寝室で待っていたのが妻の影武者だったんだが、どうしてくれよう
結婚式を終えての、初夜。
私ことアロシュ王国の王太子ジョシュアは、夫婦の寝室に入る。
ベッドに腰掛けて小さく震えながら緊張の面持ちで待っていたのは、妻アイヴィア…ではなかった。
――妻の影。
よく似ているし、しゃべり方も仕草もよく訓練されているので、初めは気づかなかった。
ただ彼女からは、妻にはない、日陰にいる人間特有の湿っぽい匂いがした。
それによくよく観察していれば、高慢に命令を下したあとで、急いで走り去る部下を労わるように見ていることもわかった。妻は目下の人間に思いやりなどもつ人間ではないのに。
それにしても我が妻は、なぜ初夜をすっぽかすのか。
「初夜を楽しみにしておりますわ」といやらしく私の耳元で囁いていたと記憶しているのだが…
まあ、この影に聞けばわかる。
ドアが閉まると同時に、私は聞いた。
「なぜ妻は来ないのだ?」
「何をおっしゃいますの。来ているではありませんか。私が見えませんの?」
いかにもアイヴィアらしい返答と口調。
「お前はアイヴィアではないだろう。双子の妹か?姉か?」
彼女《《たち》》の祖国であるエイロンシアには、「多胎児は不吉」という言い伝えがある。多胎児が生まれると一人を殺すか捨てるかするのが慣習だが、やんごとなき家の場合には一人を「影」として育てることもあるのだ。
「あまり私を舐めてくれるなよ。この一年、危険な公務のときはアイヴィアに成り代わっていただろう」
「アイヴィアは兵士のために膝をついたりしないし、貧しい民のために目を潤ませることもない」と言うと、影はほんの少し目を見開いて、睫毛を震わせた。
「妹です」
落ち着いている。万一のときには死ぬ覚悟で生きてきた人間だから。
「名前は」
「『影』と呼ばれております」
名前すら、つけてもらえなかったのか。
「アイヴィアから、初夜を代わるように言われたのか」
「はい、殿下」
「なぜだ」
「…」
彼女はどうしようかと思案している。本当のことを言うか、誤魔化すか。
「こんなことをして、お前だけで済むと思うなよ。本当のことを言えば、アイヴィアは助命してやらないこともないし、エイロンシアへの抗議も待ってやってもいい」
私を見つめてから、影は口を開いた。
「妃殿下は、処女ではいらっしゃいませんので」
「はあ…」
私は頭を抱える。なんと浅はかで冷酷な。
命の危険がある仕事で影を使うのは仕方ない。アイヴィアはエイロンシアの王位継承予定者だから。
しかし処女を装うために初夜を影に任せるなど、正気か…?
そもそもそんなことを恐れるくらいなら、なぜ純潔を守らなかった。
「妻の相手は」
「アントワーヌ・デュプエかと」
「うちの宮廷画家だな。お前に公務を代行させるたび、男のもとへ行っていたか」
「おそらく」
「完璧なアリバイだな」
私は侍従を呼び、指示を渡す。王族の妃の不貞は大罪だから、使うかどうかは別にして、証拠を掴んでおかないと。
「王太子殿下、正直にすべて申し上げました。どうか妃殿下とエイロンシアをお助けくださいますように」
「なぜ庇う」
同じ腹から同じ時に生まれたのに、姉というだけで恵まれている女を。
多大な危険を押し付け、「偽装のために純潔を散らせ」と命じるような国を。
「この生き方しか、知らないからです」
――不憫だ。
どれだけ不幸な運命のもとに生まれ、どれだけ犠牲を強いられているのかも、理解していない。
軟弱だと言われても、あまりに不憫なこの女を殺すなど、私にはできそうにない。
それにアイヴィアを処分すれば、この女はどうなるのだろう。
この女は…
「配慮しよう、セレネ」
「…?」
「セレネだ。私がお前に名をやろう」
セレネは自分の名前を何度も何度もつぶやいて、最後にふっと笑った。
その笑顔はまるで月のように静かで、けれど明るくて。
私は指にうっすらと傷を入れ、血をシーツにつけた。
「アイヴィアには『滞りなく終わった』と報告すればいい」
◆
王家の都合に翻弄されて日陰者になってしまった女への、同情心のはずだった。
だからセレネがアイヴィアに成り代わって公務にやってくるたび、できるだけ二人きりの時間をもって、彼女の話を聞いてやった。
「いつも一人なので、こうやってお話しできるのは楽しいです」
「そうか」
「殿下も楽しんでくださっていますか」
「ああ。新鮮な驚きがあるよ」
嘘ではない。アイヴィアの影になるべく育てられたセレネは、高度な教養を身に着けていたし、受けた教育をもとに柔軟なアイデアをもっていた。
「一人だと、あれこれと考える時間が多いので」
「それにしてもだ。先日セレネが言っていた慈善事業の案も、国務会議を通過した」
「わ…嬉しいです」
――ささやかに喜ぶ姿が、三日月のようだと思った。
そのうちに、どうしてだろう、公務に来たのがセレネだとわかるたびに心臓が嬉しがって跳ねるようになった。
…セレネが私といる間に、アイヴィアがあの画家と過ごしているだろうことは、まったく気にならない。
そしてセレネが待っていてくれることを期待しながら、寝室のドアを開けるようになった。
…期待は裏切られるとわかっているのに。
妻の顔をした、妻ではない女。
冷静で、控えめで、陽の当たらない場所で生きる人間に思いを馳せる女。
私がつけた名前を嬉しそうに繰り返して、膝を折って丸くなって寝る女。
思い出すだけで、また心臓が嬉しそうに走り出す。
「愛しい…のか?」
◆
確信がもてないままに、廊下の先にセレネを見つける。アイヴィアとして、どこかへ出かけるようだ。
「我が妃よ、出かけるのか」
「孤児院の慰問に行きますの。汚い子どもから病気が移らないか心配なのですが」
アイヴィアのふりをしなければいけないから、無理に嫌がるそぶりをして。
本当は楽しみにしているくせに。
《妃殿下に頼まれる代行では、孤児院の慰問が好きです》
子どもたちは本物のアイヴィアを知らないから怪しまれることがなくて気軽だし、一緒に絵本を読んだり縄跳びをしたりして遊ぶのも楽しいらしい。
セレネが子どもと遊ぶ…?
――見たい。
「私も行こう」
「…殿下はお忙しいのでは?」
一瞬セレネが眉をひそめたような気がして、心がちりっとざわめく。
「私がついていくと、都合の悪いことでも?」
「…邪推なさらないでくださいまし」
「では一緒に行こう」
「ええ。お好きにどうぞ」
しかし私がついていくのは、彼女にとってはやはり都合の悪いことであったらしい。
「誰だ、その男は」
セレネの姿が見えなくなったと思ったら、孤児院の裏で男と会っていたのだ。
一瞬で腹わたが煮えくり返るようだ。
「お許しを、王太子殿下。エイロンシアの連絡係です」
王宮内でできない話や渡せない手紙は、警備がゆるく人目も少ないここで、やり取りしてきたのだと言う。
嘘ではなさそうだ。
「そうか」
王宮の近くで他国の者が許可も得ずにうろうろしているなど腹が立つはずなのに、なぜかほっとしてしまう。
もう認めるしかない。
――私はセレネを自分のものにしたい。
「セレネ」
「殿下、外でその名前は…」
「いやセレネ、聞いてくれ。愛してる。私は君を愛してる」
セレネは目を見開いた。彼女の目が潤んでくるのが、嬉しい。私の言葉が、彼女の心を動かしている。
「その…君は、どうかな。私のことをどう思う?」
「よくわかりません。でも…いつも、殿下のことを考えています。次はいつ会えるかと」
嬉しい。彼女の言葉が、私の心臓を動かしている。
「私の妃になってくれないか」
◆
それからは、早かった。
アイヴィアに浮気のための時間を与えるためにわざと危険な公務を入れ、セレネを引っ張り出す。
そしてあらかじめ調べておいた「アイヴィアとアントワーヌの愛の巣」に部下を踏み込ませ、浮気の現場を押さえる。
そしてエイロンシアの国王に問う。
「アントワーヌと寝ていたアイヴィアそっくりの女は、本物か偽物か」と。
「一国の王太子妃が欲に負け、宮廷画家と不倫するなど到底考えられぬ。それにアイヴィアとされる女が浮気現場にいるころ、自分は公務でアイヴィアといたのだ」と。
「偶然アイヴィアにそっくりの顔をもった女がいて、王妃の名を騙って宮廷画家を誘惑したのだと思うがどうか」と。
王位継承者の正当性に疑問符をもたらしかねない「王族の妃の姦通」は、大罪だ。
本物のアイヴィアが浮気をしたのなら、アロシュとエイロンシアの関係も悪化する。
だからエイロンシア王は、「アントワーヌといたのは偽物だ」と答えるしかなかった。
「アントワーヌといた女はエイロンシアとは何の関係もなく、当日公務に同行していたのが本物の王妃アイヴィアで間違いない」と。
「…だそうだ。女よ、我が妃だと疑って悪かったな。さすがに頭に血が上ってしまったようだ」
粗末な服を着せられて広間に引き立てられたアイヴィアは、ただ、私と私の隣に立つセレネを代わる代わる睨んでいる。
「公務に同行してくれた妃はもしかして影なのかもしれない、などと思ってしまってな」
アイヴィアは何も答えられない。自分が本物の王太子妃だと証明すれば、自分は姦通罪で一生幽閉され、彼女が愛してやまないアントワーヌは処刑されるのだから。
結局「本物の王太子妃」は、ふしだらな女がそうされるように、鼻と耳を削がれたうえで釈放された。
「一生、日陰で生きるがいい」
私のセレネに、それを強いてきたように。
◆
「セレネ、すまない。セレネとして迎えることができなくて」
エイロンシアが影の存在を認めることはないだろうし、認めたとて影を王太子妃として迎えるのも難しい。
だからセレネは「アイヴィア」として私のそばにいる。
「いいえ、些末なことです。二人のときにはセレネでいられるのですから」
私はベッドで、飽きることなく彼女の髪を撫でる。彼女の髪からは、もうすっかり湿っぽい匂いが消えた。それが嬉しくて。
セレネがそっと私に身体を寄せる。
「人生を与えてくださって、ありがとうございます」




