだ。落としては困る。大事な日なのに、それでは格好がつかないだろう」
アルベルトが右腕を差し出す。袖口から覗く真鍮の義手は、磨き上げられた表面に窓の光を映している。
リタはその義手を見つめた。指を曲げる力も、手首を返す角度も知っている。眠れない夜には、彼が肘の留め具を必要以上に締めてしまう癖まで知っているのだ。
三年間、リタが丁寧に整備してきたこの手で、別の女性へ指輪を渡す。そのための調整まで、彼はリタに頼むつもりらしい。
「整備は、別の工房へご依頼ください」
「なんだと?」
「引き継ぎに必要な記録は、明日お届けします。故障しているわけではありませんが、細かな動作には調整が必要です。それまでは、指先を使う作業を避けてください」
「仕事に私情を持ち込むのか」
リタは膝を折って鞄を開き、底から帳面を取り出した。彼がようやく腕を下ろすのを見届け、帳面の表紙へ手を添える。
「最初の製作費は、伯爵様から頂戴しています。ですが、そのあとの三年間、整備では部品代しかいただいていません」
「君が、それでいいと言ったんだろう」
「はい。将来、夫になる方だと思っていましたので」
口にした途端、惨めさが込み上げてきた。三年間、彼の言葉を信じていたのは自分だけだったのだ。リタは震えそうになる指を押さえ、静かに帳面を閉じた。ここで泣けば、アルベルトはきっと、そんな約束を本気にしたからだと言うだろう。
「代金をいただいている交換用の部品は、記録と一緒にお届けします。それを最後に、こちらから伺うのは終わりにいたします」
「王都には、いくらでも腕のよい技師がいる」
「ええ。お選びいただけると思います」
リタは鞄を持ち、頭を下げた。
廊下へ出ると、背後から名前を呼ぶ声が追ってきた。今夜だけでも、と続く言葉に足が止まりかける。それでも振り返らず、そのまま歩いた。
玄関へ向かおうとしたところで、屋敷の使用人に呼び止められた。
「お帰りはこちらから、お願いします」
いつものように裏口を案内される。
リタは何も言わず、使用人の示したほうへ足を向けた。三年間、何度も通った細い廊下を抜け、裏庭を横切る。そういえば、この屋敷の表玄関から出入りしたことは、一度もなかった。
使用人用の門を抜けたところで、涙がこぼれた。
夕方の蒸気街道は、帰宅を急ぐ人々で混み合っている。高架を走る列車の下で、リタは鞄を抱え直した。鉄輪が継ぎ目を踏む音に紛れて、一度だけ声を漏らして泣いた。
工房へ帰ったら、明日納める給油器を仕上げなければならない。こんな日にも仕事があることが、今は少しだけありがたかった。
*
翌朝、整備記録と部品をアルベルトの屋敷へ届けた帰りに、リタは文具屋で便箋を買った。
工房へ戻ると、帳場の鍵付きの引き出しを開けた。そこには、アルベルトから届いた手紙が何通も残っている。会いたいと書かれたものも、将来について父と真剣に話していると書かれたものもある。
もう必要のない手紙だと思うのに、捨てられない。リタは手紙を紐で束ね、箱に収めると、引き出しの奥へしまった。今は読み返す気になれない。それでも、あの言葉を信じていた三年間まで、なかったことにはしたくなかった。
引き出しに鍵をかけると、買ってきた用紙を机に広げ、工房の料金改定を知らせる文章を書いた。これまで据え置いていた整備料を見直し、作業にかかる時間や手間に応じた料金をいただくことにしたのだ。
知らせを書いた原紙を、帳場の隅にある蒸気式の小型複写機へ取り付ける。弁を開くと、歯車が低い音を立てて回り始めた。ほどなくして、料金改定のお知らせが一枚、また一枚と刷り上がっていく。
アルベルトの屋敷へ通わなくなれば、そのぶん時間ができる。以前から興味のあった小型蒸気機関の修理も、断っていた商会からの依頼も、今なら引き受けられるかもしれない。
そう考えると、少しだけ気持ちが軽くなる。やりたい仕事はいくつもあった。ただ、彼に会える時間を優先して、自分から諦めていたにすぎない。
機械の規則正しい音を聞きながら、リタは新しい便箋を一枚広げた。刷り上がりを待つ間に、これからやりたいことを書き出してみる。
まず、断っていた商会へ手紙を出すこと。その下に新しい工具を買う、と書き足した。細かな部品を削るための小型旋盤があれば、今より仕事の幅が広がる。値は張るが、これから少しずつ貯めればいい。
そこまで書いて、仕事のことばかりだと気づいた。少し考えてから、蒸気技術博覧会へ行く、と続ける。毎年楽しみにしていたのに、去年も一昨年も、アルベルトの都合に合わせているうちに会期が終わっていた。今年は朝から出かけて、閉場まで見て回りたい。
広場の菓子店で、焼きたての林檎パイを食べること。帰りの時刻を気にせず、本屋で技術書を選ぶこと。女友達と、朝まで飲み明かすこと。
一行埋めるごとに、次にしたいことが浮かんでくる。いつか工房の看板も塗り直したいし、父の古い設計図も整理したい。便箋の下まで埋まり、リタは顔を上げた。一枚で足りると思っていたのに、まだ書きたいことがある。
二枚目を引き寄せ、何から書こうかと考えていると、入口の鐘が鳴った。
「給油器を受け取りに来た」
戸口に立っていたのは、蒸気機関車の運転士オスカーだった。
長身の彼が帽子を取ると、褐色の髪についた煤が目に入る。機関庫からまっすぐ来たのだろう。右の頬にも黒い筋が残っていたが、本人は気づいていないようだ。
オスカーは父の代から工房へ通っている北部鉄道の常連客だ。父親が経営する鉄道会社で、三男の彼は自ら機関車を運転しているらしい。裕福な家の息子がわざわざ煤にまみれて働くのだから、よほど機関車が好きなのだろう。
もっとも、客としては申し分なかった。修理品を受け取ればその場で代金を払い、急ぎの仕事を頼んだときには、必ず追加料金まで置いていく。職人の仕事に厳しかった父も、彼のことは上得意客として大切にしていた。
リタにとっても、もちろん印象は悪くない。工房を継いだ身としては、末永く通っていただきたいお客様である。
そういえば、オスカーは父が亡くなったとき、葬儀にも来てくれた。忙しい仕事の合間に駆けつけ、何か困ったことがあれば遠慮なく言ってほしいと声をかけてくれた。
一方、アルベルトは来なかった。確か義手の調子が悪く、人前に出られないと言っていたはずだ。リタはその言葉を信じ、葬儀の最中も彼の腕を心配していた。
今になって思えば、ずいぶんおめでたい話である。
「給油器は、用意できています」
リタは包みを渡し、釣り銭を用意した。彼が受け取った硬貨を財布へしまう途中で、帳場に広げた紙へ目を留める。リタは慌てて便箋を裏返した。仕事の予定だけならともかく、林檎パイを食べたいだの、本屋へ行きたいだのと書き連ねたものを、客に見られるのは少々恥ずかしい。
オスカーは便箋から目を離し、リタの顔を見た。その視線が目元で止まり、昨夜泣いたせいで瞼が腫れていることを思い出す。何か尋ねられるかと身構えたが、彼は何も言わず、傍らで動いている複写機と、刷り上がったお知らせへ目を向けた。
「値上げか」
「来月からです。材料も高くなってしまって」
「分かった。会社に持っていく分も一枚くれ」
リタは肩の力を抜いた。腫れた目にも、慌てて裏返した便箋にも、何も尋ねられずに済んだ。いつもどおりに接してくれることが、今はありがたい。
「それと、仕事の相談をしたい。古い機関車なんだが、見てもらえるか」
「私でよろしければ。どの型ですか?」
「ハドレー式の二十七号」
リタは釣り銭をしまう手を止め、顔を上げる。
「まだ残っていたんですか、あの機関車」
「来月で運用を終える。最後に記念運行をする予定なんだが、運転席の圧力計がどうにも落ち着かない。会社の整備士も、古い型には詳しくなくてな」
オスカーは困ったように眉を寄せ、帽子のつばを指でなぞった。いつもは機関車の話になると楽しそうに目を輝かせる人なのに、今日は珍しく表情が冴えない。
ハドレー式なら、父が遺した整備書がある。子どものころ、図面の大きな動輪に色鉛筆で丸を描き、ずいぶん叱られたことまで思い出す。リタは工房の奥を見た。古い機関車の資料をまとめてある書棚に、収めてあったはずだ。
「実は、最後の運転を俺が受け持つことになった」
オスカーは少しためらうように、言葉を続ける。
「できれば、その前に直したい」
「見に行きます。明日の午後なら空いています」
「助かる。出張費も見積もりに入れてくれ」
当然のように言われて、リタはペンを止めた。
「どうした?」
「いえ。では、機関庫までの交通費も、見積もりに入れさせていただきます」
「もちろん、そうしてくれ」
リタは帳面へ数字を書き入れた。そういえば、アルベルトの屋敷へ通う交通費は、一度も請求したことがなかった。王都の丘を上る蒸気軌道車の運賃も、三年間、ずっとリタが払っていたのだ。
*
翌日訪ねた機関庫には、鉄と石炭と、熱した油の匂いが満ちていた。
二十七号は、奥の線路に停まっている。黒い胴に赤い車輪を備えた車体は古びていたが、真鍮の銘板だけは丁寧に磨かれていた。運転席へ上がると、年老いた獣の腹へ入るような気がする。
圧力計につながる管を外して調べると、針の急な振れを抑えるための小さな弁が摩耗していた。計器を取り替えるだけでは、また同じことが起こるはずだ。
「部品を削り出します。三日ほどください」
「頼む。古いから諦めろと言われるかと思った」
運転席の床から見上げると、オスカーは窓枠へ手を置き、擦れて塗装の薄くなったところを親指で撫でている。
「ずいぶん大切にしているんですね」
「父が気に入っている機関車なんだ。俺が初めて火夫をやったのも、こいつだった」
記念運行の日には、父親を客席に乗せるのだという。路線を増やし、乗客を運ぶ仕事をしてきたのに、自分では車窓の景色をゆっくり眺める暇がなかったらしい。
「いつか乗せてやると言ったまま、先延ばしになっていた。今度こそ、と思ってな」
「では、きちんと直さないと」
リタは取り外した弁を布に包んだ。最後の運行を、父親に楽しんでもらいたい。そのために頼まれたのだと思うと、整備書を広げるのが楽しみになる。
圧力計を納めたあとも、二十七号の仕事は続いた。
試運転の結果を聞き、再び機関庫へ行く。会社の整備士と相談しながら、読みづらくなった目盛りを塗り直し、予備部品を作る。オスカーは運転中に気になったことを細かく伝えてくれた。
そのおかげで、古い機関車の癖も少しずつわかってきた。父の遺した整備書と照らし合わせながら調整を重ねる時間が、今は楽しみになっていた。
ある日の夕方、工房へ様子を見に来たオスカーが、作業台に並べた部品を覗き込んだ。
「これは、何の部品なんだ?」
「蒸気弁のパッキンを押さえる金具です。古いものは少し歪んでいたので、新しく作り直しているんです」
「こんな小さな金具でも、蒸気漏れの原因になるのか」
顔を上げると、思っていたより近くに彼の青い目がある。リタは慌てて部品へ視線を戻した。
「ええ。大きな機械も、こういうものの集まりですから」
「なるほど。そういえば、みてもらった圧力計の針もずいぶん安定した。前は揺れてばかりで数値を確かめるのも大変だったんだ。ありがとう」
礼を言われて、胸の奥が温かくなる。自分の仕事が役に立ったことを、受け取った人の口から聞ける。それを嬉しく思う気持ちは、まだちゃんと残っている。
オスカーはしばらく部品の仕組みについて質問したあと、翌日の運行準備があるからと帰っていった。
リタは再び作業台に向かい、部品を削って寸法を確かめる作業に没頭する。一段落して、ふと見上げると、時計の針は八時を回っていた。
そろそろ工房を閉めようと、作業台の灯りを落としかけたところで、戸口から声がした。
「灯りがついていたから。まだ仕事か?」
顔を上げると、帰ったはずのオスカーが紙袋を提げて立っていた。袋からは、焼きたてのパンと煮込みスープの匂いが漂ってくる。
「夕飯は?」
「これからです」
「なら、一緒に食わないか。近所の店で買ってきた」
差し出された袋を受け取ろうとして、リタは指先の黒い汚れに気づき、手を引いた。
「手を洗ってきます」
「分かった。これ、どこに広げたらいい?」
「そちらの空いている作業台を使ってください」
リタは工房の奥にある流しへ向かった。石鹸で指先の油を落とし、布で手を拭いて戻ると、作業台には包み紙が広げられ、パンと蓋つきの容器に入ったスープが二人分並んでいる。
椅子まで用意されていた。リタのためには背もたれのある椅子が置かれ、オスカーはその向かいに移した丸椅子に腰掛けている。
「お代は、半分お支払いします」
「今日は俺に出させてくれ。夕飯に誘ったのは俺だから」
仕事の差し入れとして受け取るつもりだったのに、彼はリタを夕飯に誘ったと言った。その違いに気づいて返事が遅れたせいか、彼は少し困ったように頭を掻いている。
「迷惑、だったか」
「いいえ。嬉しいです」
答えてから、パンを割る手元へ視線を落とす。少し焦げた皮の下から、柔らかな湯気が上がった。香ばしい匂いに誘われて、自然と食欲が湧いてくる。夕飯を楽しみに思うのは、ずいぶん久しぶりだった。
向かいでは、オスカーがスープを口に運びながら、今日の運行であった出来事を話してくれた。途中の駅で蒸気弁の調子が悪くなり、予定より五分遅れて到着したこと。乗客の一人が忘れていった帽子を、駅員が走って届けてくれたこと。どれも取り立てて珍しい話ではないのに、聞いていると何度も笑いがこぼれる。
誰かと向かい合って、こんなにゆっくり夕飯を食べるのは久しぶりだ。工房を継いでからは仕事に追われ、食事も作業の合間に一人で済ませることが多かった。アルベルトの屋敷へ通っていたころも、彼の義手を整えたら帰るだけで、食卓に招かれることはめったになかった。
「そういえば、リタ」
スープを飲み終えたオスカーが、ふと思い出したように口を開いた。
「前に来たとき、何か書いてただろう。ずいぶん楽しそうな顔をしてたから、気になってたんだ」
「楽しそうな顔、ですか?」
「ああ。俺が入ってきたら、慌てて隠してたけどな」
リタは思わず頬を押さえた。あの日、便箋に書き連ねていたのは、仕事の予定と、これからやりたいことばかりだ。林檎パイを食べたいなどという願望まで書いていたのを思い出し、少し恥ずかしくなる。
「あれは、これからやりたいことを書き出していたんです」
「やりたいこと?」
「ええ。今まで時間がなくて、できなかったことを。仕事のことも、仕事以外のことも」
「いいじゃないか。もう何か叶ったのか?」
「古い機関車の整備を引き受けることは、叶いました」
「そうか。それなら、俺も少しは役に立てたな」
オスカーが嬉しそうに笑ったので、リタもつられて頬が緩む。
「二十七号を任せていただけて、嬉しいです」
「ほかには?」
「蒸気技術博覧会へ行くことです。去年も一昨年も行けなかったので、今年こそはと思って」
「毎年、中央広場でやってるあれか。どうして行けなかったんだ?」
リタはすぐには答えられなかった。理由を説明するには、アルベルトとのことも話さなければならない。どこまで話したものかと迷いながら、ひとまず当たり障りのない言葉を選んだ。
「以前は、ほかに優先したいことがあったんです」
「仕事か?」
「仕事も、そうですけど」
リタは手元のパンを小さくちぎってスープにつけたものの、すぐには口へ運べない。
「結婚するつもりの人が、いたんです」
オスカーが顔を上げた。
「その人の都合に合わせているうちに、行きたいところにも行けなくなってしまって。でも、私がそうしたかったんです。いつか結婚するのだから、今は支えてあげたいと思っていました」
口にしてみると、ずいぶん身勝手な理屈だったように思える。アルベルトに頼まれた仕事を優先し、工房の依頼を断り、休日も彼の義手の調整に費やした。そうしていれば、いつか彼と家族になれると信じていた。
「その男とは、今は?」
「結婚しないことになりました。向こうには、別の婚約者ができたそうです」
オスカーはしばらく黙っている。余計なことを話してしまったかもしれないと思い、リタは慌てて笑顔を作った。
「すみません。せっかくのお夕飯なのに、こんな話をしてしまって」
「謝るな。聞いたのは俺だ」
オスカーはそう言って、少し冷めた煮込みスープの容器を寄せる。
「俺がそいつに腹を立てたところで、今さらどうにもならないが」
「私も、どうしてもっと早く気づかなかったのかと思います」
「約束したなら、守るべきだろう。それだけの話だ」
リタは顔を上げる。
オスカーは眉間に皺を寄せていた。慰めの言葉を探しているようには見えない。ごく当たり前のことを言っている顔なので、かえって胸が詰まる。
「父にも、簡単に信じるなと言われていたんです」
「結婚するつもりだった相手を信じて、何が悪い。君が自分を責めることじゃない」
リタは小さく頷き、膝の上で手を握った。
オスカーはしばらく黙っていたが、やがて棚に並んだ二つのカップへ目を向ける。
「茶でも淹れようか。やり方は教えてもらうことになるが」
「そこにある缶を使ってください。お湯は、沸かし直していただければ」
涙声になった指示に、彼は真面目に頷く。
「分かった」
オスカーは椅子から立ち上がると、上着の袖を軽くまくり、棚にある茶葉の缶へ手を伸ばす。
そこでようやく、リタは自分が何を頼んでいるのか気づいた。北部鉄道の経営者の息子で、工房にとっては大切な客だ。その人にお茶を淹れさせて、自分は座っている。落ち着かなくなり、リタは椅子から腰を浮かせた。
「あの、やっぱり私が」
「いいから、座っててくれ。最後まで俺にやらせてほしい」
オスカーはそう言って、慣れない手つきで茶葉の缶を開けた。
隣に並んだリタが淹れ方を教えると、彼はひとつひとつ頷きながら手を動かす。けれど、茶葉の量を尋ねられ、匙に軽く一杯と答えたところで、リタは困ったことに気づいた。彼が手に取っているのは、砂糖をすくう大きな匙だ。
「あ、その匙では少し多くて」
「ん?」
声をかけたときには、茶葉はポットへ落ちていた。オスカーが空になった匙と、棚に残った小さな茶匙を見比べる。
しばらくして二つのカップに注がれた紅茶は、いつもよりずっと濃い琥珀色をしていた。一口飲むと、舌の上に強い渋みが広がる。
顔を上げると、オスカーがこちらをじっと見ている。自分のカップにはまだ口をつけず、リタの感想を待っているらしい。その真剣な表情がおかしくて、リタは笑いそうになるのをこらえた。
「少し、濃いですね」
「少し、か?」
オスカーも自分のカップに口をつけ、途端に眉を寄せた。
「いや、これは相当濃いな」
あまりに率直な感想に、リタは思わず笑ってしまう。
「お湯を足しましょうか」
「頼む。機関車なら、弁を少し動かせば済むんだがな」
オスカーは困ったように笑い、湯を足したカップをもう一度口へ運ぶ。
「次は、ちゃんと匙を確かめる」
次、という言葉に、リタは少し驚いた。彼は二十七号の仕事で何度も工房へ来ているのだから、お茶を飲む機会くらいあるだろう。それでも、またこうして二人で過ごすことを、彼が当たり前のように考えているのが意外だった。
「次も淹れてくださるんですか?」
「ああ。せっかく教わったんだ。少しは上達したところを見せたいからな」
「では、次は茶匙をちゃんとわかりやすい場所に、用意しておきますね」
「頼んだ」
オスカーが真面目な顔で頷くので、リタはまた笑ってしまった。
自分のカップにも湯を足して、一口飲む。今度は、茶葉の香りが分かる。向かいで慎重に紅茶を飲む彼と目が合うと、自然と口元が緩んだ。父が亡くなってから、この工房でこんなに笑ったのは初めてかもしれない。
*
その日からオスカーは、ときどきリタを夕飯に誘うようになった。
勤務で遅くなる日は、昼のうちに使いを寄越してくれる。六時に来ると言った日には、工房の時計が六時を打つ前に、入口の向こうに帽子が見えた。ある晩、リタが少し早く扉を開けると、彼は工房の店先に溜まった煤を箒で掃いていた。
「いつから待っていたんですか」
「今来たところだ」
掃き集められた煤は、今来たばかりの量ではない。リタが笑うと、オスカーは少し照れたように帽子のつばを撫でた。
「ちょっと早く着きすぎたんだ。でも、君の仕事を急がせたくなかったから」
それからリタは、六時の少し前に鏡を見るようになった。爪の油が落ちないことより、頬に煤がついていないかが気になるようになった。
*
アルベルトが工房へ現れたのは、記念運行の前日だった。
入口の鐘が鳴り、見慣れた上着が目に入ったとき、リタの指は一瞬止まった。二十七号の整備記録へ書き込んでいたペン先のインクが、小さな染みになる。
「久しぶりだな」
彼は店内を見回す。以前なら来訪と同時に片づけていた作業台にも、今日は工具を広げたままだ。
「何かご用でしょうか」
「手の調子が悪い。王都の工房へ行ったが、どうにも合わなくてね」
差し出された義手は綺麗に磨かれ、指には新しい革が張られている。手首を返す動きは滑らかで、指もきちんと曲がっていた。整備を怠られているようには見えない。
「温度が上がると、肘が擦れる。署名もしづらい。前は、こんなことはなかった」
「担当の方へ、お伝えになりましたか」
「その都度来てほしいと言うんだ。仕事のたびに工房へ通えると思うか?」
リタはペンを置いた。
彼の帰宅を待ち、書斎で指の具合を確かめた夜を思い出した。舞踏会へ出る日には、踊る相手の手を痛めないよう握力を調整した。寒い季節には、関節の動きが鈍くならないよう油を差し直し、肘当てが肌を擦れば、その場で革を削って合わせた。
それを仕事として数えていれば、いったい何時間になっただろう。
「具合を合わせるには、何度か試していただく必要があります。私が担当しても、その都度お越しいただくことになります」
アルベルトの口元が強張る。
「まだ怒っているのか。君を傷つけたことは、悪かったと思っている」
リタは何も言わず、続きを待った。謝罪のためだけに、彼がわざわざ工房を訪ねてきたとは思えない。
「だから、また頼めないか。君がいないと、不便なんだ」
その先を待つ必要は、もうない。
「お引き受けできません。これからは鉄道関係のお仕事を増やす予定ですので」
「金なら払う」
「代金の問題ではありません」
「明日だけでもいい。エヴリン嬢のご両親と食事をする。食器を落とすわけにはいかないんだ」
また、一度だけ。アルベルトにそう頼まれるたび、リタは自分の予定を変えてきた。彼の役に立てることが嬉しくて、そうするのが当たり前になっていた。
けれど、もう彼のために何かを諦めるつもりはない。明日は、自分が整えた機関車の晴れ舞台だ。ずっと楽しみにしてきた一日を、今度こそ自分のために使いたかった。
「明日は、先にお約束があります」
「僕のことより大切なのか?」
「はい」
思いのほか、素直に答えが出た。
アルベルトは何か言いかけたが、入口の鐘に遮られた。
「リタ、明日のことで」
入口に立ったオスカーは、アルベルトの姿に気づくと、言いかけた言葉を切った。
「客がいたのか。悪い、出直す」
彼は扉に手をかけたまま、リタの返事を待っている。リタは立ち上がった。
「大丈夫です。お話は済みましたから」
アルベルトが彼を見たあと、リタを振り返る。
「その男と、約束が?」
「はい。私が整備した機関車を運転なさいます」
仕事の約束だと、胸を張って言える。オスカーが頼み、リタが引き受けた大切な仕事だ。アルベルトの用事のために空けておく時間ではない。
「リタ。君は、そんなことで――」
「お帰りください」
アルベルトは口をつぐむ。リタが帳場を出て扉へ向かうと、オスカーは何も言わず、脇へ寄って道を空けてくれた。
「腕のことでお困りなら、担当の工房へご相談ください。私がお渡しした記録は、あちらでも使えるはずです」
アルベルトはしばらく黙ってリタを見つめていたが、やがて何も言わずに背を向ける。表に停めてあった馬車へ乗り込むのを見届け、リタは静かに扉を閉めた。
馬車の走り去る音が遠ざかっていく。取っ手から手を離しても、胸はまだ激しく鳴っている。オスカーがそばへ来て、少し身をかがめた。
「自分で、お断りできました」
「ああ。ちゃんと聞いてた」
声に笑いが混じっている。それが嬉しくて、リタも笑った。
「それで、明日は何時でしょう」
「朝七時だ。迎えに来てもいいか?」
「はい。今度は、箒を持つ前に、遠慮なく声をかけてください」
彼は頷き、懐から封筒を取り出す。
「それと、これを渡しておきたくて。会社からだ。来季の整備契約の案なんだが、二十七号の仕事を見て、ほかの車両の計器や部品も頼めないかって話になってる」
リタは両手で封筒を受け取った。中の書面には、工房の正式な名前と技師リタ・ベルの名が並んでいる。契約期間も、報酬も、担当する仕事の範囲も、すべて明らかだ。
「返事は急がなくていい。内容をよく確かめて、分からないところがあれば担当者に聞いてくれ」
「きちんと読んで、お返事します」
リタは書面を帳場へ置いた。父にも見せたい。そう思って顔を上げると、オスカーが笑っている。リタも、受け取ったときより少し大きな笑顔で応じた。
*
翌朝、七時の鐘が鳴る少し前に、オスカーが迎えに来た。工房の扉を開けると、煤ひとつついていない濃紺の運転服が目に入る。いつもより少し改まった姿に、リタは自分の襟元が気になった。
今日はいつもの作業着ではなく、母が遺した青いワンピースに、丈を直した上着を合わせている。鏡の前ではおかしくないと思ったのに、いざ彼を前にすると落ち着かない。リタは襟へ触れたいのを堪え、工房の鍵を掛けた。
「よく似合ってる」
振り返るより先に褒められて、鍵を鞄へしまうだけなのに手間取ってしまう。
「ありがとうございます。オスカーさんも、今日はいつもと違う運転服ですね」
「ああ。新調したんだ。記念運行だからな」
オスカーが少し照れたように襟元を直すと、赤くなった耳が目に入る。朝の冷気のせいかもしれないが、そういうことにしておいたほうが、リタも落ち着いていられそうだ。
駅へ着くと、花で飾られた二十七号が待っている。
客車の窓から、オスカーによく似た年配の男性が手を振っている。挨拶に連れていかれると、北部鉄道の経営者である父親だと紹介された。
「君がリタさんか。倅が君の名前を何度も出すものだから、ぜひ一度会ってみたかったんだ」
親しげな笑みを向けられ、リタは何と答えればいいのか分からなくなった。
「こちらこそ、お目にかかれて光栄です」
どうにか挨拶を返したものの、オスカーが自分の名前を何度出したのか、気になって仕方がない。だからといって、彼の父親に直接尋ねる勇気もなかった。
「二十七号の整備では、ずいぶん世話になったそうだね。古い機関車だから、引き受けてくれる工房も少なくてね。おかげで、こうして最後の運行を迎えられる」
「いえ、こちらこそ貴重な機会をいただきました。私も、あの機関車には以前から興味がありましたので」
「そうか、そうか。倅の言うとおりだな」
「父さん」
隣でオスカーが小さく咳払いをしたが、父親は気にした様子もなく笑っている。
「そうだ、リタさん。今度はぜひ、うちにも遊びに来てください。家族もみんな、あなたに会いたがっているんですよ」
「えっ、私にですか?」
「ええ。妻も息子たちも、その嫁も。みんな揃って、あなたがどんな方なのか興味津々でね。オスカーがあまりに楽しそうに話すものだから」
「父さん!」
今度は、はっきりと慌てた声が上がる。
振り向くと、オスカーが困り果てた顔をしている。耳まで赤くなっているのを見て、リタも急に落ち着かなくなった。
「おや、何かまずいことを言ったかな」
「まだ、そういう話はしてないだろ」
「そういう話とは、どういう話だ?」
父親が面白そうに尋ねると、オスカーは返事に詰まる。
リタは二人のやり取りを聞いているうちに、胸の奥がくすぐったくなってきた。
アルベルトは、父親に自分のことを話すと言っていた。何度も約束してくれたけれど、結局、どんなふうに話してくれたのかを聞くことはなかった。それなのに、オスカーの父親はリタの名前を知っている。母親も、彼の兄たちも、すでに自分のことを聞いているのだ。
「ご迷惑でなければ、機会があれば、ぜひお邪魔させてください」
リタが答えると、父親は嬉しそうに頷く。
「もちろん! 妻にも伝えておこう。きっと張り切って菓子を焼くよ」
「父さん、そろそろ出発の準備があるんだ」
「ああ、そうだったな。では、リタさん。またお会いしましょう」
オスカーは父親に軽く頭を下げると、リタを客車から連れ出した。
廊下へ出たところで、彼は申し訳なさそうに口を開く。
「悪かったな。父は少し……いや、だいぶおしゃべりなんだ」
「いいえ。とても楽しい方ですね」
「家族にも悪気はないんだ。ただ、ちょっと気が早くて……」
言いながら、オスカーはまた耳を赤くする。
リタは笑いそうになるのをこらえた。先ほどまで堂々と二十七号の整備について話していた人が、父親の前ではすっかり調子を崩している。
「でも、嬉しかったです」
「何が?」
「ご家族が、私の名前を知ってくださっていたことです」
オスカーは一瞬驚いたように目を見開き、それから照れくさそうに笑った。
「……よく、話してるからな」
その言葉を聞くと、いったい何回くらいなのだろうと、また気になってしまう。
「オスカー様! そろそろ点検を始めます!」
機関車のほうから整備士の声が飛んでくる。オスカーは振り返って返事をすると、リタへ向き直った。
「悪い、そろそろ仕事に戻らないと」
「私も、最後の点検をさせていただく約束です」
「そうだったな。じゃあ、一緒に行こう」
オスカーに案内されて機関車のそばへ戻ると、整備士がリタのために作業用の上着を用意してくれていた。青いワンピースを汚さないように袖を通し、運転室へ続く踏み段を上がった。
整備士とともに弁の取り付けを確かめ、圧力計へ目を向けた。蒸気を送ると、針は細かく震えることなく上がっていく。
「大丈夫そうですね」
リタは満足して頷き、ようやく肩の力を抜いた。何度も調整した圧力計が、今朝もきちんと動いている。これなら、安心して二十七号を送り出せそうだ。
「ありがとう。じゃあ、こっちへ」
機関車を降りて借りた上着を返し、オスカーに案内されてホームを歩く。彼が指し示した先には、大きな窓を備えた展望車があった。
リタは、切符をもらえただけでも十分なお礼だと思っていた。ところが、案内された席には工房の名札が置かれ、大きな窓からはホームの様子がよく見える。座席の背もたれには柔らかな布が張られ、テーブルには小さな花まで飾られている。
「会社に頼んで、窓の広い席を取っておいたんだ。今日は作業台を離れて、景色を楽しんでほしくて」
「こんな素敵な席を、私にですか?」
「この列車を走らせてくれた人だ。権利はある」
当然のように言われて窓の縁へ手を置き、リタは指先に残る黒い油に気づいた。先ほど圧力計の弁を確かめたときについたものだ。
慌てて手を引き、鞄から手拭いを取り出そうとすると、横から白いハンカチが差し出される。
「これを使ってくれ」
「でも、そんな綺麗なものを汚すわけには……」
「いいんだ。そのために持ってきた」
「そのため?」
「点検が終わったら、必要になると思って」
差し出された布には、小さな機関車の刺繍が施されている。よく見ると、オスカーが握っている端にも薄く煤がついていた。
リタは礼を言って受け取り、指先を拭った。爪のキワに入り込んだ油までは落ちないが、オスカーは気にする様子もない。
「ところで、リタ。終点では機関車の付け替えがあるんだが、その作業はほかの乗務員に任せてある。折り返しまで時間が取れるから、よかったら二人で昼飯を食わないか。仕事の話は抜きで」
リタはハンカチを畳みながら、顔を上げる。
「夕飯のときも、仕事の話はあまりしていませんでしたよ」
「そうだな。言い方を考えてきたんだが、どうもうまくいかない」
オスカーは困ったように笑い、すぐに表情を改めてリタをまっすぐに見た。
「君が好きだ。今日は、そのつもりで誘ってる」
思いがけない言葉に、リタはハンカチを握りしめる。
機関車のほうから名前を呼ばれ、彼はそちらを振り返って「今行く」と短く答える。それから、再びリタへ向き直った。
「返事は急がなくていい」
そう言いながら、彼の視線が一度、リタの手元へ落ちる。帽子を持ち直す指にも、いつもより力が入っている。列車を動かすときには、あんなに落ち着いている人なのに。
自分の返事を待って緊張しているのだと思うと、リタまで胸が苦しくなった。
「私も、あなたと食事がしたいです」
リタが答えると、オスカーはほっとしたように笑った。
「そのつもりで?」
「はい。そのつもりで」
今度は、仕事の依頼でも、お礼の食事でもない。オスカーと二人で過ごす時間を、リタ自身が望んでいる。彼の笑顔がいっそう大きくなるにつれて、リタにも嬉しさが込み上げてきた。
「じゃあ、十二時に迎えに来る」
「はい。待っています」
オスカーが手を差し出す。リタはまだ油の残る指先を見たが、彼の手は引っ込まない。
そっと手を重ねると、大きな掌に優しく包まれた。
彼が運転席へ戻ったあとも、その温もりは掌にしっかり残っていた。
やがて汽笛が鳴り、二十七号がゆっくりと動き出す。車輪が規則正しく音を立て、駅の屋根が窓の向こうを流れていく。リタは座席に腰を下ろし、窓の外を眺めた。
今ごろ、オスカーは運転席で前方を見つめているのだろう。彼の手元では、リタが整備した圧力計が、蒸気の状態を正確に伝えているはずだ。
終点までは、二時間と少し。十二時には、彼が迎えに来てくれる。
リタは鞄を開けて、小さな鏡があることを確認する。昼までにもう一度、髪を整えておこうと思った。
*:.*.:*:。 完 。:*:.*.:*
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